ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




巣鴨信用金庫板橋支店。板橋区板橋1-42。1900(平成2)年1月14日

旧中山道の埼京線板橋駅の北の踏切を西へ渡ると板橋区になる。1999年の区分地図に「駅前本町通り」とあるが、今はその商店街の街灯に「平尾宿」の旗が下がっていて、そこに「いたばし縁むすび通り」と書かれている。その通りをしばらく行くと「板橋1丁目」交差点で、写真はその交差点角にあった「巣鴨信用金庫板橋支店」。右奥へいくとすぐ国道17号(中山道)に出る。その反対方向は東武東上線下板橋駅へ向かう。
巣鴨信金のビルは昭和38年の航空写真に写っている。今は「ユニティフォーラム」(1992年8月竣工、7階地下3階建)というマンションに建て替わって、そこに店舗をおいている。

下の写真は巣鴨信金と同じ交差点に面している「細田ガラス店」。ガラス食器の店らしい。戦後の昭和20年代に建ったものかと思うが、看板建築にした外観になんとなく昭和初期の雰囲気が感じられる。


細田ガラス店。板橋1-34。2018(平成30)年6月21日

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吉田町第一名店ビル。神奈川県横浜市中区吉田町4。2009(平成21)年4月5日

ぼくが「防火帯建築」という言葉を知ったのはわりと最近である。戦前築の建物を見て回っていた30年前には、目にはしていてもなんの関心も向かなかった。それが、街路に沿って長い、3・4階建てのビルが横浜の街の景観を特徴づけているらしいと気が付いて、ネットで調べてみると、横浜の戦後の復興に関わる歴史的な建物であった。気が付いた時には、すでに建て直された防火帯建築もかなりの数になったようで、それらを記録できなかったのが残念だ。
吉田町(よしだまち)には「吉田町本通り」に沿って4棟の防火帯建築が連続して並んでいる。伊勢佐木町の方から「吉田町第一名店ビル」「No1吉田ビル」「吉田町第二共同ビル」「吉田町第三共同ビル」。No1吉田ビルと第二共同ビルはくっついているから全部で3棟に見える。
吉田町第一名店ビルは『横浜の防火帯建築と戦後復興』によると、「8人の建築主と神奈川県住宅公社による共同再建型の併存住宅として建てられ昭和32年3月に入居が始まる」とある。また「数年前からバーや飲食店が入居するようになり通りの雰囲気がかわりはじめ、築50年を過ぎた古いコンクリート長屋を活かしたまちづくりが地元町内会・名店街会の若手メンバーを中心に進められている」ということで、写真では下りたシャッターが目立つが、これから変わっていくのかもしれない。




吉田町第二共同ビル。中区吉田町5
上左:2003(平成15)年2月8日
上右・下:2009(平成21)年4月5日








吉田町第三共同ビル。中区吉田町6。左: 2009(平成21)年4月5日、右:2003(平成15)年2月8日

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都南ビル。神奈川県横浜市吉田町10
左:1988(昭和63)年8月6日
右:2010(平成13)年7月8日

吉田橋側のイセザキモール入口からすぐ北が吉田町(よしだまち)で、都橋へ向かう通りに、タイル張りの外壁の風格のあるビルが建っている。都南(となん)ビルという元銀行だった建物だ。写真の側が表とすると、裏側の方が広い大通りに面しているのだが、1・2階の外装を改修しているので、こちらを正面と決める。
『日本近代建築総覧』では「都南ビル、中区吉田町1-10、建築年=昭和3年(1928)、構造=RC5階建、設計=西口為蔵、施工=山口組(長野県松本)」。昭和5年(1930)竣工が正しいらしい(『 YOKOHAMA xy通信>No.352』)。「都南貯蓄銀行本店」として建てられたもの。
既サイトによれば、都南貯金銀行は貯金銀行法により、神奈川県下の23の貯蓄銀行と4の普通銀行が合併して1921(大正10)年12月に弁天通に設立された。吉田町に本店を移したのが1928(昭和3)年。
1945(昭和20)年、大都市に残る9貯蓄銀行が合同し日本貯蓄銀行(協和銀行の前身)が設立されるが、都南貯蓄銀行は日本貯蓄銀行にはいかず、横浜興信銀行(後の横浜銀行)と合同して消滅した(横浜銀行>会社情報>歴史>創立90周年記念誌「地域とともに141年 横浜銀行の歩み」)。
写真の「静岡相互銀行」が都南ビルに横浜支店を出したのは1954(昭和29)年。1989(平成元)年8月 に普通銀行に転換、「株式会社静岡中央銀行」に商号変更した。静岡県沼津市に本店を置く第二地方銀行である。2005(平成17)年4月26日に磯子区丸山に移転した。

