ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




金井荘。荒川区南千住5-29。2013(平成25)年11月6日

南千住仲通りの中央辺りの四つ角を南へ入ったところにあったアパート。写真右奥はJR常磐線のガード。街灯は仲通りと同じものだ。「金井荘」は1969年の住宅地図から。割と幅のある建物で、写真手前の路地に入口があるが、そこから廊下が奥へ通じていてその左右に部屋が並んでいたのかと思う。
「Beauty Art Pane」の看板の店はなんとなく美容院のように感じていたが、paneは窓ガラスなのでステンドグラスを作っているのだろうか? その隣は「稲穂」(料理屋?)、1軒おいて「楽天」という居酒屋。
現在は「ティーケーメナー」(2014年6月築、3階建9戸)という小さいマンションに建て替わっている。

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倉本酒店。荒川区南千住5-24。2013(平成25)年11月6日

「南千住仲通り」商店街の西側入口は、都電三ノ輪橋への通路として知られている日光街道に面する梅沢写真会館の100m北に開いている。商店街の通りは、2階建の看板建築風の建物が基本のようで、すでにその半分以上が住居に建て替えられているように感じる。450mも続いてJR南千住駅の近くの日光街道に至る。住宅街の中を東西に通っている、近隣の住民を顧客にした商店街で、やはり近年は衰退してきている。
写真は日光街道から入って100mほどのところ。倉本酒店の右は「チヨダハイクリーナー」の看板の店だが廃業しているようだ。さらに右に「やぶ茂」という蕎麦屋。写真奥は丁字路で、商店街は少し左に振れる。写真の家並みの向かい側に「洋家具製造卸 山田商店」の平屋の建物や、「中華料理 一番」があるが、共に閉店している。『 Deepランド>「南千住仲通り商店会」南千住、日光街道沿いの人情深い商店街』がこの商店街を詳しくレポートしていて、山田商店や一番の写真はそこで見ることが出来る。




上:澤田家具店、左:紅屋呉服店
南千住5-24。2013(平成25)年11月6日

澤田家具店は後の平屋が製作所なのかもしれない。1969年の地図では平屋の後の駐車場とその東側が「工場」で、澤田家具店の工場だったらしい。写真右奥を左に入ると「家具製造卸 澤田工業所」の古い3階建ビルがある。家具店と関連がありそうだ。
澤田家具店から右(東)へ3軒目の紅屋呉服店は2020年頃には看板を外してしまった。

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上:清華亭、味美。豊島区南大塚1-58
左:家庭料理 まきしま。南大塚1-50
2006(平成18)年12月6日

大塚駅前から大塚三業通りに入って230mのところの交差点、その北の角から3棟の戦後の看板建築といえる家がならんでいた。写真では右端の1棟(2008年2月のストリートビューで「らん」という店と分る)が端だけ写っている。3棟の別個の家だが外観を揃えているのは、通りをすっきりと見せたいからだろうか。現在は「日神パレステージ大塚」(2011年9月築、11階建29戸)というマンションに替わっている。

「まきしま(巻島)」は清華亭があった四つ角を西へはいったところ。前の道路は暗渠になった谷端川の流路から都道436号(プラタナス通り)へ上がる坂道だ。今も建物が残っている。撮影時は営業していたようで、建物角のショーウインドーにメニューが出ている。

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スナック泉。豊島区南大塚1-51。2006(平成18)年12月6日

大塚三業通りの大塚駅の近くにあった和風の大きな建物。料亭か待合だったのだろうか。後には3階建と見える棟があるが、同時に取り壊されたから一体の建物だったのかもしれない。通り沿いの1階には3軒の店が入っている。「スナック泉」は中央の紺色の壁、右は「スナック・ニューホース」。建物の解体時まで営業していたようだ。左の黄色い日よけは、解体前は「JOJO」というヘアサロンだった。
現在は「グレスコート大塚Ⅱ」(2021年2月築、10階建18戸)というマンションに替わった。

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松し満(まつしま)。豊島区南大塚1-60。2006(平成18)年12月6日

