ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




北京堂。神奈川県横浜市中区山下町166。2002(平成14)年1月19日

横浜中華街の関帝廟通りを西から入ってすぐのところ。今は写真左端の北京堂だけが残っている。上の写真では店の店名が全部は判らない。下の写真は2009年撮影のストリートビューで北京堂の方から見たもの。建物は2002年の写真と変わらないので、それで見てみると、左から「北京堂(中国骨董)」「横濱屋(猫の雑貨)/カメラ」「緑チャイナ祖蔭彫刻屋」「tef tef(アジア雑貨、2007年開店、2010年4月看板建築風の現店舗完成)」「金福楼(中華料理、2014年9月で閉店)」。


2009年8月撮影のストリートビュー



愛龍號の三軒長屋。山下町133。2002(平成14)年1月19日

関帝廟通りの山下町公園の並びに食品などの商店が並んでいる。写真の看板建築風の三軒長屋は今も残っている。写真では画素数が低くて左の店の看板が読めないが、食品を売っているようだ。今は「雅秀殿」という豚まんなどの店になっている。「秀味園(台湾料理)」と「愛龍號(中華材料)」は変らない。

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インペリアルビル。神奈川県横浜市中区山下町25。2009(平成21)年7月26日

一見、どうということのない普通のビルである。隣の上田ビルは1972年に建ったものだが、同じ頃のビルにも見える。これが1930(昭和5)年に建った、大さん橋入口の「ジャパンエクスプレスビル」や海岸通りの県庁向かいの「昭和ビル」と同じ設計者による、関東大震災復興期の建物と分かると、改めてつくづくと眺めることになる。
『日本近代建築総覧』では「インペリアルビル、中区山下町25、建築年=昭和5年、構造=RC4階建、設計者=川崎鉄三、施工者=白井工務店」。
はまれぽ.com>…「インペリアルビル」に突撃!(2015.09.29)』、及び『ウィキペディア』によると、外国人専用アパートメントホテル(長期滞在型のホテル、24室)として建てられた。終戦後は約10年間米軍に接収された。その時期に5階部分の増築がなされている。
川崎鉄三は生没年不明というのが不思議で、親族などはどうなっているのだろう? 1912(明治45)年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科卒業。1925(大正14)年に「若尾ビル」建築のために横浜に来た。川崎鉄三が横浜で手掛けたのは7棟という。当ブログでは今まで挙げてきた他に「加藤電気工業」を収録している。
インペリアルビルは当時としては超モダンな外観だったと思われるが、そのデザインはどこから出てきたものなのだろう? 施主の意向なら、施主が建築の最先端の動向について知識があったことになりそうだが、施主は保守的であることが通り相場だ。余計な飾りはなくていいから、という注文だったのだろうか?
写真では1階に楕円形の窓があるが、今はビルオーナーの意向で原形に戻す形に改装された。『神奈川の近代建築探訪インペリアルビル』には、楕円形の窓が4個ある時の写真が載っている。
ビルの裏側にあった駐車場にはビルが建って、今はビルの裏側は見られなくなった。

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長者町電話局。神奈川県横浜市中区長者町5。2009(平成21)年4月5日

写真の建物はグーグル地図では「テルウェル東日本(株)神奈川支店」。テルウェル東日本はNTTグループの会社で、建物の管理、オフィス用品等の販売、電気・通信システム等の工事・保守、電柱広告、電報など、幅広い業務を行っている。建物角の交差点名が「長者町電話局前」だから、建物名としては「長者町電話局」として一般に認知されているのだろう。
『日本近代建築総覧』に「長者町電話局、横浜市中区長者町5-60、建築年=大正14年、構造RC2階建、設計者=逓信省(上浪朗〈うえなみあきら、1898-1975〉)」とあり、施工は大林組。横浜中央電話局の長者町分局として建てられた。
角の曲面が印象的で、玄関の階段状の造形が柱状の壁にも繰返し現われる。この階段状の造形は他の逓信省時代の電話局でもよく見られたものだが、それらの古い建物がすっかり減ってしまった今では、この長者町電話局の存在は貴重である。幸い、NTTではこの建物を保存していく考えのようだ。



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商栄ビル。神奈川県横浜市中区太田町5。2010(平成22)年4月10日

馬車道(写真右)と相生町(あいおいちょう)通りの交差点から撮った商栄ビル。「馬車道商栄ビル」ともいうらしい。『横浜の防火帯建築と戦後復興>商栄ビル』によると、昭和29年度の事業として横浜市建築助成公社から融資を受けて昭和30年9月に竣工した防火帯建築の共同ビル。建築主は9名と神奈川県住宅公社の協同による「併存ビル」という。竣工当時の写真と見比べるとあまり変化はない。2階の窓は2段になった鉄枠の跳ね上げ式窓だったようだ。太田町(おおたまち)通りの角で曲がっているL字型の平面である。
平安堂薬局」は看板に「創業明治3年」とある。店名は家伝薬「上気平安湯」による。精神安定剤だろうか。平安堂薬局は商栄ビルの建て主の一人だ。
2016年に取り壊されたようで、現在は駐車場。


