3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

最近の大学の先生は信用できない

2012-10-17 10:33:41 | 現代社会論
最近の大学、および大学の先生は信用できないと思っている。
もちろん、マスコミも信用していないのだが。

以前の大学は、良くも悪くも、象牙の塔であった。
それに文科省の管理がけっこう厳しく、教員を増員したり、改組したりするのに業績を調査され、十分な業績がなければ認可されないというようなことが普通だった。

知人によれば、最近は、裏口入学のような教員が多すぎるとのことだ。
特命だの特任だの肩書きをふやし、業績も教育経験もなくてもマスコミ受けするようなあるいは就職活動に少しでも「役立つ」ようなどこかのおじさんみたいなのが「教授」、ただし、「特命」で採用されていたりすると、げんなりするという。

ここまで日本の大学は地に落ちたのかと思う。文科省も規制緩和の流れで大学がどんなことやっても知らないふりしてつぶれても知らん顔という感じ。文科省なんか大嫌いだが、それでも、教員審査はどこかがちゃんとやるべきなのではないか、と、その知人の大学教員が言っていた。

トップクラスの難関国立大学でもあやしいそうだ。東大病院だけの問題ではなく、東大だってあれ?って人が「教授」だったりするのだ。ただし、特任、だけど。

特別研究員だの寄附講座だのいろいろ研究費をめぐって攻防があり、企業サイドの研究が主流になっていったりして学問の王道はどこかへいってしまったりする。

へっぽこ大学の教員なんでまったくもって信用できないのである。裏口のような採用ルートがあるから。

大学に勤務する知人にいわせれば、
どんな大学でもまともに採用されようとするとこれは大変なのだという。
業績何本、博士の学位の有無、学術単著の数、欧文論文数(査読付き)、それぞれの分野の掟があるだろうしそう簡単ではない。
そうやって苦労して獲得したポスト、となりには、バカボンみたいな「教授」、なにこれ?世の矛盾を感じる今日この頃。

もっとも、学生のレベルが低いと博士号なんかもっていても紙くずみたいなものなのだろう。それを理解できないのだから。
もっと深刻なのは、雨後の筍の如くある博士課程で低レベルの学位が乱発されている時代、学位さえも怪しいということだ。
アカデミズムの危機である。

日本の大学はどこまで落ちるのだろうか。なんとかしなければ大変なことになる。
どちらにしても勉強したくないような学生を入学させるようなへっぽこ大学は潰すしかないだろうね。


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赤坂憲雄を読んだ-「東北」の生活再建を考える

2012-10-16 07:05:24 | 現代社会論



東北学の赤坂憲雄を読んだ。
柳田国男の再来のような人。

動画や画像を見る限りでは穏やかな学者である。
東北をくまなく歩き、東北の再生を真剣に考えている学者だ。

赤坂氏によれば、東北は東京の植民地である、という。
フクシマにしてもまた東北の限界に達するような集落もみな、東京に労働力などさまざまなものを供給し、自らはやせ細っていった。

それで今回の3.11である。
神戸の震災はまったくモデルにならない。

なぜなら神戸は都市型の災害であり、東北とは異なるからだ。
また、神戸の震災はフクシマはなかった。そこが根本的に異なる。

東北型の生活再建を考えなければならない。そして、長期にわたる放射能汚染と戦わなければならない。そのために土地を離れなければならないということも特別な状況である。

こういったことを踏まえて復興は行われているのだろうか。
疑問である。

東京はすっかり東北のことをそしてフクシマのことを忘れているかのようだ。
電気は眩しく、地下鉄は再び明るい。

原発を全部やめろとはいわないが、東北の再生の道筋をどう立てるのか、全く見えない。
政治家たちが茶番劇をやっているあいだも東北の人々の苦悩は決して癒されることはないのである。

赤坂氏の本に、幽霊の話がでてくる。
これまで幽霊など考えたこともなかったが、たしかに幽霊は出ているのかもしれないと思える。
土着の文化のなかに、既存の宗教を超えたところに東北の鎮魂を考え、その先にだけ再生があるように思える。

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夏のなごりのゴーヤ

2012-10-15 15:55:37 | 日記


もう夏もすっかり終わって秋風が吹くというのにベランダのゴーヤが元気だ。
家人が肥料をやったらしく、ますます元気に茂っている。
たくさん実がなって、嬉しいが、ゴーヤさん、もう秋ですが・・・と言いたくなる。
他の家では、もうゴーヤはきれいに抜かれてしまって秋のモードだというのに、我が家はまだ、ゴーヤが今日も鈴なりだ。

おまけに、テキトーにへちまのたねをばら撒いてみたら、へちまも出てきて、花が咲いている。
おどろくべき生命力、秋風なんのそのである。

温暖化なので夏は長く秋が短くなっているようなので、ゴーヤもそういう季節のめぐり方に敏感に反応しているのだろう。

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日本の子育てはなぜ窮屈なのか

2012-10-15 08:00:00 | 現代社会論
だれかが日本の子育ては窮屈で親を追い詰めていると言っていた。
同感である。

最近は、電車のなかや路上で子どもを連れている親子などに声をかけたり、あやしてあげたり、そういう風景がなくなったと思う。
以前は、子どもがいると可愛いね~って声をかけ、あやしてあげたり、いくつですか?熱出たりして大変でしょう?とか、いろいろ聞いてあげたりしていたものだ。若いお母さんもそうなんですよお、って、話が弾んで、育児の悩みをあれこれ話して気が済んだりしていたものだが、最近はお母さんに話かけるような雰囲気はなく、ベビーカー押してつんつん歩いて行ってしまうし、子どもも生意気で、こまっしゃくれていたりして、あまり可愛く見えなかったりして・・・。困ったもんである。

子どもに声をかけないし地域の人が子どもを叱ることもなくなり、ますます殺伐としているのである。

たしかに変なのも多くて危なくて仕方ないのだが。

どちらにしても窮屈だ。
子どもも親も圧死しそうだ。

電車のなかで、子ども連れをみたら、みなで話しかけ子どもをあやしてあげよう。

競争と市場化の論理で子どもを育てているからじゃないだろうか。
いつも子どもを競わせる、市場の論理で、子どもはお客様になり、地域の仲間とは思わなくなってしまった。

小児科だって子どもは患者様ではなく、あくまでも子どもなのにね。

地域の一員であり、いざ災害になったらみなで一緒に逃げる仲間である。
被災したら一緒に助け合えるように日頃から、子どもをダシに支え合う練習をしておくべきかもしれないね。
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「生活支援戦略」に関する主な論点(案)をよむ

2012-10-14 12:10:53 | 現代社会論
生活保護にメスが本当に入るのか、と思ったが、若者に特化し、さらに、他の生活支援施策についての関連ではなく、あくまでも生活保護限定に議論されていること、また、高齢者の貧困には全くと言っていいほど言及していないというところがかなり問題だと思う。

子どもの貧困は親の貧困であり、祖父母の貧困でもある。若者には親がいてそのまた親がいるのである。子どもの貧困だけを論じるのはナンセンスである。

また、生活保護は基本的に他方優先だから、生保だけを論じるのは無理なはなし。
そこだけではないもできないのである。それでも議論しないよりはマシだが。

中間的就労も障がい者が高齢者の中間的就労もまともにやれないのに若者だけをとりあげては無理としかいいようがない。

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