JR大塚駅南口のすぐ東のところ。松し満の裏は山手線の土手で、松し満の前の左右の道は大塚三業通りから分かれて、線路の土手の下に沿って東西に通っている道。その道と土手の間に1列に家や小さなビルが並んでいる。
現在、大塚三業通りの小さなビルに「割烹 松し満」という居酒屋のような店がある。「食べログ」には「創業は昭和23年で料亭としてお店を構え」とあり、その料亭が写真のものだろう。「2012年にカウンター割烹として、今の場所へ移転」ともある。
写真の建物は今も健在。住居になっているのだろうか。



千草。南大塚1-54。2006(平成18)年12月6日

駅前から大塚三業通りに入ってすぐのところ。現在も写真のままの家並みだ。写真右手の破れた日よけの店は喫茶店だったような構え。右端は「鈴木不動産」。3階建てのビルは焼鳥の「鳥晶」。写真左奥は「割烹 水たき 千草」。大塚三業地をレポートしたサイトには必ず登場する。「料てい」の丸い鑑札がついている。

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左:三原橋地下街北側入口。右:食事処 季節料理 三原。中央区銀座4-8
2013(平成20)年5月19日(1~6枚目とも)

銀座・三原橋地下街と都市の輪郭 ―オーラル・ヒストリーと資料からの考察―(大絵晃世)』によると、東京都が戦災残土の処理のために三十間堀川等の河川を埋め立てることを決定したのは1948(昭和23)年3月末。4月には埋め立て工事が始まり、三十間堀川は1949年に埋め立てが完了した。この時、晴海通りに架かる三原橋は撤去されずに残された。都電が通っていたからという説が有力で、妥当だと思える。GHQが露天整理令を出したのが1949年8月。三十間堀川の跡に銀座館マートなどを建てて露天商の換地としたが、三原橋の下も活用しようとしたのだと思う。三原橋地下街の原型ができたのは1951(昭和26)年。
三原橋は1929(昭和4)年に架け直された3径間鋼桁(連続桁)というタイプの、長さ30.2幅36.0m(中央区内の橋めぐり/旧・三原橋)の震災復興橋。3径間の中央の桁の下を通路に、東側の桁の下に「テアトルニュース」という映画館、西側の桁の下に「三原橋地下街ゲームセンター」というパチンコ屋がまず入ったらしい。
1953(昭和28)年8月に三原橋センター(地上の2棟)が竣工し、1954年には撤退していたパチンコ屋の跡に「銀座東映」が開館する。飲み屋などが開店するのもこの頃のことだろうか。1967(昭和42)年10月、テアトルニュース跡に「銀座地球座」が開館しポルノ映画を上映するようになる。1968年9月には銀座東映は「銀座名画座」と変わり、こちらもポルノ上映館になる。1988(昭和63)年名画座・地球座は「銀座シネパトス1・2・3」の3館体制で一般の映画をかけるようになった。2013年3月3末に閉館。



左:季節料理 三原。右:おでん小料理 一柳。一柳の看板に「味は一流 名は一柳」とあるから店名は「いちりゅう」と読むらしい。一柳の右は「ギフトショップ(大人のおもちゃ)アラジン」。アラジンになる前は立食いそば・うどんの「相模屋」だったらしい。オレンジ色の壁は「牛かつ(ぎゅうかつ、メンチカツ・コロッケ)」、その右は「かごっま料理 おごじょ」。



左:映画館のポスターが並んでいた西側の壁。右:カレーコーナー三原、理容室 遠藤。カレーコーナー三原は1964(昭和39)年の開業という。小さな表札は「三原カレーコーナー」となっている。




左:地球座と名画座の看板。1987(昭和62)年5月24日
上:南側の階段。2000(平成12)年1月18日

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三原橋センター。中央区銀座4-8
2013(平成20)年11月5日

銀座と木挽町の境になっていた三十間堀川は、戦後、戦災残土を放り込んで埋め立てられた。しかし、晴海通りを渡している三原橋は残された。理由はよく分らないようだが、撤去が難しかっただけかもしれない。下の資料では都電が通っていたからかも、とある。
ネットで『銀座・三原橋地下街と都市の輪郭 ―オーラル・ヒストリーと資料からの考察―(大絵晃世)』というレポートが読める。それによると、橋の地下部分は1951(昭和26)年に完成した。一度埋められた橋の下を掘り起こしたのだという。露天商の移転先の問題が発生したからだろうか。1951年12月頃、地下にニュース映画館(昭和30年頃の火保図に「テアトルニュース」と「銀座東映」の記載)ができた。露天商は「銀座間マート」に収容されたという。1953年8月31日に2棟の「三原橋センター」が土浦亀城の設計で完成した。
取り壊しが決まって、2013年頃から店の退去が始まり、2014年4月末で全店が退去、5月には取り壊しが始まった。なにができるという計画はないという。



