サッカー日誌 / 2012年05月13日


川崎F、雰囲気盛り上げは最高


J1第11節
川崎フロンターレ 0対2 柏レイソル
(5月12日 等々力スタジアム)

★直行バスで公園内に
 多摩川の南岸、川崎市の等々力競技場は、Jリーグ20年間の間に大きく変わったスタジアムである。建物そのものが変わったわけではない。バックスタンドは改装されたが、基本的には国民体育大会仕様の旧式陸上競技場である。
 変わったのはスタジアム周辺の雰囲気だ。
 連休明けの土曜日、J1第11節の試合を見に行った。ホームの川崎フロンターレは風間新監督のもとで3連勝を狙う。相手の柏レイソルはリーグ4試合連続で勝ち星がない。しかし前年優勝のレベルに戻ってきつつある。そういう点で興味のあるカードだった。
 武蔵小杉駅からスタジアムへ直行バスが出ている。路線バスもあるのだが、これは等々力緑地公園入り口の停留所までである。直行バスは公園の中まではいる。これは、20年前にはなかったことである。

★大相撲ちゃんこの屋台も
 スタジアムの正面に通じる通路が「フロンパーク」と名付けられている。その両側に食べ物の屋台が並んでいる。
 そのなかに大相撲の春日山部屋の「川崎ちゃんこ」があった。この日は五月場所開催中だったためかアルバイトの人びとがやっていたが、1週間前の5月3日の試合を見に行ったときは、ちょんまげ姿のお相撲さんがサービスしていた。
 「川崎在住ブラジル人」によるというブラジル料理の屋台もある。
 子どもたちのための「ばななシュート」の会場がある。大きなバナナの形の障害をカーブしてシュートを決めれば賞品をもらえるというイベントである。
 緑地公園の敷地内で、こういうことが行われている。好天に恵まれた土曜日、家族連れがフロンターレのレプリカ・ユニフォームであふれていた。

★公園内での飲食屋台
 20年以上前から「サッカーを見に行って飲食を楽しめるようにしよう」と、ぼくは主張していた。
 「公園法の規定で緑地公園内では飲食物の販売はできない」というのが、当時のお役人の答弁だった。
 それが、いまでは市民の要求にこたえる形で緩和されている。公園内の雰囲気の盛り上げは最高である。フロンターレのフロントの努力と川崎市の柔軟な対応を評価したい。
 試合は柏の完勝だった。ケガをしていた選手たちが復帰し、ネルシーニョ監督の采配も当たった。川崎は稲本潤一がベンチにも入っていなかった。ケガだろうか? 代わって田中裕介がボランチを務めたが、柏は攻めでは中盤を飛ばして放り込み、守りでは厳しいチェックと厚い布陣で中村憲剛を軸とする川崎の中盤を抑えた。

公園内の屋台、春日山部屋の川崎ちゃんこ。

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サッカー日誌 / 2012年05月10日


歴史に残る香川真司の活躍


ブンデス・リガ2連勝に貢献
(5月5日 ドルトムント優勝)

★ドイツ・リーグで13得点
 西ヨーロッパ各国のリーグのシーズンが終わった。ドイツのブンデス・リガではドルトムントが優勝した。香川真司が31試合に出場、13得点、9アシストで連覇に貢献した。すばらしい。「ビバ!ドルトムント」、「ビバ!シンジ」である。
 いまは海外で活躍している日本人選手は多いが、これまで欧州でプレーした選手の中での別格は、日本人で初めてブンデス・リガに行って活躍した奥寺康彦である。「初めて」という記録は永久に消えない。オクデラの功績は永遠に歴史に残る。
 その後のなかでは、今回の香川真司が断然だと思う。13得点は、欧州主要1部リーグでの日本人選手シーズン最多得点記録である。
 「初」とは違って「最多」は今後、更新される可能性がある。しかし、それでも香川の活躍は歴史に残るものだろうと思う。

★クラマーさんも絶賛
 2011年(昨年)の6月に、女子ワールドカップ取材にドイツに行ったときのことである。
 鉄道の列車に乗ったら「シンジ! シンジ!」のコールを浴びた。最初は、なんのことか分からなかった。「シンジ」は香川真司のことで、日本人が乗ってきたのを見て、ドイツ人の乗客がコールしてくれたのだ――と理解するまでには1分ほどかかった。
 香川は、このシーズン後半は足の骨折でほとんど出場していない。それでも、前半の活躍がドルトムントの優勝に貢献したことを、ドイツの人びとは高く評価していたのである。
 日本のサッカーを知り尽くしているデットマール・クラマーさんは、9月に来日したときに「シンジの活躍には、本当に驚いた」と言っていた。しかし、こうも言っていた。
 「でも、来シーズンも活躍できるかどうかは心配している。自分の経験では、大きなケガをすると、立ち直るのが難しい選手が多いからだ」

