ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





土井印刷
中央区築地2-4
上:1989(平成1)年11月5日
左:1986(昭和61)年8月31日

新大橋通りと平成通りの間の裏通りになる。写真左手のビルは、当ブログ前回の「民家」が建て変わったもの。
同じ色に塗られた3軒の家を土井印刷が使っているらしい。

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清水商会。中央区築地2-3。1987(昭和62)年5月24日

手前は新大橋通りの入船橋。地下鉄出入り口は有楽町線新富町駅。ホームは入船橋と築地橋の間の旧築地川北支流の下だ。有楽町線は1974年10月に池袋-銀座1丁目が開通。銀座1丁目-新富町は1980年3月の開通である。新木場まで延びたのが1988年6月。撮影時は有楽町線の終点だ。
角の看板建築の建物の左端にある青い袖看板は「東洋オフセット株式会社」と「日映写真製版」。



民家。中央区築地2-3。1987(昭和62)年10月4日

平成通りと新大橋通りの間で、写真右奥へ行くと新大橋通りへ出る。
角の家は料亭のような、あるいはてんぷら屋かそば屋だったような造りだ。

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中村医院。中央区築地2-1。1988(昭和63)年2月21日

前の道路は平成通りで、写真左手にすぐ築地橋がある。左の家は「昭和工業株式会社」の表札がかかっていて、シャッターの上に「ブラザー工業……代理店」と読める。
写真右の家が中村医院だった建物で、屋根は日本家屋だが正面は銅板で洋風な造りだ。銅板張りだと普通は看板建築なのだが、この家は屋根が壁面より前に出ているし、正面の造作も商店の看板建築のように平面的ではない。



1987(昭和62)年頃

昭和25年頃の地図には「内科中村医院/森敏雄」、戦前の地図では「森医院」となっている。大正元年地籍図にも同じ場所に「森医院」が記載されているので、開業は明治期である。


1981(昭和56)年9月15日

この写真では玄関の軒下に「内科小児科/中村醫院」と書かれた軒灯があり、ガラス戸にも「中村醫院」の金文字が残っている。診療時間などの案内板がないので営業はしてないらしい。

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太陽館新館。文京区本郷2-27。1988(昭和63)年1月31日

本郷通りの裏で、丸の内線本郷三丁目駅のそばにあった旅館。当時の住宅地図には、新館の向かいの路地を入ったところに太陽館となっている住宅ほどの家があったようだが、それが本館だったのだろうか? 周囲には「旅館幸運館」「旅館山越館」「旅館朝日館」といった旅館が地図に記載されている。下宿屋も多くあって、「下宿三陽館」「福寿荘」「あけぼの荘」「光風荘」「下宿高橋館」などがの記載がある。
現在は1991年竣工の太陽館ビルというオフィスビルに変わった。


熊谷クリーニング店
本郷2-30
1989(平成1)年5月5日

福士邸の隣に今も残っている。昭和5年に建てられたということだが、看板建築にしている正面の造作はもっと新しいのかもしれない。タイル張りにした平面に丸窓を2つ配したデザインはかなり斬新である。
現在はタイル張りの壁を新建材で改装してしまったが、全体の形は変わっていない。横から古い日本家屋が覗ける。

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福士邸
文京区本郷2-30
上:1988(昭和63)年10月16日
左:2007(平成19)年10月24日

塀と巨木で通りからでは、建物は瓦屋根と玄関の屋根しか覗けない。
たてもの応援団」の記述によれば、通りから見えているのが明治41年に建てられた洋館らしい。関東大震災後に福士政一(病理学者)が買い取る前は、明治の教育制度の確立に功績のあった辻新次(文部次官を勤める)の邸宅だった。奥には明治5年頃に建てられた和館と明治6年ごろの洋館があるという。
敷地の南側の路地から建物の横が少し見える。

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石積の蔵
文京区本郷2-36
1988(昭和63)年2月21日

写真右手に弓町本郷教会が見えている。教会の後ろで建設中のビルは本郷瀬川ビル。写真右の道を手前に進むとすぐに春日通りの真砂坂上交差点である。
大谷石の3階建ての蔵は木造2階建ての和風家屋(小林家)に附属しているようだ。蔵というと質屋を連想するが、どんな商売をしていたのだろう? その家の1階の壁も左の写真のように大谷石を貼っているのが珍しい。間抜けなことに、道路の角に立っているのに、その方からは写真を撮っていない。
教会と小林家の間の道は春日通の南側の裏通りになるわけだが、江戸時代からある古い道である。旧住所の弓町と真砂町の境になっていた。
現在はマンションに変わったが、写真左の駐車場にした家は今もある。

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同志看護婦家政婦紹介所。文京区本郷2-24。1988(昭和63)年1月31日

本郷大横丁の通りから横丁を南に入ったところ。写真右端の日の当たっている家が大横丁沿いの旭商事不動産。写真の銅板張りの家は現存しているが紹介所の看板はなくなっている。



伊東米店。文京区本郷2-23。1988(昭和63)年1月31日

1枚目の写真の横丁をさらに南へ来たところで、そのまま進めばすぐ壱岐坂通りに出る。

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角田無線寮。文京区本郷4-10。1988(昭和63)年1月30日

春日通りの東富坂の頂上あたりから北へ入った道で、写真左へ行くと鐙坂になる。「角田無線寮」は住宅地図での名称で、実態は分からない。写真の屋敷の後方に高陽堂がある。



角田無線寮。1989(平成1)年4月9日

手前は高陽堂の跡地。1枚目の写真の奥の建物を後ろから見ている。この家もじきになくなったようだ。



住宅。本郷4-12。1989(平成1)年4月9日

角田無線寮の向かい。このあたりは大きい敷地の屋敷が並んでいたところだが、しだいにマンションに変わってきている。その過程で駐車場になっている場合もよくある。
現在は写真手前の駐車場はそのままであるが、後ろの2棟並んだ家はアクティス本郷真砂坂上(2002年11月竣工)というマンションになっている。

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高陽堂。文京区本郷4-10。1988(昭和63)年10月16日

どうもひどい写真を出してしまって申し訳ないが、撮りなおしもしていないので掲載する。フイルムをカメラから出すときに、全部巻き取らないで取り出すと光が入ってこうなる。
写真の家は住宅地図で高陽堂となっている。写真右に階段の炭団坂があり、その左に高陽堂の裏へ回っていく狭い道がある。鐙坂の道路へぬける崖っぷちの細道である。その道の入口に当たる場所に史跡案内板があるが、昭和57年に文京区教育委員会が設置した「坪内逍遥旧居・常盤会跡」の説明板である。現在の説明板は、内容は同じだと思うが平成13年に再設置されたもの。
逍遥がここに家を建ててもらって住んだのが1884(明治17)年、逍遥が引っ越した後、常盤会という寄宿舎になって正岡子規が入ったのが明治21年。写真の建物とは関係ないわけで、この建物についてはなにも分からない。アパートか会社の寮として建てられたものと思うが、東西に長くかなり大きい建物である。東側の炭団坂のほうに玄関口があり、その部分は写真のようにモルタルが塗られている。戦後の改修ではないかと思う。
現在は日立の研修所が入る「日立本郷ビル」に変わった。


谷沢表具店
本郷4-35
1988(昭和63)年10月10日

この写真は暗くなりだしてから撮ったものらしくて、黒くつぶれてしまっている。菊坂の通りから下道沿いの家を撮った写真。正面の家はガラス戸に「表具師 石澤」と書いた紙が貼ってある。その家の背後、崖の上に建っているのが高陽堂。

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