ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




奥野ビル、中央区銀座1-9。1990(平成2)年1月21日

中央通りの東の2本目の裏通り(銀座三原通り、平成元年度の命名)にある、有名なレトロビル。『 nippon.com>銀座で…』や『 buuuu chan’s Trip>かつての銀座アパートメント…』によると、オーナーの「奥野商会」の先祖がアパートとして建てたビル。「銀座アパートメント」の名称だった。RC造6階地下1階建て、7階が増築されている。2棟のビルが接していて、南側(左)の「本館」が1932(昭和7)年、北側の「新館」が1934年の竣工。各階に通路があるようだ。全70室の各部屋は3.5坪ほどのワンルーム。現在はギャラリーやアンティークショップなどが主に入っている。銀座の高級アパート、と言われたらしいが、ワンルームマンションだったわけだ。「奥野ビル」と名称変更したのは昭和32年。
設計は川元良一で、施主と交友があったという。九段会館(軍人会館、昭和9年)の設計者である。同潤会の建築部長を務めたこともあり、それもあって集合住宅の設計を依頼されたのだろうか。
外観も内部もあまり改修せずにきて、今ではかえってそれが人を引きつけている。建物を見学に来る人もけっこういるようだ。日々変化している銀座に、昔と変わらない空間がある、というのが老人にはほっと出来るし、若者には興味を引かれるのだろう。


2009(平成21)年8月21日
大日本図書ビルが取り壊されて奥野ビルの南の側面が見えている。

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Zoo、益子。横浜市中区野毛町1-43。2010(平成22)年4月10日

野毛町1丁目と2丁目の境を南北に通っているのが「野毛小路」で、そこの野毛中央通りとの交差点から少し入ったところから南の方向を見ている。写真右端が柳通りとの交差点。並んでいる建物は今も変わらない。
戦前の看板建築のような外観をした「Zoo」は、食べログの投稿記事によると2008年開業のダイニングバー。ストリートビューを見ると2021年頃に「地酒立ち呑み 酒母(しゅぼ)や」に替わっている。「やき鳥 益子」は、創業35年くらいになるらしい。
益子の右の建物は看板建築の四軒長屋のように見えるが、かなり大きい建物で、アパートに分類できるかと思う。野毛小路側に2階への入り口が2箇所あり、片流れ屋根である。Googleマップでは「第二・第三港興産ビル」となっていて、東に建っている写真のアパートよりいくらか小さい規模のアパートと一緒の名称のように思える。写真のアパートには「港興産」という不動産業の会社が入っているから、その会社の持ち物かもしれない。1階の床屋は「ヘアーサロンメトロ」。2014年以前に2階に移り、1階には「野毛ホルモンセンター」が入った。2015年にはメトロは廃業したらしい。

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左:山荘。横浜市中区野毛町1-28。右:亀鶴。野毛町1-36。2010(平成22)年4月10日

「世界のカクテル 山荘」は野毛中央通りの中程にあった。写真右の路地は「野花商店会」の表示板が街灯についていたが、2017年に外されている。ストリートビューを見ると、建物は2014年に取り壊されてコインパークになってしまった。店は野毛柳通りに移っている。「食べログ」の口コミによると、1955年創業の老舗バー。ジュークボックが人気で、昭和歌謡やオールディーズがいつも流れているらしい。

「亀鶴」は山荘横の路地を山荘の向かい側に入ったところにあった。廃業してだいぶ経つような感じだが、2014年以前には建物はなくなっている。

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きりたんぽ、神谷運送。横浜市中区野毛町1-15。2010(平成22)年4月10日

写真の家並みは「野毛 幻の鉄道路線」の跡の道路で、「野花商店会」といった通りだったようだが、その表示板のついた街灯は2017年にはなくなっている。写真左奥が「野毛中央通り」との交差点。その角の家は住居になっていて、そこから手前に、「スナック 炎、田舎料理 きりたんぽ、神谷運送株式会社、バー R」。
ストリートビューを見ると、現在は、炎が空き地に、きりたんぽは2014年以前に「酒場 ふくちゃん」に替わり、2018年に4階建の小さなビル建て替わった。神谷運送は2017年に住居のような家に建て替わったが会社は続いているようだ。「R」はすでに創業70年の老舗で、この界隈では珍しい本格的なバーなのだそうだ。

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旧バラ荘。横浜市中区野毛町1-12。2010(平成22)年4月10日

野毛 幻の鉄道路線」の跡に建っているアパートで、正面は「野毛柳通り」に面している。建物の東と西側は「野花商店会」の表示板が街灯についていたが、2017年にはなくなっている。
建物の外観は幾つもの家がくっついているように見えるが、航空写真で見るとわりと大きな一つの建物で、Google Mapでは「野毛建物」となっている。現在、入っている店は、「大衆肉酒場 武田屋、オーシャンバー旧バラ荘、スナックつばさ、スナックKEIみすぎ、沖縄料理 守礼の邦」で、撮影時とほぼ同じ。
野毛飲みcom>旧バラ荘」によると、「旧バラ荘」は1949(昭和24)年の開店で、現在の4代目店主は「バラ荘」という店名を残したとういことらしい。店内の調度などは開店時のものという。野毛建物が建ったときに開店したのだろうか。



写真の店は「居酒屋 圭」が閉店して、2013年に武田屋が開店。



守礼の邦(野毛建物の野毛柳通りの側と西側)

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上智大学クルトゥルハイム。千代田区紀尾井町7。1983(昭和58)年3月