★ケガを克服してみごとに復活
 クラマーさんの心配が当たるかもしれない、とぼくも思った。欧州のクラブチームのなかでは、ポジション争いが厳しい。長く休むと、代わりの選手が能力を発揮し、ポジションを奪ってしまう可能性があるからである。
 しかし、クラマーさんの心配は杞憂(きゆう)だった。シンジはケガを克服して見事に復活した。
 2010年の南アフリカ・ワールドカップのとき、香川真司は才能を認められていながら、代表に選ばれなかった。若すぎたのかもしれない。前の年までJ2(セレッソ大阪)にいたためかもしれない。岡田武史監督の「好み」でなかったのかもしれない。
 欧州で活躍することによって「南ア大会の代表に選ばなかったのは間違いだったでしょ」と、シンジが見返しているような気がする。


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サッカー日誌 / 2012年05月09日


埼玉の功労者、藤浪武三先生


師範附属小学校が果たした役割
(高校サッカー90年史断章)

★高校90年の通史を執筆
 ゴールデンウイークは、ほとんど家にこもりきりだった。Jリーグを1試合、見に行っただけである。雨が多かったからではない。締め切りをとっくに過ぎて、延ばしに延ばして不義理を重ねていた原稿を、なんとか仕上げるためである。
 その原稿は「高校サッカー90年史」である。冬の高校サッカー選手権大会は、ことし(2011年度)が第90回だった。それで高体連サッカー部で、この夏に90年史を出版することになっている。そのなかで、1918年(大正7年)からの通史の執筆を引き受けていたのだが、これが意外に難航した。
 ぼくは高校選手権を1957年(昭和32年)の第35回から取材している。90回のうちの
6割以上である。だから、たいていのことは知っているつもりだったのだが、実は知らないこと、不確かなことだらけだった。

★戦前の少年サッカー
 ぼくが最初に取材した第35回大会の優勝校は埼玉代表の浦和西である。監督は藤浪武三先生だった。その記憶も不確かである。
 そこで藤浪監督についても調べ直した。
 藤浪さんは埼玉県浦和の出身である。埼玉師範附属小学校に入学し、小学生のときに関東少年蹴球大会で優勝している。昭和の初期に小学生の大会があったことを改めて認識した。埼玉師範学校に進学して戦前の全国中等学校大会(いまの高校選手権)に3年連続で出場している。
 師範学校を卒業して小学校の先生になった。戦前の師範学校は小学校の先生を養成する学校である。小学校の指導者として関東少年大会に5度優勝している。戦前の少年サッカーに、選手としても監督としても参加していたわけである。

★浦和西を育てる
 藤浪先生は小学校の教員だったが中等学校教員の検定試験を受けて浦和第二女学校の教員になった。そのころ検定で教員資格を得るのは相当の努力家でなければ難しかった。
 浦和第二女学校が戦後の学制改革で県立浦和西高になった。男子も入学するようになったのでサッカー部を創設、育成することができた。そして全国大会で優勝した。
 藤浪さんの功績は、埼玉ではよく知られていることだろう。
 ぼくは藤浪さんを生んだ埼玉師範附属小学校に注目した。
 小学校の先生を養成する師範学校が戦前のサッカー普及に果たした役割は非常に大きい。
 日本にサッカーを本格的に導入した東京高等師範の卒業生が各地の師範学校の教員になった。師範学校には附属小学校があったので、そこで多くの子どもたちが見よう見まねでボールを蹴った。その一人が藤浪先生だったのだろうと考えた。


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サッカー日誌 / 2012年05月04日


川崎・風間新監督の用兵


J1第9節
川崎フロンターレ 4対3 ジュビロ磐田
 (5月3日 等々力スタジアム)

★相馬前監督解任の原因は?
 ゴールデンウイーク後半入りは雨だった。川崎フロンターレの試合を見に行った。等々力スタジアムはスタンドの屋根が小さいので、雨の日に見に行くのには、あまりよろしくない。でも、風間八宏・新監督の用兵を見ようと思った。霧雨にノートを濡らしながら観戦した。
 川崎は開幕6試合の時点で相馬直樹監督をクビにした。前年はJ初采配で11位。まずまず。今季は開幕2連勝のあと、第6節まで2勝1引き分け3敗。まだ「これから」というときに更迭である。
 なぜか? クラブの内部事情は分からないが、いろいろなケースが想定できる。
 一つ考えられるのは、フロントとの対立である。しかし、前年にフロントが連れてきて1年間任せ、さらに続投させたのだから、成績不振を理由にクビにするのなら、フロントの強化責任者も同罪で辞任するところである。でも、そうではなかったようだ。

