住吉共同住宅1号館。江東区毛利1-8。1986(昭和61)年4月13日
同潤会住利アパート(猿江アパート)は毛利1丁目の1~9号館(140戸)の第1期と住吉1丁目の10~17号館の第2期に分けられる。第1期の工事は大正15年7月に起工、昭和2年10月の竣工。施工は大林組。
現在は再開発されて「ツインタワーすみとし毛利館」(1994年11月完成)の高層マンションになった。
一般に「住利アパート」といわれるが、建設当初の正式名称は「猿江裏町共同住宅」といった。1943(昭和9)年に町名変更で住吉町ができたのに伴って「住吉共同住宅」に変更した。以前のスラム街のような不良住宅から同潤会アパートに替わって「住みよくなった」という意味がこめられているらしい(『消えゆく同潤会アパートメント』(河出書房新社、2003年)参照)。
写真は毛利1と住吉1の間の通り沿いに建つ1号館。向かいの南側には12号館のやはり細長いアパートがあり、商店街になっている。
左:1枚目写真左手の理髪店を正面から撮ったもの。1991(平成3)年6月16日(右も)
右:1号館の中央に空けられた通路を入って振り返ってみた。1991(平成3)年6月16日
毛利1丁目の9棟の建物の中心に児童公園がある。上の写真はその公園から見た東側にある5号館、写真右手は3号館。1991(平成3)年6月16日
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この公園、私たちは小さい公園と呼んでんたです。
自転車で駄菓子売りのおじさんがきて、駄菓子を買った子にだけ紙芝居を見せていました。
「買わない子はダメ」って言うんですよ(笑)
この近くには銭湯があったのですが、今はもう無いのでしょうか。
調べ事でさまよっていたらこちらを見つけました。
古い記事のようですが書き残しておきます。
私は1968年生まれですが、身辺ではこの公園を「アパート公園」と呼んでいました。
2006年ごろに思うところあって国土地理院の航空写真で調べて、アパート公園が私の記憶よりも広いことにずっと違和感があったのですが、確かに二つ存在し、「小さい公園」「大きい公園」と呼び分けていたかもしれません。
どちらでよく遊んでいたか覚えてはいませんが、画像のような通路をくぐった場所にあり、シーソーやジャングルジムもあったと記憶しています。
砂場では山を作ってコースを掘り、ビー玉を転がして取り合いの勝負で遊んだり、たびたび出没したおじさんに大きな犬をけしかけられたりした思い出があります。
紙芝居、私もよく観ていましたよ。
自転車の荷台に積んだ紙芝居の箱と一体化した引き出しに食材が詰め込まれており、ソフトせんべいや各種モナカ皮にジャムを塗っていろいろな形に工夫したものや(UFOなどと名前がついていた)、小さな袋に焼きそばを詰めソースを刷毛で塗って、折った割りばしを差したもの、型抜きの飴版(抜き飴といったかな)なんかを売っていましたね。
おっしゃる通り買わないと紙芝居を見せてくれません。
演目は「黄金バット」の記憶しかありません。
銭湯は七中の向かいにありましたね。私は猿江だったので亀の湯に通っていましたが、親せきの家が毛利にあったものでこちらの銭湯にも何度か行きました。
当時亀の湯以外何度か行った銭湯が2軒あり、「松の湯」「金魚湯」でした。残念ながら記憶があいまいで、どちらがどちらとは言えません。
調べると「松の湯」は墨田区に現存し、記憶違いかもしれません。
小学校卒業前に東京を出たので、薄れた幼少期の記憶をネットで探す旅を続けています。
普通にテレビがあった時代に紙芝居を見たがる子供の心理が面白いと思います。消えてゆくものに対する郷愁のようなものがあったのでしょうか。
私は14歳まで鵠沼海岸で育ったのですが、Unknownさんは湘南のどちらなのでしょう?
>書き残しておけばそれ以上忘れることはありませんね。
まさしくおっしゃるとおりです。
ただ私の場合記録を残そうというのではなく、事実と思い出の齟齬に恐怖を感じての記憶の修正ですね。
昭和40年代後半に生家の目の前にあった建造物の記憶に現実離れした部分があることにある時ふと気づきまして。
本当に建造物は記憶にあるような状態だったのか当時の航空写真やネットに散らばる情報を調べはじめました。
その過程で、まったく関係ない件で更に二つの記憶違いが発覚したのです。
ひとつは、同級生の家族が経営していたある食品製造工場がないということ。
正確には会社は現在も存在しているのですが、地図上のこの辺りと思っていた場所に工場がなく、移動したのかと思いその会社の沿革を確認してもそもそもそこにあった記録がない。
同級生は友人でしたのでそこに遊びに行ったこともありますし、小学校の校外学習で工場見学にも行きました。
立派なブロック塀に囲まれた広い敷地の自宅兼工場で、大きな日本家屋だった記憶があるのですが。
もう一つは猿江恩賜公園の北側について。(余談ですが、当時身の回りの大人含めオンシ公園ではなくオンチョウ公園と呼ぶ人が多く、ネットにもそれに言及している記事を見たことがあります。)
南側の江東公会堂前の噴水でヤゴを捕まえたり、桜の木に登って渋い実をかじったり、公衆便所の屋根から傘をさして飛び降りて遊んだのは良い思い出です。
公園で拾った小銭を住吉交番に届けたときにおまわりさんに褒められて、それ以降小銭拾いと届け出を日課にしたことも覚えています。
そのおまわりさんは届けた小銭を毎回どこで拾ったか聞いて「後で報告書を書く」といってから机の引き出しに入れ、自分の財布から同額の小銭を出して私に「ご褒美」としてくれました。
