ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




慶応大学北里記念医学図書館。新宿区大京町(だいきょうちょう)35。2017(平成29)年12月8日

三田評論2011年12月号』によると、慶応大学信濃町キャンパスの医学図書館は、昭和46年に「医学情報センター」、平成5年に「医学メディアセンター」と改称されているが、普通は「北里記念図書館」の名称が使われているらしい。
北里柴三郎は初代医学部長。北里が没して3年後、昭和9年に博士を記念するための北里博士記念医学図書館建設会(会長は長山本達雄、日本銀行総裁、大蔵大臣等を務めた実業家、政治家で、当時義塾評議員会議長)が作られ、2600人から30万円の寄付によって昭和12年(1937年)10月に竣工した。
設計者は和田順顕(「横浜郵船ビル(昭和11年)」が有名)、施行は清水組。構造はRC2階建。


北里記念医学図書館、背面

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慶応大学予防医学教室。新宿区大京町(だいきょうちょう)30。2017(平成29)年12月8日

JR総武線信濃町(しなのまち)駅前の慶応病院(慶応大学信濃町キャンパス)の裏に、通りを隔ててつい最近まで3棟の昭和初期に建てられた慶応大学医学部の建物が並んでいた。北から「予防医学教室」「北里記念医学図書館」「慶応大学病院別館」だが、別館は2009年に取り壊されて、「大学病院3号館(南棟)」に替わった。
予防医学教室(校舎)の建物は『日本近代建築総覧』では、「慶応大学予防医学教室、新宿区大京町30、建築年=昭和4年、構造=RC4階(地下1階)建、設計=曽禰・中条建築事務所、施行=清水組、備考=「曽禰・中条建築事務所作品集」による、一部鉄骨、塔屋」。
三田評論2014年2月号』によると、総工費39万9千円の大部分17万5千ドルがロックフェラー財団からの寄附による、という。
また、昭和20年5月24日未明の空襲で、木造だった病院の主要部分は全焼した。その際、学徒挺身隊80名と看護婦270名、医局員、学生の敢闘によって、入院患者180名全員を別館や国民学校に避難させ、予防医学教室、図書館、別館を焼失から守ったという。病院に焼夷弾を大量にばらまくとは、米軍はなにを考えていたのだろう。


慶応大学予防医学教室、南側面

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近江屋写真用品両国分室。墨田区両国3-19。1986(昭和61)年9月7日

写真左の通りは京葉道路(国道14号)で、両国橋東の両国橋交差点と緑一丁目交差点との中間辺り。現在は「文友社ビル」(1991年1月築、8階地下1階建)が建っている。
戦後まもなくの建築と思われる建物は「近江屋写真用品株式会社 両国分室」と「近江屋倉庫」。
倉庫は写真をよく見ると石積みのように見える。『上浅青果店、春日屋米店/両国2丁目』に載せた「昭和20年9月28日」の写真の、両国国技館の左に見える焼け跡に残る建物がそれではないか。

デジカメWatch>2016.01.26』の記事によると、近江屋写真用品株式会社は写真機材卸業者の大手で、HANZA(ハンザ)という写真用品のブランドでも知られていた。1915年の創業。デジカメなどの普及で業績が落ち込み、電子映像関連に携わるも2004年10月にはフジカラーイメージングサービスに営業譲渡して解散した。



1989(平成元)年6月25日

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純喫茶 白鳥。墨田区両国4-33。1986(昭和61)年9月7日

JR両国駅の南の京葉道路(国道14号)の両国三丁目交差点を北へ入ったところ。現在は「大衆酒蔵 日本海 両国店」が入っていて、外壁などが改修されている。玄関上部、2階の2連アーチ窓のステンドグラスは残っているがその右の六角形の窓は潰された。
1969(昭和44)年の住宅地図に「白鳥ビル」で出ているので、そのビルと思われる。1965年頃の建設になるのだろうか。
撮影した頃には白鳥のはす向かい(両国3-24)に「高砂部屋」があった。そこには「ヴィラロイヤル両国」(1980.08築、7階建21戸)というマンションがあるのだが、その1階が高砂部屋だったのだろうか。

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サンロイヤルビル。千代田区神田駿河台2-4。1985(昭和60)年7月7日