三原橋センター北棟の裏側。2013(平成25)年5月19日

設計者の土浦亀城(つちうらかめき、1897-1996年)は、ライトの弟子だったが、1935年の土浦亀城邸はモダンデザインの住宅。以後、モダニズム風の作品が多い。三原橋センターも横長の大きい窓などがかっこいいと思って見ていたが、窓は後の改修によるものだった。『 aki's STOCKTAKING>三原橋・銀座/傳八』によると、1987(昭和62)年に「傳八」が開業するとき、Aki氏が店内を設計したが、同時に窓枠も新しくしたという。元の窓は細い壁の間に縦長の4枚のガラスがはまったもの。
南棟のほうは表側の写真を撮っていない。いつ頃からか南棟の2階はパネルで隠されてしまっていて、撮影しようという気にならなかったらしい。パネルの裏には建築時の窓が残っていたのかもしれない。

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今泉ビル。中央区銀座1-14
1988(昭和63)年3月6日

昭和通りの新京橋交差点の一つ南の横丁を西に入ったところ。写真左端の「中村ビル」が昭和通りとの角にある。1986年の住宅地図は左から、中村ビル、今泉ビル、銀座ウイングビル、煉瓦亭、第二サトウビル。
今泉ビルはスクラッチタイル貼りのように見えて、戦前築の建物かと思えるのだが、昭和10年頃の火保図には載っていない。昭和30年頃の火保図では「車庫 今泉ビル 共同石油 新生商事(コ)(四)」とあり、1階の大きな開口部は車庫で、共同石油が入居していたと分る。
現在は中村ビルと今泉ビルが「プレリー銀座ビル」(2003年築、12階建)という賃貸オフィスビルに替わった。
看板が小さく見えるだけの煉瓦亭は、有名な銀座三丁目の店とは別。『バンド・オブ・トーキョー☆>銀座「煉瓦亭IS銀座一丁目店」のナポリタン』によると、「煉瓦亭IS(アイエス) 銀座一丁目店」で、煉瓦亭の暖簾分けを受けた新富町の煉瓦亭アイエスの支店、ということだ。2009年10月27日で閉店した。

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電通銀座ビル。中央区銀座7-4
2008(平成20)年11月5日

今は大分減ってしまったが、銀座にある戦前に建てられたビル。1933(昭和8)年竣工、設計は横川工務所、施工は大林組、RC造8階建地下2階。大震災の復興が一応なった後の建築になるためか、これという特徴のない普通の外観だ。玄関に近寄って吉祥天と広目天のレリーフに気がつけば、あれっ、となるくらいだろうか。1階の壁に(窓なのかもしれない)ガラスブロックが使われているのが珍しい。2階以上の窓はガラスが3枚の横長の形で、シカゴ窓というのだそうだ。真ん中の大きいガラスが固定で、左右の窓は上げ下げ窓。
電通はこのビルを1967年まで本社として使った。このビルを建て替えないのは、会社の出発点として、よりどころのように思っているのだろうか。建て替えてもたいして床面積は増えないと踏んでいるような気もする。

「電通」は電気通信から来ているのかとなんとなく思っていたが、「電報通信社」からだった。1901(明治34)年に光永星郎(みつながほしお)は「日本広告株式会社」という広告代理店を創業し、次いで本当はやりたかった通信社を設立、その2社を1907(明治40)年に合体して「株式会社日本電報通信社」として通信と広告の両方をやるようになったらしい。その頃は通信手段として電報が大きい地位を占めていて、無線通信も電話も軍隊が使うくらいだったのかもしれない。
現在の電通がどういう業務をしているのか、想像しがたい。広告そのものの業務はごく一部ではないかと思う。1936年、「同盟通信社」が出来て電通が広告代理業に専念するようになってから昭和30年代までなら、広告代理業がどういうものか想像が付く。新聞雑誌ラジオの広告を広告主からメディアに仲介するのだろう。今は電通のHPには「顧客と社会の持続的成長に貢献する統合ソリューションを提供」するとしている。なんでもするように聞こえる。