上智大学四谷キャンパスにある、ミサと結婚式が行われる建物。クルトゥルハイムとはドイツ語で「文化の館」を意味するそうだ。「クルトゥルハイム聖堂」とも言われるらしい。『日本近代建築総覧』では「上智大学聖堂」としている。陸軍の軍人だった高島鞆之助(1884-1916)の邸宅として、明治30年代に建てられた洋館。1912(明治45)年に学校設立のため、カトリック修道会イエズス会が購入した。内部、特に2階はかなり改装されていると思われる。
「ネオルネッサンス風を基調とした建物で、外壁は、装飾を抑えた比較的シンプルな仕上がりとなっており、1階部分は石積み風、2階部分は茶系のタイル貼り、軒下から屋根廻りは木仕上げにするなど建物に変化を与えており、ペディメント(三角破風)を配した玄関が重厚な印象を与えている」( Visit Chiyoda(千代田区観光協会))。

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ホテルニュージャパン
千代田区永田町2-13
1989(昭和64)年1月4日

山王切通坂から撮ったホテルの裏側。ホテルニュージャパンが火事になったのは1982(昭和57)年2月8日で、解体されたのは1996年なので、撮影したのはその中間になる時期だ。
『ウィキペディア>ホテルニュージャパン』によると、建物はRC造10階建地下2階、客室は513室。Y字型平面のビルが3棟接続した複雑な構造である。どの客室からも外が見えるようにしたためだ。設計は佐藤武夫(1899-1972)。ホテルの開業は1960(昭和35)年3月22日。Y字型ビル2棟350室での開業らしい(ジャパンアーカイブズ>1960年)。

ホテルニュージャパンの地下にあったニューラテンクォーターの『ウィキペディア』の記述を見ていたら「最終的に廣済堂会長の櫻井義晃に売却された(1979年のことらしい)」とあるので驚いた。廣済堂という印刷会社を知っていたので櫻井氏(故人)の名前は聞いていたからだ。地味な印刷会社の社長がナイトクラブのオーナーになるとは! ゴルフ場も経営したというから、いろいろと手を出したのだろう。櫻井氏は児玉誉士夫と知り合いだったと聞いていたので、その関係で食い込んでいけたのかも知れない。

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赤坂プリンスホテル新館。千代田区紀尾井町1
1983(昭和58)年3月

「ウィキペディア」などを参照すると、赤坂プリンスホテルが開業したのは1955年10月1日で、旧李王家邸が使われたと思われる。1960年10月に5階建の別館が建てられた。それから20年が経って新館の建設が始まり、1983年3月7日に開業した。写真はちょうどその頃のものだ。
設計は丹下健三。39階建(地下2階塔屋付)で階段状の平面で、761室の全ての客室が角部屋になっている。
2001年に全面改装が行われている。2007年に「グランドプリンスホテル赤坂」と改称されたというが、あまり通用したようには思えない。「赤プリ」と言えばクリスマスの宿泊騒ぎと解体工事が話題になった。2011年3月31日でホテルは営業を終了、2012年6月から解体工事が始まり2013年7月に完了した。その後再開発が行われ、2016年7月に「東京ガーデンテラス紀尾井町」として開業した。

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居酒屋 まこ、BARABA。横浜市中区野毛町1-53。2010(平成22)年4月10日

当ブログ前回の紅屋菓子店(現カフェ バジル)の横を入ったところ。2階の壁面に洋風のレリーフを施した看板建築がある。ねじり柱、アーチとその中のエムブレム、縦長の上げ下げ窓。関東大震災復興期のものかと疑うほどだ。空襲で焼き払われる前は、こんな建物が普通にあって、それを再現したのだろうか。ストリートビューを見ると、「まこ」は2014年には看板がなくなっていて、2015年には「Go West 24」というバーが入った。

「BARABA」と「スナックすまいる」は「まこ」から右(南)へ4軒目。2014年に取り壊されて2020年に3階建の「ソフィア野毛」(1階に「ビストロ アン クール」)が建った。
「野花商店会」の表示板がついた街灯は2018年頃になくなっている。

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紅屋菓子店。横浜市中区野毛町1-53。2010(平成22)年4月10日

野毛本通り(都橋の通り)に面した、今も残る戦後復興期に建てられた商店。左から「占い館 沙羅双樹、ランドリーハウス、紅屋菓子店」。紅屋は廃業した様子だ。そこに2011年には「カフェ バジル」が入った。同じ建物のクリーニング店は2016年1月に「からころ村」という立ち飲みができるから揚げ専門店に替わった。沙羅双樹は1990年頃の開館らしい。
紅屋の建物は看板建築で建てたときの外観があまり改装されずにきたような感じだ。紅屋の看板の横は「日の出不動産」の広告。バジルに替わったときだと思うが、正面の紅屋のロッテの看板が外されて、横の看板が「お菓子 紅屋」のロッテのアイスクリームの看板に替わった。不動産屋の広告を剥がしたらそれが出てきたのだろう。イタリアーノを懐かしく見る人もいるだろうし、以前の店の看板が残っていると町の歴史が分かったような気がして面白い。

野毛本通りから入っている写真左右の横町は、その間の間隔が狭い。この2本の道路は、新横浜通りの桜木橋歩道橋の南から始まり、緩いカーブを描いて京急日ノ出町駅近くの長者橋の通りまで追っていける。『野毛 幻の鉄道路線』で知ったのだが、2本の道路は大正期に鉄道路線を計画した跡である。桜木町駅から大船をつなごうとしたが、関東大震災で計画は中止された。経路は異なるが根岸線の先祖になるのだろうか。

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