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大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

劇団大阪『イノセント・ピープル』

2012-06-17 16:26:51 | 評論
劇団大阪『イノセント・ピープル』6月17日11時

 谷町ビルというのだろうか……。

 下駄履きの公団住宅の、下駄の部分に、劇団大阪の谷町劇場がある。一階のそのドアを開けると、フラットな黒で統一された夢の空間が、そこにある。
 三十坪ほどの黒の空間は、入り口を入った右側が演技空間。左側が五段のひな壇になった、100席ほどの観客席。一番遠い席でも、役者との距離が八メートル以上になることが無く、とても集中して芝居の世界に入れる小劇場になっている。

 さて、『イノセントピープル』である。
 この芝居は、ロスアラモスの女子高生、シェリル・ウッドがポップスにあわせてノリノリで踊っているシーンで始まり、そのシェリルが日本人のタカハシと結婚し、シェリル・タカハシとしての彼女の広島での葬儀で終わる。
 その五十年あまりの、シェリルの家族、知人の人生が、前後しながら描写される。

 ちなみにイノセントとは、無実の、潔白、潔癖な、無邪気な、などを現す形容動詞である。
 このイノセントな人々は、みな人生のどこかで、原爆(核)に関わっている。
 ロスアラモスは、ご存じの方も多いと思うが、戦時中から、アメリカが核兵器の開発、実験、製造を行った街である。
 シェリルの父は、この原爆の開発に携わった、科学者の一人である。友人や知人もみなそうで、彼らを指してイノセントピープルと、作者は呼んでいるようだ。日本語にせず英語のイノセントの方が多義的で、タイトルとしての含蓄が深く、さすがだなと思った。
 登場人物のあるものは、核兵器に罪悪感を持ち、あるものは、正当な武器使用であったと思い。正当であったと思った海兵隊の退役准将は、息子をイラクとの戦争で、米軍が使用した劣化ウラン弾の影響で若死にさせてしまう。
 シェリルは、大学でタカハシという日本人と平和活動を通じて知り合い結婚、親や身内の大変な反対を受けながら、結婚、生涯を広島で過ごし、六十代で短い生涯を閉じる。

 この芝居、一見シェリルの身の回りの人々の戦後史で、部分的にはドラマとして成立している。シェリルの父や、その同僚たちの苦悩、シエリルの兄が海兵隊を志願し、ベトナム戦争で、下半身マヒの傷痍軍人として帰国、聴衆の前でスピーチするが、おりからのベトナム反戦に出会い、苦悩。彼の身の回りの世話をするヘルパーは、ナバホ族の血が混じっていて、彼女の祖父の世代は硫黄島の戦いで勇戦したこと(たしか映画であった) また、彼女の祖父、父は、居住地からウランが発見され、その放射線で若死にしたこと、などなど盛りだくさん。しかし、後述するが、この芝居の主軸に絡むことがなく、ご都合で持ってきたエピソードでしかない。
 
 そして、肝心のシェリルの人生が描写されていない。
 1960年代に日本人と結婚することがどれだけ困難なことであったか。「愛してるの」を数回言わせるだけでスルーしてしまっている。婚約者のタカハシは、仮面を被り、台詞が終盤まで、まるでない。
 平和運動への参加への動機も分からない。母の葬儀に顔を出すが、母が入院する最後の日まで自分の部屋の手入れをしてくれたことに涙する描写があって、あとは印象としては、広島での病死になってしまう。
 やはり、シェリルの人生、その苦悩と葛藤、自分の人生への誇り、喜びなどがドラマの主軸として表現されなければ完成された戯曲とは言えない。また、シェリルの身内のドラマが、シェリルの人生にほとんど絡んでこないことにも、ドラマ構造の弱さを感じてしまう。

