サッカー日誌 / 2007年11月03日


日本サッカーリーグの創設(下)


西村章一さんに聞く
9月3日 JFAハウス 日本サッカー史研究会

◆趣旨には賛成、参加は無理
「トップレベルのチームによる全国リーグを作ろう」という動きは、1964年の東京オリンピックのあと、クラマーさんの提言を受けて、すぐ始まった。
 趣旨に反対する人は、サッカー協会のなかにも、チームの間にもいなかった。クラマーさんが、その前から各方面にくどいほど説明を繰り返していたからである。しかし、積極的に「参加しよう」というチームは、なかなか出なかった。
 大学チームの参加は、当時の状況では現実的ではなかった。そこで、実業団(会社チーム)のトップクラスだけではじめることになった。その中心になったのが古河電工の広報部長だった西村章一さんである。
 ところが、会社チームも、ほとんどが辞退した。関東では日本鋼管、三共なども有力チームだったが「参加は無理」ということだった。

◆丸の内御三家で踏み切る
 関東実業団のまとめ役だった西村さんのもとに、古河電工、日立本社、三菱重工業のチームの代表が集まって相談した。その結果、この3チームだけでも踏み切ろうということになった。3社の本社が東京の丸の内にあったので「丸の内御三家」と呼ばれている。
 この3社も、会社側が積極的だったわけではない。サッカー部に若い積極的なスタッフがいたこと、東京オリンピックの代表選手を多く抱えていて社内のサッカーに対する関心が比較的高かったこと、重役クラスにサッカーに理解のある人がいたこと、などの条件が幸いしたと思われる。
 関西では、関西サッカー協会の説得にもかかわらず、日本ダンロップ、湯浅電池、田辺製薬など、当時の有力実業団が軒並み辞退した。まだ、それほど強くはなかったヤンマーディーゼルだけが手を上げた。

◆Jリーグ創設時とは逆の状況
 九州では八幡製鉄(のちの新日鉄)、中国地方では東洋工業(のちのマツダ)がトップクラスだったが、ここも二の足を踏んでいた。とくに八幡を口説き落とすのが難しかったという。Jリーグ創設のときは参加希望チームを振り落とすのが問題だったが、その母体になった日本リーグ創設のときは、まるで逆の状況だったわけである。
 会社側は「社員のスポーツに全国リーグは必要ない」と考えていた。実際には企業の宣伝に利用していても、建前は「社員の福利厚生のためのスポーツ」だったからである。
 当時、日本では「プロ・スポーツはよくないもの」という偏狭なアマチュアリズムが主流だった。だから、西村さんたちは「日本リーグ」がプロ的なものと見られないように、ことさらに「アマチュアとしてのリーグ」であることを強調した。これも、Jリーグ創設のときとは、非常に事情が違うところである。

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