大橋むつおのブログ

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大人ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・55『華麗なるギャッツビー』

2016-10-07 05:54:48 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・55
『華麗なるギャッツビー』
       


この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ

これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に流している映画評ですが、もったいないので転載したものです


まずお断り、私 バズ・ラーマンを全く信用していません…ちゅか 嫌いです。

 ラーマンが一番評価された「ムーラン・ルージュ」は見ていませんが、これ以外は全部見ています。その結果、一切信用出来なく成りました。でも、ラーマンファンがいる事も確か。
 本作はアメリカで大ヒット、これまでギャッツビーが映画になったのが2回、いずれも興行収入はボロボロで「ギャッツビーに当たり無し」と言われていたので、当たりを取っただけで評価してもええんですかねぇ。
 兎に角派手な映画です。ギャッツビーのハチャメチャパーティーはようできてます……とは言え、音楽に難有り。原作はフィッツジェラルドが23~4年にパリで書き上げた。1920年台のパリは“黄金時代”と呼ばれ、アメリカは“ジャズエイジ”と呼ばれた。
 ジャズとは言え、トリオ、カルテットのフリージャズなどまだ影も形も無い。ビッグバンドスウィングか、まだ“ジャス”と呼ばれた時代。ところが映画で流れたのは明らかにフリージャズ、チャールストンを踊り狂うシーンに流れたのがテクノ風な演奏、すれ違う黒人ドライバーの車から聞こえてくるのは明らかにラップ……こりゃ無いよなぁ。
 この映画にはデッカイ取りこぼしがいくつかある。フィッツジェラルドの原作は“嵐が丘”の1920年バージョンです。当時、パリ在住のアメリカ人芸術家の中でアメリカを胡散臭く感じていたのかフィッツジェラルド、一切関係無く、自らのロマンに走ったのがヘミングウェイ。そんな事、考えもしなかったのがピカソです。
 作中、語り部となるニックはフィッツジェラルドその人、デイジーとトムは20年台のアメリカのカリカチュア、ギャッツビーは時代の告発者という位置付け。ならばこそ、ニック一人がギャッツビーを理解し、デイジーはギャッツビーに全て押し付けてトムと逃げてしまう。“嵐が丘”とは逆転して、この20世紀のヒースクリフは自分を捨てた恋人に復讐するために戻るのではなく、純愛を全うするために戻ってくる。結果、1920年のヒースクリフは命を失い、永遠の恋人はあっさり逃げてしまう。……この構造が本作では判りにくい。
 ニックがただ一人ギャッツビーを理解できた、その過程が見えてこない。デイジーの内実がマルッキリ“実の無い女”でしかない。アメリカという国の“危うさ”“いい加減さ”が曖昧になっている。
 レオもトビーもキャリー・マリガンも三者三様に巧いのだが、微妙に噛み合わない…このままだとミスキャストと言われる、これは監督の責任以外の何物でもない。私の年代はギャッツビーと言えばR・レッドフォード、ディカプリオは巧いのだが、やっぱり「トッチャン坊や」にしか見えない。ある意味、レッドフォードより難しい芝居をこなしてはいるが…どれだけこなしても「見た目」に支配されている。同一の伝でトビーもキャリーもイメージじゃない。ピストルを脇に下げたロミオに感じた違和感と同じ違和感を抱く。
 ギャッツビーのパーティーの絵(音は全くダメ)以外は例によって一人よがり、勘違い。私としては、見る前から心配していたラーマンの失敗がそのまま画像になっている…と思える。
 これじゃ、何の為にギャッツビーが死なねばならなかったのか、中途半端に投げ出されるだけで、映画の意味が浮かばない。
 時代を切り取れていないわ、感情移入できないわ。2時間22分…正直キツかった。あんまり オススメいたしません。……とは言え、結構 圧倒的な画作り(私には虚仮威しにしか見えないが) これのファンがいらっしゃるのも確か。その意味からしたら裏切ってはいません…念のため〓


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