 日本人が、アメリカ人を演じることは難しい。表情や、ちょっとした身体表現が日本人とはまるで違う。特に上半身(それも肩の使い方)の動きが、また、顔の表情筋の使い方が違う(例えば、日本人の大半はウィンクができない) 全員がアメリカ人ならばそれでもいいが、日本人が出てくるので、その差別化はやっておかなければならないだろう。
 また、日本人が、後半タカハシの例外を除いて仮面というのも異様である。アメリカ人から見た日本人という表現なのだろうけども、もっと日本人を人間として表現して欲しかった。仮面を被っている間は台詞が無い。不気味さが先になって、シェリルが好きになった人間として共感が持てない。それ以上に、日本人の人間としての描き方に共感できない。
 シェルリの葬儀で、タカハシが仮面をとって喋る言葉が、ほとんどシェリルの父への、ほとんど糾弾といっていい台詞なのには、思わずうつむいてしまった。こういう糾弾調の言葉は、実生活でも、舞台表現としても、わたしは前世紀で食傷気味である。同席している無言の日本人たち、体を使っての感情表現はできているのだが、どうも非人間的な印象が拭いきれない。黒澤明の『八月の狂詩曲』のような、井上ひさしの『父と暮らせば』などと比べると、知識先行でドラマ性希薄な糾弾劇になってしまったことが惜しまれる。

 わたし個人の趣味かもしれないが、シェリルは炒りたてのポップコーンのように元気で、かつクレバーな女性だと思う。最初のポップスで踊っているところなど、まさにポップコーンになっていなければならない。タカハシとの結婚の決意や、平和運動に身を挺するところなど、もっと力強いクレバーさが欲しかった。しかし、けして元気が無く、バカに見えたということではない。いささか日本人的情緒表現になってしまったことが惜しまれるのである。アン・ハサウェーなど、いい見本になると思う。

 ラストで、シェリルの娘はるかが、明るい笑顔で臨月に近いお腹を抱えて現れる。これで、未来への希望と和解のシンボルとしたことはよく分かったが、それ以前のタカハシの糾弾(お願い)の始末がつかないままの登場であったのが、フィナーレとしては、やや唐突であった。

 原爆の死者を20万人としているが、これは日本側の数字で、アメリカは、この数字をとっているのだろうか。日本の記録でも、一度の爆撃で、最大の死者を出したのは東京大空襲の8万3793人であると思う。

 宴曲な表現では通じないので、あからさまになって申し訳ないが、本が、プロットの段階で、未整理なままカタチにしてしまっていることに最大の問題を感じた。
 しかし、作家も演出も、原爆とロスアラモスをよく勉強されていて、その博識ぶりはよく分かる。
 
 ロスアラモスについて、とっておきの情報を紹介。
 ロスアラモスの研究施設と工場は、空から見ても分からないようにカモフラージュ。そのカモフラージュがふるっている。ディズニープロダクションのスタッフの指導で、屋根の上に街のセットを作った。いかにもアメリカらしく、わたしがロスアラモスを取り上げるなら、この線から迫る。『天空の街・ロスアラモス』なんかどうだろう。
 

 ホリゾントの、グラフィックの作りは、さすがに劇団大阪さんのセンスと技術の高さを感じた。在阪のアマチュア劇団で、これほどの人的、技術的財産をお持ちの劇団は、ちょっと見あたらない。
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大阪放送劇団・月の上の夜

