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サッカー日誌 / 2007年10月28日


八重樫茂生の体験したサッカー


10月22日JFAハウス 日本サッカー史研究会10月例会

◆メルボルンからメキシコまで
 後藤健生さんとぼくの主宰で「日本サッカー史研究会」を月に1回、開いている。
 10月は八重樫茂生さんに来てもらって、主として1956年メルボルン・オリンピックから1968年メキシコ・オリンピックまでの日本代表チームについて話してもらった。
 八重樫さんは、メルボルン・オリンピック予選のときに初めて日本代表に入った。戦前、戦中の選手で構成していた全日本を一挙に若返らせたときに選出されたのである。
 1960年代に日本のサッカーを改革したドイツのデットマール・クラマーさんは、当時「日本でもっともすぐれた選手であり、もっとも伸びた選手だ」と絶賛している。
 1964年東京オリンピックのときの中盤のかなめだった。1968年メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得したときの主将である。メキシコでは、第1戦でケガをして、その後は試合には出られなかったが、チームの精神的支柱だった。

◆主将がユニフォームを洗う
 メキシコ・オリンピックの第1戦でケガをして、以後の試合に出られなくなったあと、選手たちのユニフォームを洗濯した話は、いまや伝説になっている。
「あのころは、洗濯機がないからね。みな、自分で洗うんだけど、試合で疲れ果てたあとに洗うのはつらいんだ。だから洗ってやったんだ」という。
 現在は、大会でも合宿でも、いろいろな雑用は、用具係など、いろいろな人たちが、すべてやってくれる。若い選手たちは、それを当たり前だと思っている。
 メキシコ・オリンピックのころの選手たちは「自分のことは自分でする」のがあたり前だった。それを、いちばんの年長者で、いちばんすぐれた選手で、主将の立場にある八重樫が代わりにやってくれる。「八重さんのために戦わなければ」と、選手たちが燃え立ったのはもちろんである。

◆クラマーさんの伝令
 メキシコ銅メダルへの貢献で、いちばん重要だったのは、八重樫主将が「クラマーさんの伝令」だったことである。
 クラマーさんはFIFAの 技術委員としてメキシコに来ていた。日本の試合のときは、ベンチには入れないからスタンドで見ていた。ケガで試合に出られない八重樫は、クラマーさんの隣に座っていて、クラマーさんの考えを日本のベンチに伝える役目をした。たとえば準々決勝の対フランスで「杉山は疲れてもう限界だ。松本に代えろ」というクラマーさんの指示を、八重樫がスタンドから降りて行ってベンチの長沼監督に伝えた。
 「日本のサッカーで、コーチといえるのはクラマーさんが最初でしょう。それまでの監督は自分の経験から語るだけだった」。八重樫は自分が指導を受けた歴代の先輩監督について、かなり辛口で語った。


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