中村眼鏡店。中央区日本橋人形町1-19。1983(昭和58)年5月
人形町通りの人形町交差点で交差する芳町通り(金座通り)に面する。人形町交差点のすぐ西のところ。『日本近代建築総覧』には「T13頃、木、施工:広中組、モルタル・タイル張3階」。
『下町残照』(村岡秀夫著、朝日新聞社、1988年)に、店主の話で、「普通の家が2千円で建った時代に2万円かけた、総桧で、一流の書家に書かせた看板の文字を大理石の板に彫り、金箔をかぶせた」とある。同書に写真のある「弊店の沿革」という刷り物によると、明治28年8月に現在地で開業している。
塔屋は明治時代の擬洋風の西洋館を見るような感じがするが、その横にある波型の装飾のせいか、中国風にも感じられる。
上:1987(昭和62)年3月8日
左:1988(昭和63)年1月24日
建物横の上部の看板の文字は「中村嘉」「眼鏡店」。正面には一枚の板に「中村嘉兵衛商店」の文字が右から書いてある。3階のひし形の窓は横の対角線を軸に回転して開く。
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(昭和30年代)から人形町蛎殻町に縁があり よく行っていました。最近はご無沙汰です。
この中村眼鏡店も私の記憶の中にあるのですが 写真は通りの向かい側の料亭の花屋さんか隣の袋物やさんの古川喜兵衛商店あたりから撮影されたものでしょうか。
再開発や立替えで古き良きものが消えていく中で
流一さんのように記録保存そして公開することは
とっても意義のある事だと思います これからも頑張って続けてください。
ほかの地区もこれから拝見させてもらいます。
花家は昭和60年頃にはマンションに建て替わったと思いますが、懐かしい名前ですね。古川商店は中村眼鏡店の真向かいで、写真はそこから少し西へずれた辺りから撮っています。
このブログに意義があると言って頂けるとうれしいですが、私にとっては半ば定年後の暇つぶしのようにも考えています。
まだ当分続けられそうですの、これからもよろしくお願いします。
オークションで購入した丸眼鏡が、この店のものでした。眼鏡拭きには、「日本橋區人形町●(読めない字)停際 中村嘉兵衛」と名うった眼鏡拭きから、こちらの素晴らしいブログに来ました。
この眼鏡の売主さんは岩手、私は奈良、なんとも時間を経て様々旅をした眼鏡なのだな、と思いました。おそらく、この写真のお店が、この眼鏡の出発点なのだと思うと、感慨深く、一言コメントさせていただきました。
今も現存しているならば、この夏関東方面に行く予定があるので、時間があれば訪れてみたいと思いました。
落札したメガネは実用としてではなく骨董品なのでしょうね。ばかげた疑問かもしれませんが、メガネでも古くなると骨董的価値がでてくるのだろうか、思ってしまうもので……。すみません。
中村眼鏡店の風格ある建物ですが、今はビルに建て替わってしまいました。そのビルの竣工が2007年12月。ビルの工事が始まるまでしばらく駐車場になっていたので、建物を取り壊したのは2005年頃でしょうか。店はさらにそれ以前の1995年頃に閉店していたような気がします。
「人形町●停」とは「人形町電停」かと思います。すぐそばに都電の(日本橋区の時代なら「市電」でしょうか)人形町停留所がありました。
実用のための購入です。金にならぬ音楽活動をしており、その活動のために購入したのです。
「チンドン屋」や「ドンチャン騒ぎ」という言葉に、僕はアジア人としての血を感じるのです。それゆえ、戦前の日本文化にはただただ、人々のエネルギーを感じ、現在の文化以上の美を感じるのです。そんな力にあやかろうと思った次第、ゲンカツギです。
実用に際し、2100円の当時はないプラスティックレンズに入れ替えようと、某チェーン店、「メガネのLOVE EYE」に申し入れました。ギリギリ、国が定める免許配布条件である両眼0.7という視力(「愛車ベンツ」の原付ホンダカブを運転できる)にし、安価なレンズを極力薄くただいま製作していただいています。どうやら、支店では処理できぬ代物らしく、本社特別加工部署送りで、今月末の完成とのことです。もちろん、2100円しか払っておりません。
ちなみに、昔のメガネというのは骨董的価値があるものもあるようです。たとえば、べっ甲、金など素材誰それが使っていた、という現在日本の「いかにもな物質的価値」であります。
故に、昔の心のこもったものは、比較的使用者に愛情を受けたものでも、僕のような貧民にも手に入ります。
建築物にも言えると思うのですが、手間暇=愛=(心のある)金、というのもまんざら虚偽でもございません。愛情のこもったものは整備ケアされ今でも使える。
そこに人間の所作の美を感じるのです。現行の経済的価値と個人的価値、お金の価値は他力か自力か、そんな思索は、何かかなしくも、力強く生きていく力を感じるのです。
流一先輩のこのブログには力強い想いを感じました。ただ、僕が、関東を訪れ、この建物を現実に見れないのは残念であります。しかし、このように、記録を惜しみなく発表されて感謝であります。