2012-06-09 19:54:09 | 評論
大阪放送劇団・月の上の夜

作:渡辺えり 演出:端田宏三

☆一風変わったレクイエム
 明治後半の生まれであろう……ということは、主人公は百歳を超えてしまうが、この作品は1980年代の後半に書かれた芝居なので仕方がない。
 この年代の女性は、竹久夢二に代表される大正ロマンの中で思春期、青年期を過ごし、我が子を多く戦争で失い、戦後は帰らぬ夫を待ち、戦後復興の礎となってきた人たち。作者の祖母の世代にあたるであろう。
 そういう女性達への、一風変わった、そして、見事なレクイエムであると思うのだが、的はずれであろうか。
 山形に生まれた主人公時子は、臨終にさいして、現実と夢の間を行き来する。乙女が乙女に恋する『花物語』(吉屋信子・作)を下敷に、現実と夢とを交錯させながら、このレクイエムは展開していく。
 軽井沢に女学生姿のバラ子とユリ子との三人でピクニックをするところから、この芝居は始まる。そして、病室、バラ子の別荘。現実に父が管理人をしている別荘などと、何度も、夢と現実の間を行ったり来たり。
 現実の時子は、幼くして家を出され、学校も満足に行けず、別荘のお嬢さんからもらった『花物語』の中のお姫さまに恋してしまう。このお姫さまは、時子が湖底で眠りにつくことによって、目覚めることができる。
 何度かの暗示のあとに、ラストで、時子の死によって、お姫さまが蘇り、一際大きなお月様に収まるところなど圧巻に……したかったんだろうな。と思った。
 思ったというのは、ラストが明確なカタルシスになりきらず、観客は「え……ラストシーン?」とシーンとし、一瞬の間があって拍手が来た。
 これは、観客にシグナルとしての芝居は通じたが、共感しながら、のめり込むところまで芝居が完成していないせいであろうと思った。

☆笑い三年、泣き八年
 などと、役者の世界では言うが、この芝居は、軽井沢の花畑から始まる。緞帳は開きっぱなしで始まる。
 なにやら、チューリップがカミシモ二列に並んで、祭壇のようにしか見えなかったが、芝居が始まって二三分で、お花畑であることが分かる。

 で、この芝居は、無人のまま始まるが、始まってすぐにバラ子とユリ子の陰の笑い声がする。この笑い声で、役者は、観客を夢の世界に連れて行かなければならない。
 で、この笑い声が冷めている。プロの方を相手に口幅ったいが、きちんと笑えていない。登場したバラ子とユリ子の目が輝いていない。役としてエンジンが暖まらないうちに出てきてしまった……と、思った。
 しかし、お芝居全編で役者が、おおかた冷めている。
 台詞も、相手に届いていないので、注意しないと、舞台で行われていることが分からなくなってしまう。芝居とは分からせるものでは無く、感じさせるものである。僭越ではあるが、役者として、今少しのご精進をと思った。
 劇中に出てくる山形弁は、作者のソウルでもあり、演技的にもいいアクセントになるが、惜しくも、この山形弁が、もう一つ。
 主役の時子は好演ではあったが、歌とダンスになると、少し苦しい。
立ち回りが何度かあったが、もう少しきちんと殺陣をやってもらいたかった。茂男が「刀反対だけど」と、刀を収める役者に言うが、トチリのカバーなのかギャグなのかよく分からない。トチリのカバーなら秀逸な出来。
 劇団新感線などと比べると、夢としての芝居が弱い。もっと強引に観客を夢の世界にたたき込んでもらいたかった。夢の入り口までは連れて行ってもらえた。

☆一文字のアール・ヌーヴォー
 席に着いたときから気になっていたのだが、ホリ前の一文字幕が唐破風のように湾曲していた。ホリに月が照らされて分かった。文字幕に月がかかってしまうので、中央を引き上げてある。それがアール・ヌーヴォー風の味わいになり、舞台をキレイに縁取って、ラストシーンなどでは、非常に効果的であった。

☆この芝居に取り組んだすばらしさ
 こういう戦争体験者の世代の人生や死をとりあつかうと、なんとも陰惨、場合によっては思想的な背景を感じてイヤミなものであるが、渡辺えりという人は、それをファンタジーと笑いと、早変わり、殺陣、歌などを入れることで、エンタメにした。その点は、演出も役者も十分に理解している。好感の持てる取り組みで、観劇後、爽やかな感じで、劇場を後にできた。いっそう精進され、再演されることを期待!