当ブログ前回の「ウイーン」と同日の撮影。「サンロイヤル」という喫茶店の、「お城のような」「ロシアの教会のような」と言われるランドマーク的なビルである。『御茶ノ水駅サンロイヤルビル』には「1971.8(昭和46年)竣工」とあり、当初は「サンロイヤル」という大きな喫茶店として建てられたと思われる。写真では喫茶店の看板はなく、ピザとしゃぶしゃぶの店に替わっている。垂れ幕に「サンロイヤル」の文字があるが、社名として出ているのかもしれない。
このビルもついに建替えのため、今頃は解体工事が始まっているようだ。

都内には西洋の城郭のような外観にした喫茶店がいくつかある。新宿歌舞伎町の「王城」が有名だ。上野にあった「名曲喫茶ウィーン」の他に、今も建物は別の店になって残っている両国の「純喫茶 白鳥」を知っている。どれも同じような時期に建てられたのではないかと思う。

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名曲喫茶 ウイーン。千代田区神田駿河台2-4。1985(昭和60)年7月7日

先日、当ブログの『中央大学駿河台キャンパス』に道草亭ペンペン草氏からコメントを頂いた。その中で喫茶店のウイーンに言及されて、ネットではサンロイヤルと混同されていることがあるのを嘆いている。ウイーンの写真は撮っていたので、改めて眺めてみたら、ぼくも勘違いしていたことが分かった。というわけで、早速「名曲喫茶ウイーン」(「ウィーン」と表記するのかもしれないが、あえて)をアップしてみた。
現在「ウイーンビル」は建て替えられていて、それがいつのことなのか分からない。『復刻版>名曲喫茶「ウィーン」』のコメントに「ウィーンが潰れた昭和60年」とあった。撮影後じきに閉店したようだ。開店した年代は分からない。1969(昭和44)年の住宅地図に「喫茶ウイーン/バーニューウエル」で出ている。


名曲喫茶 ウイーン。1985(昭和60)年7月7日

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財務省。千代田区霞が関3-1
上:1986(昭和61)年8月17日
左:1987(昭和62)年1月1日

大蔵省が財務省に名称変更されたのは2001年(平成13年)1月6日。写真はその15年前で、大蔵省だった時のもの。この建物は近代建築としてはあまり注目されない。外観が地味で目を引く要素がこれといってないからだろう。『日本近代建築総覧』の記載は「大蔵省、千代田区霞ヶ関3-1、建築年=昭和14年、SRC8(SRC5地下1の間違い?)、設計=大蔵省営繕管財局、施行=大倉土木、○(おすすめ品)」。中庭が2つある日の字型平面の大きな建物だ。
大蔵省~財務省の庁舎こぼれ話あれこれ』には、建物の工事の経過、大蔵省が建物を使うようになるまでどこで業務していか、建物を利用した省庁、といったことが割と詳しく述べられている。以下、このサイトよって建物の沿革を概括してみる。

大手町にあった大蔵省の庁舎が関東大震災によって焼失した。大蔵省によって各省庁の庁舎がRC造で建て直されていくが、大蔵省は1940(昭和15)年まで仮設のバラックのままだったという。霞が関の現在地に建設が決定したのが1934(昭和9)年、翌年には土台工事を開始。日中戦争が始まって1939(昭和14)に工事は中止と決まるが、工事を進めて1940(昭和15)年6月に仮竣工した。ただちに仮庁舎から引っ越しが行われたが、内装工事は続けられた。1942(昭和17)年には防空対策として屋上に厚さ45cmの耐弾層を設けている。壁のタイル貼りや修飾部分を省略して建物が完成したのが1943(昭和18)年7月。
戦後はGHQに接収されて、解除されたのは1955(昭和30)年12月。その間、四谷第三小学校を借りていた。戻ってきた庁舎はGHQによって改造されていたので、復元して四谷庁舎から引っ越しできたのが1956(昭和31)年3月31日。
それ以降の主な改修は、1961(昭和36)年になって耐弾層を撤去。1962-63(昭和37-38)年に外壁をタイル張り(250万枚)に。1967(昭和42)年、設備棟新築、暖房設備設置。1968(昭和43)年、冷房設備設置。1978(昭和53)年、庁舎西側の 4階及び 5階部分に鉄骨造の事務室を増築。