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不二家伊勢佐木町店
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-6
2003(平成15)年2月8日

現在の店名は「不二家横浜センター店」である。「伊勢佐木町店」のほうが分かりやすいだろうと思うのだが、横浜の繁華街として伊勢佐木町がまず思い浮かぶのは古い人間になってしまった。今では伊勢佐木町のネームバリューはランクをだいぶ下げてしまった。「伊勢佐木町ブルース」のヒットは50年も昔のことだ。
建物は『日本近代建築総覧』では「不二家、建築年=昭和13年、構造=RC7階建、設計=A.RAYMOND、施工=戸田組」。『不二家HP』 では、伊勢佐木町店新築開店は1937(昭和12)年2月であり、階数も6階建て地下1階。
レーモンドによる「モダニズムの粋」と言われる外観は、とても戦前の建築とはみえない。伊勢佐木町に並ぶ戦後のビルと並んでも、それ以上に新しいビルに見えてしまう。レーモンドの起用が不二家の創業者・藤井林右衛門の企図だとすれば、まだだれも洋菓子など食べない時代にそれで事業を起こした先見性が、建物に現れたのかもしれない。
不二家のHPを見ていたら、「フランスキャラメル」の発売は1934(昭和9)年と出ていた。戦中もあのパッケージで売られていたとは思えないが、どんな経過で、復活したのはいつなのだろう? 今は発売していないから、なんの話か分からない人もありそうだ。

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第三イセビル。神奈川県横浜市中区長者町8。1988(昭和63)年8月6日

中村川の車橋から大岡川の長者橋への大通り(横浜市主要地方道80号横浜駅根岸線、横浜駅根岸道路、長者町通り)の長者町七丁目交差点の角に建つ小さな雑居ビル。「イセザキモール」の商店街の北東側入り口にあるイセビルと同じオーナーのもので、ちなみに第二イセビルが伊勢佐木町二丁目にあるそうだ。
塔屋が目立つビルで、それもアールデコ風なデザインで印象的だ。『ウィキペディア>イセビル』には「1956(昭和31)年度の助成で長者町七丁目に建設された」とある。第一イセビルは関東大震災復興の興建築助成株式会社の助成を受けたが、第三イセビルの助成というのは、戦後の横浜市建築助成公社から融資を受けたことを言っている。『横浜の防火帯建築と戦後復興 』では、昭和31年度融資で、大林組の施工。竣工当時の写真を見ると、塔屋の上の窓は時計がはめ込まれていたと判る。残念ながらいつのまにか撤去されてしまった。
長者町通りのビルの前にアーケードが残っている。第三イセビル竣工当時の写真に写っているものと同じらしい。今となると貴重なものかもしれない。



第三イセビル。2009(平成21)年4月5日

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イセビル(伊勢ビル)
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-3
上:2002(平成14)年1月14日
左:2010(平成22)年4月10日

イセビルはJR関内駅のほうから吉田橋を渡って「イセザキモール」の商店街に入る入口に建つ古いビル。地図では「第一イセビル」とあるのは、第二・第三イセビルがあるため。『日本近代建築総覧』では「伊勢ビル、建築年=昭和3(1928)年、構造=RC5階建(地下1)、設計=復興建築助成㈱、施工=三引建設」。5階が増築のように見えるが、竣工時にはキリンビヤホールだった。
『ウィキペディア』に項目があって、わりと詳しいことが判る。施主は横浜市会議員の上保慶三郎という人。横浜では復興建築助成株式会社の助成を受けて建てた建物は75件あり、その最初の建物。施工は東京・銀座の「三ツ引商事」で、耐震に留意して基礎に404本のアカマツの杭を打たせた。完成は1926(大正15)年としていて、『総覧』より2年繰り上がる。
近年の原状回復工事において、昭和初期に営業していた「カフェー・オリエント」の壁画と思われるもの、および1955年当時にダンスホール「白馬車」だったときと思われる壁画が発見された、という記述が興味深い。今頃はその壁画を生かした店が開店しているのだろうか?
屋上の「求心」の広告は1980年12月に現れ、2013年11月に撤去されたという。

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清水橋。文京区西片2-2。1988(昭和63)年10月10日