★監督と選手の対立
 もう一つ考えられるのは、選手との対立である。選手はトレードや補強で顔ぶれが変わるので、これまでの監督と新しいメンバーが合わないことはあり得る。
 監督と選手が対立したときは、選手のほうを切るのが一つの「原則」である。しかし、多くの選手たちが監督に不満を感じている場合は、そう簡単ではない。
 相馬前監督のとき起用されていた選手と風間監督になって起用された選手を比べてみた。
 いちばん目立つのは稲本潤一である、相馬監督のときはベンチが多かったが、風間監督は先発、フル出場で起用している。
 逆に相馬監督のときに主力として起用されていて、風間新監督になって外されているのが左のディフェンダーの小宮山尊信である。このポジションには若手の田中雄大と登里享平が起用されている。

★経験を生かし新戦力も活用
 選手起用には、ケガとか、体調不良とか、いろいろな原因がある。公表できない内部事情もある。だから、安易に断定するわけにはいかないが、相馬監督解任の事情は、単純に「成績不振」のためとは言い切れないのではないかと憶測した。
 風間新監督の第2戦は、乱戦のすえ風間監督の初白星となった。
 31歳の中村憲剛をトップ下に、32歳の稲本潤一をボランチに使っていた。日本代表のスターだった選手の経験を活用していた。
 一方で、19歳大島僚太、29歳の井川祐輔を起用した。年齢、経歴にこだわらず、適材適所で戦おうという意図がうかがえた。
 試合後の記者会見で風間監督は「自分にもやりたいサッカーがあるが、選手たちにもやりたいことがある」と話した。その関係を調整して選手を起用するのが課題だろう。


武蔵小杉駅構内の風間監督の大きなポスター。


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サッカー日誌 / 2012年05月01日


モンテディオ山形の健闘


J2第11節 
東京ヴェルディ 0対2 モンテディオ山形
(4月30日 味の素スタジアム)

★混戦のJ2上位争い
 今シーズン(2012)から、J1とJ2をできるだけ別に日に行うことになったので、J2の試合を見に行きやすくなった。ゴールデンウイーク入り3日目の4月30日、東京ヴェルディ対モンテディオ山形を見に行った。
 前節まで、湘南ベルマーレが勝ち点25で頭一つ抜け出し、山形が勝ち点22で2位。山形は勝って首位争いの足場を固めたいところである。
 ヴェルディは勝ち点19で4位とちょっと後退している。ここで勝って上位に踏み留まらなければならない。
 この試合は夕方の午後5時キックオフだった。首位の湘南は午後2時キックオフで愛媛とアウェーで対戦し、1対2で敗れていた。そのことが分かっていた。上位争いは混戦模様である。それだけに両チームとも、絶対に勝ちたい試合だった。

★セットプレーを生かした山形
 試合は前、後半ともヴェルディが攻勢だった。シュート数は前半8対2、後半8対3とヴェルディが断然、多かった。しかし、ゴールになりそうな鋭いシュートは少なかった。
 山形は、シュートは少なかったが、数少ない攻めの機会を生かした。前半終了近くの40分、山形の秋葉勝の鋭いミドル・シュートをヴェルディのゴールキーパーがはじき出した。そのコーナーキックが萬代宏樹のヘディングにぴたりと合って山形が先取点。これが勝敗の分かれ目になった。
 試合ごとに報道陣に配られる「メディア・ガイド」のなかに試合分析の統計が載っている。
 それによると、前節までの山形の14得点のうち、6得点がセットプレーからである。押されぎみの試合で得点をあげるには、コーナーキック、フリーキック、スローインなどは貴重な機会である。

★ヴェルディに手痛い黒星
 リードされたヴェルディは、後半さらに積極的に攻めに出た。しかし、山形は冷静に守って、その裏をついた。
 後半24分、自陣深くからのフリーキックをゴールキーパーが大きく蹴り、最前線に残っていた中島裕希が受けてすばやく捌いて2点目を決めた。ボールコントロールの巧みさとすばやさがみごとだった。
 山形は5連勝でトップの湘南に勝ち点で並んだ。ヴェルディは地元で優勢に試合を進めながら勝てなかった。大きな痛手である。
 山形は30歳前後のベテランが多い。日本代表に選ばれたようなスター選手はいない。しかし、適切な補強をして、その戦力を生かしている。ゴールデンウイークの連戦を乗り切れれば優勝争いに生き残る可能性が強い。

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