高層ビルに建て替える計画が2007年に出たが、2011年の東日本大震災復興のための増税案もあり、国民感情を考慮して耐震改修で済ませている。一般には財務省=国税庁という認識だから、血税で贅沢な庁舎を造るとは! と言われたくないのだろう。それより、戦時中・戦後の大蔵省職員の苦労は大変なものだったに違いない。

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みみずく家の並び。文京区後楽2-7。2001(平成13年)9月1日

みみずく家は写真左奥の、神田川沿いの通りとの角にあるタバコ屋。飯田橋から神田川沿いに北へ少し行って隆慶橋(りゅうけいばし)を渡った向かい側である。立派な広告塔が目を引いて名所のようになっていたと思う。『神楽坂散歩>みみずく屋』によると、「江戸東京の神田川」からの受け売りとして、「大正4年に日本で初めてタバコ小売所として認可を受け、店主は以後業界のリーダーとして活躍、昭和33年にタバコ販売業界としては初めて黄綬褒章を受けたという」とある。また、『落合学>なぜかミミズクが目につく神田川べり』には、みみずく家の由来を、初代が大のミミズク好きで、店中にミミズクの置物を置き、印鑑家紋もミミズクにしてしまい、いつしか客が「みみづくや」と呼ぶようになって、それを屋号にしてしまったのだそうだ。
上の写真ではみみずく家の並びに「戦後の看板建築」が並んでいる。昭和20年代に焼け跡に建てられたものかと思う。写真に写っている文字と1986年の住宅地図から推定して、右から「中華料理・後楽、居酒屋・やぐら/大久保理髪店、居酒屋・和かな/とんかつ・かつ喜、喫茶・珈琲党、雨宮煙草店(みみずく家)」。
写真の一角は再開発により2007年中には取り壊され、「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(2007.09着工2010.04竣工、34階地下3階建)という超高層ビルに替わった。

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高田爬虫類研究所
文京区弥生2-20
2005(平成17)年4月20日

根津小学校の南、異人坂の下を通る細い道に「高田爬虫類研究所」があった。建物は屋上があるのでRC造2階建だろうか。奥行きはあまりない。1969年の住宅地図に、裏の家に「高田」とあるので、今ある裏の3階建のマンションのようなビルが住居だったのかもしれない。ストリートビューを見ると、2014年まではあって、2015年には取り壊されて駐車場になっている。現在は沖縄に「DINODON高田爬虫類研究所」があって、そこに移転したというこらしい。
『ウィキペディア>高田榮一』によると、高田榮一(1925-2009)は「へび博士」として知られ、1960年頃に自宅に「高田爬虫類研究所(爬虫類友の会/高田爬虫類研究所/高田動物生態研究所)」を創設したという。いつもニシキヘビを首に巻いていたらしい。
谷根千 其の二』に、研究所を訪問した記事が載っている。
團伊玖磨の『パイプのけむり』に高田氏と研究所のことが記してあった。内容をメモしておいたのだが、どこにメモしたのか分からなくなって紹介できないのが残念だ。

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根本眼科医院。千葉県松戸市松戸1795。2005(平成17)年1月25日

松戸駅の西を南北に通っている県道5号=流山街道(旧水戸街道)の、春雨橋の南の路地を西へ入ったところにある家。今は廃墟としか見えない。和様の民家のようだが洋風な感じも受け、建った年代もよく分からない謎の建物だったが、『 Deepランド>【松戸】……根本眼科』によってこの家の正体が知れた。
当サイトによると、松井天山が昭和5年に描いた松戸の鳥瞰図に「根本眼科医院」とある建物。写真左端の2階建のビルは「松戸印刷所」で、これも鳥瞰図に載っている。当サイトでは外から細かく建物を観察していて、玄関の柱の下部がレリーフを施した洋風の石柱であること、柱の上部に「保健医療機関」の楕円形の鑑札が付いていることなどをちゃんと見ている。
『昭和の松戸誌』(渡邊幸三郎著、崙書房、2005年、1905円)によると、「この路地は河岸道で、今なお残る古い建物の根本眼科や大塚印刷所がある。根本眼科は江戸期の大地主。松戸で初めての医学博士だった。」とある。大塚印刷所は「納屋河岸」の解説にある松戸印刷所が「大塚姓」と述べているので同じものだろう。



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