清水橋は言問通り(の延長部)に架かっている陸橋。空橋(からばし)ともいう。本郷台に割って入っている谷を言問通りが通り、谷で分かれた本郷6丁目と西片1・2丁目を渡している。
西片町会』は充実した町会のHPで、町の歴史が詳しく述べられている。清水橋については、以下のことが判る。
最初に架けられたのは明治13年(1880)。明治39年(1906)頃に架け替えられる。これも木の橋だったが設計は福島出身の建築家武田五一だという。『ウィキペディア』の武田五一の項では、1914年の架橋としている。武田五一は同時期に清水橋からはごく近いところに、求道会館(1915年)を建てているから、そのついでに橋も設計したということだろうか。
写真の橋は3代目の橋で、『西片町会』には記載がないが、大正15年(1925)架橋としているサイトがあった。両端のハンチが印象的だ。ハンチhaunchとは「おもに鉄筋コンクリート造の梁の両端部付近で、梁の下面が一定の勾配をもって傾斜し、梁のつけ根にいくに従って梁断面が大きくなる部分をいう。……梁の下面を斜面にせずになだらかな曲面にする場合や、梁の側面を広げた水平ハンチも使われることがある。」(ブリタニカ国際大百科事典)。
清水橋は2018年2月から2019年4月完成予定で架け替え工事に入っている。

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石井いり豆店。文京区西片1-2。1989(平成1)年4月9日

松井電機の右に続く家並み。現在は左のタバコ屋が「旬菜宵処おぐち」という居酒屋に、「まごころ」という弁当屋の建物は5階建てのビルに替わった。
写真右の「石井いり豆店」は今も変わらない佇まいを見せている。創業が明治20年という老舗だ。『煎り豆百年の味』によると、現店主は四代目。「初代は練馬の農家の次男坊で、増次郎といった。話では実家を出て、石井家の名籍を買い、家督となって浅草の豆屋に商売を教わりに行ったそうだ。一年ほど修行して独立。この西片で店を開いた」という。「昭和10年ごろ道路拡張の際、創業以来の普請を建て替え、3年前さらに大改修をした」というから、建物は昭和10年頃に建てたもので、店の前の言問通り(の延長部)は北に拡張したらしい。近年家を大改修したというから、現在の外観は写真のものとはいくらか違うのかもしれないが、「できるだけもとのままに」という工事だった。



三浦屋酒店。西片1-2。1988(昭和63)年1月30日

1枚目写真のところから右(東)へ少し行った菊坂下交差点の北側の昭和末の家並み。現在は写っている建物はほとんどが建て替わってしまった。写真左の小平(おだいら)歯科医院のビルは外観を改装しただけかもしれない。


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初音屋。文京区西片1-2。1989(平成1)年4月9日

田中雑貨店のすぐ東の街区。前の通りは菊坂下を通って不忍通りから先は言問通りに入る。白山通りまでをも言問通りとしてしまっていいようなもので、「言問通りの延長」などともいうが、「から橋(空橋)通り」と呼ぶ人もあるようなので、その名称がよさそうに思う。空橋とはこの通りに架かる陸橋で、清水橋の別名。
通りに並んでいる店は左から、「初音屋」(焼肉)と「日本舞踏/創作民舞/若柳流舞踏稽古場」、「萬月」(居酒屋)、「清光モータース」、「坂井電機」。現在は初音屋が4階建てのビル(上藤ビル、1992年築)に建替わったがその右の3軒は残っていて、萬月と清光モータースは商売も続いている。坂井電機は1階を住居に改装した。
初音屋の建物は切妻屋根でもあり、木造のように思える。萬月のビルは「南雲ビル」という。1974年の地図ではビルにする前の建物かと思うが「鵜沢書店」。



石坂。西片1-14。1988(昭和63)年3月13日

1枚目写真左の路地は石坂という坂道への入口。石坂は台地上の西片の高級住宅街と菊坂下の低地を結ぶ道路。上の写真はカーブしてから西向きに上がっていく中腹から上の部分。現在は写真の屋敷の家は建て替わり、板塀も石垣もなくなった。

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田中雑貨店。文京区西方1-15
上:1988(昭和63)年1月30日
左:2012(平成24)年4月28日

白山通りの西片交差点から東へ、菊坂下の方へ入ってすぐのところにあった雑貨店。トタンで石積風の模様にした看板建築だ。建物は現存していて、左の店(撮影時の地図では「庄や」)との二軒長屋。左写真でそれが判る。

1974年の地図には、田中雑貨店の横の路地を入った右側に「文京東映」という建物が記されている。現在そこには「パラシオン本郷」(1980年10月築、9階建31戸)というマンションが建っている。『消えた映画館の記憶』には、1953年には載っていなくて、1960年に出ている。判るのはそれだけだが、『Google古地図>昭和38年(1963)航空写真』に写っているのを見ると、映画館の表面は、横の路地から階段をあがった裏の路地に開いていていたようだ。

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