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大倉山記念館。横浜市港北区大倉山2-10。2000(平成12)年1月26日(5枚とも)

住所の大倉山は、太尾町(ふとおちょう)だったのが住居表示の変更になった2007(平成19)年11月からで、つい最近決まった住所だ。東急東横線の大倉山駅や、記念館のある丘の名称として聞きなじんだ地名なので、一般に分りやすいと思われたのと、やはりかっこいいからだろう。記念館の旧住所は太尾町706。
「大倉精神文化研究所」として1932(昭和7)年に建った建物。研究所は1981(昭和56)年に運営が難しくなって横浜市に土地を売却、建物を寄贈した。1984(昭和59)年に「横浜市大倉山記念館」として開館した。研究所は記念館内に存続している。




ネットなどでは出てこない資料と思われるので、『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版・かもめ文庫、昭和58年、630円)の「大倉精神文化研究所」の記述を紹介する。

 大倉山の丘の上に建つこの特異な建物は、着工後3年かかって昭和7年に実業家・大倉邦彦によって建造された。
 洋紙業で成功した大倉は、学問の世界にも情熱を注ぎ、東西文化の融合に意欲を示した。そして私財を投じ、学問・信仰・修行を合致させた研究機関として、「日本文化の精髄を発揮し進んで世界文化に貢献」することを目的とし、「弘く世界史を貫く人類文化の普遍的意義に通暁すると共に深く我が国の精神文化を請究する」ために財団法人・大倉精神文化研究所を設立した。
 大倉は研究所設計を、長野宇平治に依頼した。ロマン主義の作風から出発したこの建築家は、数多くの銀行建築等を手掛けて古典主義に傾いていた。そしてプレ・ヘレニズムと称される様式で、この研究所をまとめ上げた。
建物は、全体的にはヘレニズム様式を基調としながら、その細部に神社、仏閣、古紋様の意匠を配するなど、建築主の意図をよく帯しており、ギリシャ神殿風の正面入り口と塔屋部をもつ中央館の両側に東・西館がつながり、殿堂、道場を配し、書庫、研究室もある。
 外装には千歳石を用い、銅板棒葺の屋根を架けている。
 創設以来、戦前・戦後を通じ財団の研究所として用いられているが、昭和56年4月に横浜市へ土地を売却、建物を寄付し、建物が存続する限り永久使用の契約を交わしている。その結果、土地は横浜市緑政局、建物は同都市計画局が管理し、その一部を財団法人・大倉精神文化研究所が使用している。
設計:長野宇平治、施工:竹中工務店、竣工:昭和7年4月(1932)、構造:鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階・地上3階建

建築様式は今では「クレタ・ミケーネ文明の様式」としたほうがいいようだ。パルテノン神殿は紀元前438年だが、クレタ島のクノッソス宮殿はそこから1000年遡る。



「精神文化」というとなにやら怪しい気分がしなくもないが、辞書にある「学術・思想・宗教・哲学・道徳・芸術など、精神活動によって生み出される文化の総称。→物質文化」(大辞泉)と受け取っていいようだ。研究所のHPによると、設立の趣旨は「東西両洋における精神文化及び地域における歴史・文化に関する科学的研究及び普及活動を行い、国民の知性及び道義の高揚を図ることにより、心豊かな国民生活の実現に資し、もって日本文化の振興及び世界の文化の進展に寄与する」ことを目的とする、とある。精神とは日本精神をいうようだが、大倉の著作も読まないでは確かなことは言えない。研究の方法としてまず、本を集めて図書館を造ることをしているのは、合理的に思える。
「東西両洋」の考えは、大倉邦彦が上海の東亜同文書院に学んだことが大きく関わっていると思う。1906年にそこを卒業すると大倉洋紙商工の天津出張所に就職する。中国語の技能が買われたのだろう。大倉洋紙店の社長になれたのもきっかけは東亜同文書院といえる。
大倉は1926年に図書館の建物を見るために世界一周する。そのときヨーロッパの西洋建築についての造詣を深めたのかもしれない。「マンガで学ぶ大倉邦彦物語」にはサグラダ・ファミリアの前に立つ大倉の1コマがある。

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