3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

2019.4.10 バルコニー便り  凍るような雨の一日の東京

2019-04-10 18:49:18 | 日記
こんなに寒い4月は久しぶりである。
子どものころ、4月に雪が降ったことがあったね、と家人と一緒に懐かしいねと思い出を語り合った。

それにしてもものすごく寒い。
ダウンコートと毛皮の襟巻きをまた出してきて着ている。
なんてつめたい雨だろう。

そうこうしているうちに春はどんどん前に進み、花海棠はすっかり葉になってしまった。
椿はまだ咲いているけど。
小手鞠が小さなつぼみをつけ始めた。
そうそう、ジャスミンが赤いつんつんとしたつぼみを膨らまし始めた。
毎年GWのころ、悩ましいにおいを放つのだが、楽しみである。ジャスミンのむせるような香りをかぐとGWが来たのだと思う。
この寒さももうすこしの辛抱。
赤いゼラニウム、白いゼラニウムがぽつぽつ咲いている。
この寒い雨のなかまったく不似合いである。

なでしこやクチナシはただいま準備中。
桔梗の芽が出てきた。今年も約束どおり美しい紫の花を咲かせるのだ。待ち遠しいけれど少し先の話。

紫陽花が次は私の出番というように葉をどんどん広げている。
アナベルは枯れた枝の先に不意に芽を出すのでびっくりものである。

2014年のGWに今の家に引っ越してきたのだが、そのときはトネリコと紫陽花2こぐらいしかなかった我がバルコニー。
今はいろいろな草花が増えて実に個性的な庭になった。5年も経つと草花も雨風になれて、それぞれが自分の位置を持って、バルコニーの住人になるのである。私もその一員なのである。

雨の4月の水曜日にあれこれ草花に話しかけながら楽しんでいるのである。




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NHKの朝ドラ 「なつぞら」を見て涙する

2019-04-10 18:27:32 | TVノート
NHK・朝ドラ、「なつぞら」は戦災孤児「なつ」の物語。
4月1日にスタートして以来、欠かさず見ている。私にしては珍しい。
この前、まじめに見たのは・・・花子とアン、あさが来た、トトねーちゃん、それ以来である。
子どものころは、NHKの朝ドラは日曜日の歴史大河ドラマと並ぶ国民的番組であり、だれもが毎回楽しみにしていた。とはいうものの子どもは学校に行ってしまい、残った専業主婦と自営業主の妻たちによって支えられていたのではないか、と今になって思う。
しかし、いつのころからか、それは、必ずしも国民的番組ではなくなった。

日曜日の大河ドラマ、西郷どん、は何とか見ていた。八重の桜も結構みていた。竜馬伝は欠かさず見ていた。
今やっているマラソンの話は見ていない。竹之内豊が出ているので見ようとおもうのだが、なかなか見るチャンスがない。
一家団欒、日曜の夜はさざえさんをみて、NHKの大河ドラマをみる、という生活スタイルが完全に崩壊しているので、大河ドラマも低迷を続けているのだろうね。


で「なつぞら」のはなし、これは、孤児として上野駅で兄と妹と一緒に浮浪児をやっていた主人公が、刈り込みにあい、孤児院にいるところを戦死した父の戦友が表れて北海道に引き取られていく話。今のところの話であるが、毎回、孤児のなつがかわいそうで、涙なくして見られないのである。
昭和20年の8月15日、戦争が終わった。しかし、東京大空襲で親をなくし、また父親や兄を戦争でなくした子どもたちが大勢いて、貧しくさびしかった。貧困は日本全体にひろがっていて今の比ではなかったのだ。
そこから復興していく日本であるが、復興の途上で戦災孤児たちはどのようなつらい思いをしたかが手にとるように知ることができる「なつぞら」なのである。
浅草の孤児院がたびたび出てくるが、かなりひどく表現されているが、ものがない時代にあって孤児院も大変だったのだと思うのである。
孤児院は今の児童養護施設である。今は、虐待児童ばかりになっているが、戦争直後は戦災孤児のための施設のようなものだった。
「なつ」が一生懸命、牛の世話をしながら新しい生活になじもうとけなげに努力しているシーンをみると「がんばれ」と応援したくなるし、お父さんの遺言の手紙を読むシーンでは一緒に悲しんでしまう。

戦災孤児の話はもうすっかり過去の物語として忘れられているのだろうけれど、私は忘れてはいけないと思うのである。
「なつぞら」をみて、二度と戦災孤児を生んではいけないと思う。戦争回避のために何をすればよいのか、考えたい。
明日の「なつぞら」はどんな話なのだろう。楽しみなのである。


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渋沢栄一は資本主義の父? 慈善事業にも尽力したことで有名

2019-04-10 12:35:47 | 現代社会論
一万円札の新しい顔となるのが渋沢栄一である。
深谷出身だ。その居は北区西ヶ原あたりにあり、なくなるまでそこで過ごした。北区渋沢栄一記念館を訪問するといろいろわかる。飛鳥山にお花見にいったついでに記念館に行くとよい。

渋沢は資本主義の父などといわれているが、資本主義には失業、貧困がつきものである。だからというわけではないが慈善事業にもその名をとどめている。

渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心であったといわれる。財閥を作らず、そのかわり慈善事業や社会事業にかかわった。
東京市からの要請で養育院の院長を務めたことは有名である。
東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもしている。
関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走している。

東京養育院は 明治5 (1872) 年に明治新政府が維新の混乱による困窮者救済のため営繕会議所の付属機関として養育院掛を設け,老幼 240人を収容したのが始まり。その後経営は東京府営 (1876) ,東京市営 (1890) ,東京都営 (1943) と変り,事業内容も行路病者,迷子,捨て子,刑期中の病者などさまざまな種類の対象者の一括収容から,次第に施設の専門化が行われ今日にいたっている。この養育院の初代院長が渋沢栄一である。

ついでにいうと北里柴三郎も細菌学者として有名だが、済生会の初代院長(大正4年~大正12年7月)でもある。済生会というのは
明治44年2月11日、明治天皇が時の内閣総理大臣桂太郎を召され、「医療を受けられないで困っている人たちが、よい医療を受け、再起の喜びをもてるような施設をつくるように」という趣旨の『済生勅語』と、その基金として御手元金150万円を下賜された。これを元に伏見宮貞愛親王を総裁とし、桂総理大臣が会長に就任し、5月30日、恩賜財団済生会が創立。その初代院長が北里柴三郎であったということである。
こういう形で戦前期は社会事業と皇室が密接につながっていたのだが、そして、今でもそういう傾向ではある。

明治の人々が偉いのは、金儲けをして富を蓄え、また研究者として大成してもその一方で貧困や病に苦しむ人々のために何かをやろうとおもっていたことである。

最近の財界政界、お友達優遇で貧困や病に苦しむ人々のために何かやろうなんてこれっぽっちも考えていないよね。情けない。

安倍政権はお札を印刷するだけでなく、渋沢や北里、津田梅子の偉大さをきちんとお勉強すべきなのではないだろうか。
津田梅子が見たら今の政界の体たらく、女性議員の少なさを嘆くと思うのである。日本の女は高い教育を受けてもそれを社会に還元していないと。高い教育を受けて長生きしても社会に役立てていないというのが問題なのである。


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