サッカー日誌 / 2013年04月07日


大分・臼杵ツアー補遺(中)


オフト監督の功績を歴史に留めよう
(3月17日 大分カンファレンス)

★福田正博さんの講演
 「第2回大分フットボール・カンファレンス」で、福田正博さんの講演を聞いた。福田さんは日本代表、浦和レッズでストライカーとして活躍し、その後はテレビ解説者として、おなじみである。
 福田さんはいろいろな監督のもとで、プレーヤーとして、あるいはコーチとして仕事をした。
 そのなかでハンス・オフト監督をとくに高く評価しているとのことだった。
 オフト監督は1992年~93年に日本代表チームの監督を務めた。日本代表初の外国人監督である。
 韓国との試合のとき「人が走るよりもボールを動かせ」と指示した。それまでの監督は「労働量の多い韓国よりも、もっと走れ」という方針だった。その考え方の違いが印象に残っているという。その試合で、先に足がつったのは韓国の選手だった。

★チャレンジを奨励
 オフト監督の方針は、自立した選手を育てることだった。
 監督が指示を出し選手がそれを実行するだけでは、いいチームは出来ない。
 監督は課題を出す。選手は自分の責任で課題を解決し、監督がそれを評価する。
 それによって、選手は達成感を持ち、自信が膨らむ。そういう選手の集まりでチームを作る。
 選手が自分の判断で、リスクを冒してチャレンジすることを奨励した。
 日本の選手はシュートにチャレンジしない。外国の選手が100本シュートするところを50本しかしない。それで得点数が同じなら、効率は日本のほうがいいことになるが、それでもシュートにチャレンジするほうを評価した。
 子どもたちを指導するときも同じで、失敗をとがめないで自分で試みたことを褒めた。

★アジアのトップに押し上げる
 オフト監督は、1992年11月のアジアカップで日本代表を優勝に導いている。日本のサッカーが、戦後、はじめて獲得した公式国際大会のタイトルである。
 その年の8月、北京のダイナスティ・カップでも優勝している。
 翌年10月のワールドカップ米国大会アジア予選では、あと一歩のところまでいきながら、出場権をのがした。
 その「ドーハの悲劇」で、オフト監督の名が語られることが多い。
 しかし日本のサッカーを、アジアのトップに押し上げ、その後の発展の基礎を築いたことを忘れてはいけない。その功績を歴史に残さなくてはならない。
 福田さんの講演のテーマは、選手として向上し、指導者として才能を開花させることだった。その話も有益だったのだが、ぼくには、例として語られたオフト監督のエピソードが興味深かった。

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