いま思えばそのおまわりさんは職務と教育を両立された立派な方ですが、さぞ迷惑だったでしょうね。ほぼ毎日ですから。
さて北側の公園ですが、ごくたまに新大橋通りを渡って遠征した記憶があったのに、記憶の当時はまだ貯木場を埋め立てたばかりの更地であり、公園は存在しなかったという事実を知ったのです。
そんなことが重なってちょっと怖くなりまして、過去の記憶と現実の整合性を確認しようと、気が向いたら少しずつ調べています。
ところで路面電車は当時すでに廃線となっていたと思いますが、猿江から錦糸町駅までの風景は場所ごとの思い出と共に覚えています。
戦後を生き抜いた素行のよろしくない大人にそそのかされ、わけもわからず賽銭箱から小銭を抜いた摩利支天尊日先神社(もう帰る用事もないけど、もし帰ったら当時ネコババしたジュース代は三倍にして返したいと思います)、コーヨーマート隣の生花店の娘も同級生、七中手前にはいつもおかっぱ頭にされたモウリ、アパート公園に挟まれた通りにはコッペパンを売っている店があった。
牡丹橋には大好物だった「じゃりち」が食べられる中華店、キャバレーロンドン、果物屋、天津甘栗、場外馬券売り場、指ではじくパチンコ、「会社が倒産した」といって高級ライターや万年筆(のバッタもの)を安く売りつけようとする香具師、楽天地、錦糸公園、ロッテ会館。
首都高にふたをされた、黒い鏡のような運河の薄暗い橋の上では、高速を走る車がつなぎ目を踏む音でしょうか「ごーんごごーん」と太くおどろおどろしい音が轟いて異世界感がありました。
満ち時はすぐ近くまで水面が迫るのも怖かった。
紙芝居はですね、ノスタルジックなところは全くないです。
正直に言って「黄金バット」はアニメのそれよりつまらなかったですし、単なる子供の好奇心だったと思います。
小学校卒業前に猿江から本鵠沼に越しました。
17から20くらいまで軍用機が頭の上を飛ぶような地域に住み、現在まで横浜です。
中学生時代は自転車で江ノ島周辺によく遊びにいきましたよ。
釣りは腰越でよくやりましたが、江の島は島内の有料プールが八部公園のプールよりリッチだったし、裏磯には釣りばかりでなくゲームセンターでも遊べました。
帰りは磯から弁天橋に回ろうとして潮を読み違えて身動きとれなくなったり。
懐かしくて余計なことを語りすぎましたね。
お目汚し失礼しました。
私が鵠沼から東京へ移ったのはUnknownさんが本鵠沼に越してくる20年以上前のことですね。ちなみに、鵠洋(こうよう)小学校卒業、鵠沼中学校2年のとき東京に移りました。
私は5年生の2学期から鵠沼小学校へ通い、鵠沼中学校を卒業しました。
出身中学が同じとは、奇遇を通り越しておそろしげな思いです。
きっかけは、現在“区営猿江一丁目アパート”となっている場所に、70年代に廃墟の体で建っていた建物が、私の記憶通りの姿であったのか調べ始めたことでした。
巡り巡ってこちらの住利アパートの記事へ。
流一さんのおかげで良い体験をさせていただいています。
ところで鵠中横に“富貴堂”というパン屋さんがあり、在学中は昼食に利用していました。
調べたら流一さんが通われていた頃にはすでに開業していて、現在も営業しているようです。
なんと70年以上。
誰かにとって人生の一時ただ通り過ぎた他愛ない日常も、別の誰かにとってはまぎれもない歴史であると再認識しました。
5年生の1学期終わりと同時に鵠沼に越してきて、その夏家族と片瀬西浜に遊びに行きました。
残念な思い出ですが、黒い砂浜にはベルトのように大量のゴミが連なり、危なくてとても素足では歩けない。
浜の東西を分かつ弁天橋の袂には、橋の高さに迫るゴミの山が重機で押し集められていました。家畜の死体まで転がっているような有様です。
異臭漂う茶色い海水は東京湾の方がましと思えるほどで、とても海に入る気にはなれませんでした。
少し調べたところ、当時は観光開発で破壊された環境を整備していたところのようです。
2年後、中学1年生最初の夏休み、友人に誘われ砂浜に投げ釣りに。
青い海、白い砂浜とは言えないものの、見違えるほどにはきれいになっていました。
たまに泳ぎに行くようにもなりましたが、いつも藤沢警察署の通りを真っすぐだったので、松波交差点で海に出たと思います。ですからそこは鵠沼海岸ですね。
流一さんの当時、海はもっとずっときれいだったでしょうね。
すこしづつブログを拝見させていただいています。
不躾で申し訳ありませんが、お母様、お美しい方です。
海水浴場は片瀬東浜、同西浜、鵠沼海岸、引地川西の鵠沼海岸があり、大人が同行しないときは人が集まる西の鵠沼海岸に行くように言われていました。でなければ市営プールですね。赤フン(赤いふんどし)の子供も普通にいました。
昔々の話でした。
現在はスケートパークとなっているようですが。
かつては「藤沢市営鵠沼プール」であったらしく、遡れば「藤沢町営」そもそもは「神奈川県立鵠沼プール」であったそうです。
情報をネットからかき集めても、当時を想像することはモノクロの写真から「色」を想像するように困難でもどかしいです。
「知る」ことはできても時の息づき、空気感、雰囲気を感じることには到底及ばないでしょうから。
しかし同時に楽しい。
こうして当時を知る世代の方からお話をいただくことは「色」の想像が広がります。
世代の違いに加え高度成長期を挟んでいるので、私の想像力の範囲を超えてしまうのですが、それほどの隔絶を感じながらも間違いなく流一さんの時代と私の時代が地続きであることの面白さ。
本当に貴重な体験をさせていただいています。