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サッカー日誌 / 2010年04月04日


記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』(中)


読売クラブ黄金時代はなぜ生まれたか?
世代、性別を超えた組織のメリット

★無名選手を育てて日本一に
 東京ヴェルディの前身である読売クラブは、創立の1969年から東京リーグのB(2部)に「日本テレビサッカークラブ」の名前で加盟した。そのときのメンバーは、2~3人の大学リーグ経験者を除けば、ほとんどボールを蹴った経験のないシロートだった。翌年には東京リーグA(1部)にあがり、チーム名を「読売サッカークラブ」と変えた。
 その後、日本リーグ1部にあがるまでは苦労したが、1983年、発足15年目に初優勝。その後、Jリーグが発足するまで日本リーグ通算5度、天皇杯3度の優勝を記録した。これが読売クラブ~ヴェルディの第1期黄金時代である。
 この黄金時代を支えた選手は、ほとんどが読売クラブに入る前は無名の選手だった。ジョージ与那城やラモスは、ブラジルでは協会に登録されていない草サッカー選手だったし、小見幸隆、戸塚哲也、都並敏史、松木安太郎は、少年時代からクラブで育った素材だった。

★トップが高校生や中学生とともに
 無名の素材を育てて黄金時代を築くことができたのはなぜか?
 読売クラブ~ヴェルディの40年記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』を読むと、その秘密が明らかになる。
 初期の読売クラブには、学校チームで名前を知られていたような「有望選手」は来なかった。そのため、たまたまクラブに入ってきた小学生、中学生を育成するほかはなかった。そういう素材が、小見、松木、戸塚、都並など、のちの日本代表に育ったのである。
 ブラジルから来たジョージ与那城やラモスは、午後のトップチームの練習が終わると、夕方から始まるユース(高校生年代)やジュニアユース(中学生年代)にまじって、いっしょにプレーした。紅白試合やミニゲームで、真剣に若い世代の選手たちと争った。それが若いプレーヤーを実戦的に育てた。

★女子のベレーザも鍛える
 黄金時代の選手の座談会で、若手を鍛えたジョージやラモスは「いまのヴェルディには、世代を超えた交流がない」と嘆き、鍛えられたほうの松木や都並は「ぼくたちが育ったのは、上のクラスの人たちといっしょに練習できたおかげだ」と思い出を語っている。
 同じことが女子のベレーザについても言える。トップチームの選手やコーチは、女子の練習にも加わった。彼らは、相手が小学生であろうと女の子であろうと容赦しなかった。
 記念誌のなかで高倉麻子は「5対2のゲームで1時間以上も輪のなかから出られないことがあった」と書いている。攻撃役5人の輪のなかに守備役の2人が入る。外側の5人がパスを回すのを内側の2人が奪おうとする。奪えないと外側の攻撃役と交代できない。
 外側のジョージやラモスは、内側が女の子でも手を緩めなかったのである。それがベレーザの黄金時代につながっている。


※「読売クラブ~ヴェルディの40年記念誌『クラブサッカーの始祖鳥』」に関するお問い合わせは、toiawase@vivasoccer.net まで。
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