☆個人的希望
 希望なので、言葉をあらためます。インジの『ピクニック』を演っていただけないでしょうか。昔、五期会が、旗揚げで好演されました。あの、人生、人間を大きく、肯定的に表現した「生きててよかった!」と感じられる芝居を、放送劇団の中堅、ベテランの方を交えて見てみたいと思いました。
 泉希衣子さんと、平口泰司さんのコンビで『にんじん』……ちょっと古いでしょうか?
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タキさんの押しつけ映画評4『外事警察』

2012-06-06 21:24:17 | 評論
タキさんの押しつけ映画評4『外事警察』

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。
 

 ヤバイ、論評しにくい映画を見ちまいました。
 面白かったんです。
 100‰お薦めで~す。

 さぁ! 見に行こう! おしまい。

見て来た? よっしゃ、ほんなら始めますか。
 
 原案は麻生幾の「外事警察」、元作は2009年のNHKドラマです。どちらも未見、真っ白で見に行きましたが…メッチャ面白かった。
 テレビドラマの映画化は元作を見ていないと半分判らない作品が多いのですが、本作にそういう弱点は有馬線(?)、導入部にさらっと流れる説明で物語の外郭が理解できる形に成っています。
 監督は「ハゲタカ」に引き続き堀切園健太郎、進行編集はさすがです…ただ、この人アップが好きなのは変わりませんなぁ~。なんか全編の1/2がアップ(そんな事もないが)じゃねえかくらいの印象があります。田中ミンさんの、それでなくとも痩せているのに、更に10キロ減量して、更に眼光鋭くなった顔がアップになると 背筋が思わずゾクッとします。
 この田中演じる徐(元在日外国人の原子力学者)と渡部篤郎の外事警察官/住本とのやり取りが本作の背骨です。
 全編、嘘、嘘、嘘、嘘の連続、その中にたった一つだけ 最初から最後までを貫いて存在する真実がある。それが何か?を……考えながら見るのがこの映画の醍醐味であります。
 そして、この緊張感は渡部/田中の演技力が生んだ奇跡と言っても言い過ぎじゃありません。
 今回改めて感じたのは、こういったアジアクライムシーンの映画に出演する韓国人俳優の上手さです。現実に未だ北と交戦中の国(朝鮮戦争は終わっていません、今は単に休戦中)の俳優さん、北との危機感・緊張感は本物。殊に、キム・ガンウのリアルな存在感は抜群であります。
 日本人では真木よう子さんをベタボメしたい。これまで彼女の演技は上手いのか下手なのか判断しかねていたのですが、本作の身体も心もバラバラに引き裂かれた女の役を見事に演じ切っている。彼女の周りも嘘だらけで何が真実なのか判らない。その中の何を彼女は信じたのか、あるいは信じたかったのか。彼女の中に真実はあったのか、いや 見つけたのか…これも本作の肝です。
 映画館の中は集中感がみなぎり、観客が一言の台詞も聞き逃すまいとしている。サスペンス映画として大成功している証拠です。
 不満と言えば……まぁこれはNHKエンターブライズの製作であるからやむなしですかね。
 映像も、殊に暗部の表現が素晴らしく、ただ塗りつぶすのではなく 微かに何かが映っている。冒頭、闇の中弱く光る徐の瞳。この瞳の奥にどんな想いが隠されているのかを追う作品であった事を思えば、いかにこのシーンが重いものであったかに気付く。
 邦画で此処までノアール感にどっぷり浸かれる映画もそうはない。映画を見る前にこれを読んでしまったアナタ。極力内容に触れないよう気を使って書きました。後は劇場で確認してください。 私は、取り敢えず本屋で原作を探して、それからテレビドラマのディスクを探しに行きます。
 
 蛇足: 昨日「海老蔵」というチャンコ屋さんで晩飯を食べました。JR長瀬の近くなんですが、メッチャ旨かったです。こんだけ旨いチャンコはメッタに有馬線。ただ、食べるのに必死で会話が弾まないきらいは有りますがね。 以上
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タキさんの押しつけ映画評2