商栄ビル。太田町通り(写真右)との角。2009(平成21)年7月26日

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伊勢佐木センタービル。神奈川県横浜市中区長者町7。2009年(平成21)4月5日

長者町通りとイゼザキモールとの交差点角にある戦後の復興期に建てられた「防火帯建築」。不動産サイトでは1954(昭和29)年1月築としている。『横浜の防火帯建築と戦後復興』によると、「昭和29年度事業として、横浜市建築助成公社から助成をうけて六者共同による共同ビル」で、外観の特徴として「3層と比較的低く構えた外観と、長者町通り・伊勢佐木町通りのそれぞれに面したガラスのカーテンウォールが水平的な広がりを強調している。隅切り部にもガラス面があるが垂直に設けられたルーバーの装飾がアクセント。(「融資建築のアルバム」より引用)」とある。長者通り側の入口に「伊勢佐木町 センタービル」の古そうな看板が掛っているから「伊勢佐木町センタービル」でもよさそうだが、同名のビルが他にもあり、当記事では「伊勢佐木センタービル」とした。かつては長者町通りに市電が走り、横浜一の繁華街であった伊勢佐木町との交差点だから、ビルが建った当時はまさに横浜の「中心」といっていい場所だったらしい。



伊勢佐木センタービル。1988(昭和63)年8月6日

伊勢佐木センタービルの長者町通りの並び。昭和末の時代だから今も続いている店はないかもしれない。センタービルの隣は同じ3階建てのビルだがだいぶ高さが低い。その隣は長者町七丁目交差点角の「HDイセザキビル」で1965年4月築。この2棟のビルの裏は、「イセブラ小路」という飲み屋街の路地になっているそうだ。
写真右の映画館は「横浜松竹・横浜セントラル」。1999年に閉館した。今は、外観や内部は改装しているが、建物はそのままでパチンコ店の「キコーナ伊勢佐木町店」になっている。
シネマ・ジャック&ベティブログ>散財劇場vol.03 建築写真文庫「映画館」』によると、「横浜大映」として昭和33年1月に開館した映画館。昭和45年頃「東映」、昭和50年頃「松竹」と変わったようだとしている。その後、観客の減少に合わせて、大劇場を二分割して一方を洋画の横浜セントラルとしたのだろう。

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平和アルミ製作所。板橋区志村1-3。1988(昭和63)年11月3日

金門製作所の向かい側にあった「平和アルミ製作所」の門と事務所棟である。写真の工場は『戦災焼失区域表示帝都近傍図』では焼失区域に入っているように見えるが、昭和22年の航空写真には写っている。昭和22年には早くも工場と写真の事務所を建ててしまったのだろうか? 航空写真からは、事務所棟の裏(北)に4連の鋸屋根の工場、左(西)に南北に長い工場あるいは倉庫がある。
現在は「パークホームズ志村坂上」(2005年3月築、10階建90戸)というマンションに替わった。
「平和アルミ製作所」をネット検索すると、「株式会社鋳物屋」が出る。沿革に「1946年(昭和21年)東京工場を再建し、㈱平和アルミ製作所を設立して事業を再開。山形工場は㈱中條軽銀製造所として、アルミ鋳物の事業を継続する」「1994年(平成6年)㈱平和アルミ製作所よりアルミ線事業伸線部門の委譲を受け、操業を開始する」とあるのだが、はたして結びつくものだろうか?

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金門製作所。板橋区大原町13。1988(昭和63)年11月3日

都営三田線の本蓮沼駅を出て国道17号(中山道)に立つと、そこから西方向が大原町(おおはらちょう)。大原町は今はほぼ住宅街で、これという特徴もなさそうだが、かつては金門製作所の工場があったのが特筆すべき事項ではなかったかと思う。
金門製作所は水道・ガスメーターのメーカーで『アズビル金門株式会社』によると、「1904(明治37)年:創立。1945(昭和20)年:板橋区志村に本社及び東京工場を移転。1948(昭和23)年:金門商会を株式会社金門製作所とする」。大原町の成立は1961年なので「板橋区志村」というのが大原町のことではないかと思う。ただし「1998(平成10)年:本店所在地を東京都板橋区志村より東京都板橋区大原町に変更」と出てくる。本店が志村にあり、それを工場がある大原町に移した、ということかもしれない。「2000(平成12)年:本社機構を東京都文京区へ移転。東京工場の跡地を譲渡」とあるから、この年に大原町の工場は閉鎖されたらしい。
この頃から経営がおかしくなり、事業の整理、他社との合併などを経て、2012年に「アズビル金門株式会社」となる。
工場跡地は「東京ガーデンフォーラム」(2003年2月築、14階建2棟299戸)と「パークホームズ志村坂上フォレストビル」(2014年5月築、11階建86戸)が建ち、団地ができたといっていい。住んでいる人は金門製作所をご存じだろうか?