2012-06-04 09:23:57 | 評論
タキさんの押しつけ映画評2

 これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。





(1)ダークシャドウ
  一切文句抜き、面白いのは100%保証、映画館に急げ~!
  元作は66年~71年の5年間放送されたソープ・オペラだそうで1200以上のエピソードがあるとか……当初、コリンズ家にやって来た家庭教師ヴィクトリアが主人公のミステリアスメロドラマであったが、徐々に幽霊や魔女が出てくるゴシックホラーとなり、コリンズ家のご先祖様・吸血鬼のバーナバス(ナーバスの組み換え?BAが一つ邪魔ですねえ、英語に詳しい方、解るなら教えて下さい。
 BARNABASがフルスペルです)が主人公となるや人気爆発、ストーリーはホラー・SF何でも有りの大暴走であったらしく、言ってみれば「スタートレック」「シービュー号」なんかのホラー版と考えれば良さそうです。 ティム・バートンの“さぁすがぁ~”と唸らされる所は、荒唐無稽ながら大真面目だった(らしい)元作をコメディタッチでリメイクしている所、元作を知らなくとも、その雰囲気が伝わってくるから不思議です。 コリンズ家の次期当主バーナバスは小間使いの女に手を付けて捨てる。所が、この女がとんでもない力を持っていて……バーナバスは鉄の棺桶に閉じ込められる羽目に……。
 200年後、ひょんな事から解き放たれて屋敷へと戻って来る。一族は没落していて、彼は家業を立て直そうと奮闘する。子孫たちと屋敷にいる面々はそれぞれ問題を抱えており、町にはまさかの(当然?) の存在も……という映画。一々荒唐無稽なエピソードの積み重ねながら、無理なく納得して見ていられる。久々に見た後「面白ェ~」と大満足出来る作品でした。
  キャストも文句無し、ジョニー・デップの怪演作として間違いなくNo.1、現当主エリザベス・コリンズのミシェル・ファイファーは必見!(いろんな意味で…個人的にはアカデミー助演女優賞を献上したい)。 エリザベスの娘・キャロリンのクロエ・グレース・モリッツもさすがの怪演、ただ これだけ怪作続きだとストレートプレイが出来なく成るんじゃないかと、いらぬ心配をしてしまう。 とんでもない小間使い・アンジェリークのエヴァ・グリーンはこれまでキャラクターに恵まれず、今作が最高アピール作、間違いない演技力に裏打ちされているので怪演にも余裕有り。 ヘレナ・ボナム・カーター、お可愛そうに またこれですか……いや、見て確かめて頂きたい。
 傑作なのはクリストファー・リーが出演している事で、どんな役かはお楽しみ。他には元作の出演者が出ているらしいがこればかりは誰が誰やらサッパリですけどね。バーナバスが戻って来るのは1972年、丁度元作が終わったころで、今から40年前の風俗も懐かしい。ティム・バートンの異形ファンタジーも此処に極まる。今後、これ以上の作品が出来るのか…楽しみなような、不安なような、次回作を見るのが怖い。

(2)ファミリーツリー
 さすがアカデミー脚色賞…と褒めたい所ながら、ちょっと待った!
  原題THE DESCENDANTSは「子孫」と言う意味、原作は未読だが、映画を見ていて、単に家族再生の映画だとは思え無い。家族再生を縦糸だとすると、主人公の一族がハワイに持っている土地の処分が横糸。恐らく原作は人間が生きる環境と商業主義への批判が最重要テーマだと思われる。
 邦題を「ファミリーツリー」なんぞと付けて、さも家族再生の作品だとコマーシャルするから見る側の焦点がぼけてしまう。
 ジョージ・クルーニーの等身大の父親という初めての役柄は見応えあったが、恐らく、これが上手すぎてメインテーマが霞んでいる。
 ラストシーン 子供二人に挟まれてテレビを見ている画は感動的なのだが、今一胸に迫って来ない。原作を読まないと確答できないが、脚色も家族愛に偏重しているのだと思われる。パンフレットもそちら側の評価しかしていない。試写会に行って「家族を抱きしめたく成った」と書いた人がいたが、私にはそんな感慨は浮かばなかった。
 あるいは私の見方が間違っているかもしれないが。
 だとするとこれは映画としては失敗作だと言わざる得ない。構成が中途半端で、焦点の合わせようが無い。残念
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タキさんの押しつけ映画評1