写真は敷地の北に沿った道路に開いていた門から見た工場事務所の建物。逆光気味のうえ木が邪魔してどんな建物なのかよく分からない。木造2階建ての洋風な建物のようだ。昭和22年の航空写真にはないので、戦後に建てられたものだ。

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高橋青果店。板橋区本町30。1990(平成2)年1月14日

旧中山道の「仲宿商店街」を北に突っ切ると石神井川を板橋で超えて「本町商店街」に入る。写真は板橋から少し北へいったところで、ストリートビューで見ると、写真の家並みは今も不思議と変わらない。写真からは看板で、左から「マルミパン店、高橋青果店-ふじや、松村書店-まるだや化粧品店、アルファ」までが読める。現在、建物は替わらず、店が「アカツキ薬局、高橋青果店、吉良よし子事務所?-まるだや化粧品店、喫茶アルファ」。
「掲示板」の情報だが、高橋青果店は2016年1月で閉店したようだ。そのお知らせの貼紙に昭和34年開店とあったそうだ。

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板五米店。板橋区仲宿40。1990(平成2)年1月14日

「板橋宿不動通り商店街」を北へ抜けて「板橋宿」のゲート(アーチ)を出ると「王子新道」との旧中山道仲宿交差点。王子新道は1888(明治21)年の開通。当時、宿場が廃止されて衰退しはじめた当地に比べ、王子の方は大きな工場も建ち始めた。板橋の人々がそちらに働きに行くのに便利なようにと通されたという(『加賀学園通り物語』)。
王子新道を渡ると「仲宿」のゲートで、「仲宿商店街」に入る。少し行ったところにレンガの袖壁の店舗がある。米の販売機に「板五米店」とあるが、写真からはすでに米店は廃業しているような感じがする。

建物は『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)に、「大正6年に建てられた。……当時は「田中米店」と称した……板五米店の名は、米が配給であった時代の「板五食料販売所」の名残り……」「街道に面して土蔵蔵店舗が建ち、その後ろに接して木造2階建の住居部分が付く。さらに、庭を挟んだ奥に、2階建の煉瓦造の蔵が独立して建つ」とある。「板五」とは旧町名の板橋五丁目を指す。「店舗部分は、屋根を寄棟造桟瓦葺とする、黒塗漆喰塗りの土蔵造で、2階の軒を出梁出桁からなる「船枻(せがい)造」とし、全体を塗り込める」とあり、以下、建物の構造について記述している。
全部を引用していると大変なので、2階正面の雨戸についてだけ紹介すると、「2階の雨戸は土戸ではなく、鉄板の引戸である。この引戸は、敷居鴨居を用いず、両妻壁の間に張られた鉄筋をガイドする吊戸となっている。つまり、両妻壁の煉瓦壁が倒れるのを防止するために設けられた引張鉄筋(テンションバー)を、鉄板引戸のガイドとしても利用している」ということで、なんとも珍しい造りのようだ。

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山北体育館。神奈川県足柄上郡山北町2594。2016(平成28)年4月22日

山北体育館は山北駅前大通り(山北駅前商店街)の「テーラーサナダ」だった空き店舗の少し西の向かい側にある。上の写真は駅前大通りの裏の、切り通した御殿場線の上の沿道から撮った。
山北町>やまきた町歩き2015.05.13』の内部の写真を見ると、正面入口から入って右手が廊下。そこを奥に進んで突き当りが2階への階段。2階は板張りの体育館でバスケットのゴール板がある。また『晴れたらいいね>山北町駅前大通り(2016.05.20)』によれば、1階は畳敷きの道場。
タウンニュース>足柄版>山北体育館 58年の歴史に幕(2017.10.21)』によれば、1959(昭和34)年に竣工した体育館は、老巧化により2018年度以降に取り壊す方針という。今もあるかどうか。






タニカワ理容館。山北町2583。2016(平成28)年4月22日

御殿場線の山北駅の西は掘り下げて通した線路で、その両側の斜面は桜を植えた並木で、花の時期は桜のトンネルを走る電車の写真を撮る名所である。線路をまたぐ橋は幾つかあるが、写真は「中橋」の前にある理髪店。
看板建築とは言いにくいが、洋風に見えるように外側を造っている。写真では分からないが、ベランダの手すりの壁状のところに「バーバータニカワ」の字が浮き彫りになっている。
2014年3月撮影のストリートビューには、建物左の窓に「BAR Singers」の文字が残っている。この建物にあった店だろうか?

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