2012-06-03 22:10:32 | 評論
タキさんの押しつけ映画評1

 これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。

(1)ミッドナイト イン パリ
ウッディ・アレン最高!最上級の大人のメルヘン(メーフィェンと言うべきか?) 主人公の興奮がストレートに伝わって来ます。
 実にたわいのない話ですが、W・アレンの夢が詰まっていて(元々パリが大好きな人ですから) 創っていて監督本人が一番興奮していたんだろうなぁと想像出来る。
 ギル(主人公であると共に監督の分身、演じるオーウェン・ウィルソンが段々W・アレンに見えてくる)は売れっ子のシナリオライター、婚約者のイネズ及びその父母とパリに来ている。彼は1920年代のパリに憧れが有り、パリに暮らして小説家に成りたい。対して、イネズとその家族は典型的な俗物ヤンキーで、そもそもこの二人が婚約者だというのが不思議(まぁ、そう言う設定ですわ) ある夜、深夜道に迷ったギルは年代物のプジョーに乗った男女からパーティーに誘われる。
 着いた所は20年代のカフェで、そこではコール・ポーターが弾き語りをしており、彼をパーティーに誘ってくれたのはフィッツジェラルド夫妻だった。
 そこでヘミングウェイにも出会い、翌日には自身の小説を持ってガートルード・スタインのサロンに赴く、そこにはピカソと愛人アドリアナがいた。
……と、およそ作家・芸術家ならめくるめく、失神してしまいそうな興奮の体験をする。
 ってなストーリー、現代のアメリカ人はみんな俗物に描かれていて、こりゃあカンヌで大受けしたはずですわ。フィッツジェラルドは妻ゼルダに振り回されてるわ、ヘミングウェイは暑苦しいオッサンだわ、etc etc…ギルはダリの絵画のモデルになったり、ルイス・ブニュエルに映画のアイデアを語ったり、まさにアレンの想像、夢がこれでもかと詰まっていて、それがこちらに伝わって見ている観客も一緒に興奮してしまう。 このままだとギルは勿論、観客も20年代のパリから抜け出られなくなる…と思いきや、もう一つの仕掛けで、ちゃんと現代に帰って来る。ここがアカデミー脚本賞の真骨頂、唸らせてもらった。別段、この時代の知識などなくとも、本作の楽しさは減じるものではない。ギルの興奮をそのまま受け入れれば良い。
 キャスティングも実に豪華で、特にアドリアナを演じるマリオン・コティアールに恋しない男はいない。エイドリアン・ブロディのダリもそっくりだし、アリソン・ピルのゼルダはまさにこんな女(ひと)だったのだろうと思わせる。 五夜のタイムスリップの結果、ギルは多くを失うが、最後に素敵なプレゼントが待っている。兎に角、ユーモア・ウィット・優しさ満載の作品です。全身全霊をこめて鑑賞をお薦め。

(2)メン イン ブラック3
 アッハヒハヒハ、ようやる!! 全3作中 最高作です。但し!!! タイムパラドックスの細かい決まり事を一切考えてはならない!それを言い出すと最初から最後まで引っかかりまくる。 一切問答無用で受け入れなければならない。このルールさえ守れば、至極楽しめる作品であると保証します。SFのそこいらに拘りをお持ちの方は鑑賞をお止めになられた方が無難であります。
 ウィル・スミスはいつものウィル、あまりにも歳を取らないので、彼こそがエイリアンじゃないのかと思うほどです。K(T・L・ジョーンズ)の40年前を演じたジョッシュ・ブローリンがこれまた嵌り役で傑作です。小難しい理屈抜きに楽しんでいただきたい。
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劇団往来番外公演・『虫』作・藤本義一

2011-12-03 01:35:00 | 評論
劇団往来番外公演・『虫』作・藤本義一

この日、夕方から御堂筋線は、枕木のぼや騒ぎで止まっていました。

もともと難波から、会場の大丸北館のホールまでは歩こうと思っていたのですが、大勢の人たちが暮れなずんだ御堂筋を北へ歩く中にいると、なんだか集団で不思議な世界へ行くような気がしました。
気の早いクリスマスのイルミネーションが、いっそう夢幻の世界にいざなってくれるようでした。
おあつらえ向きに、大丸の手前には、手相見のオバサンが行灯に灯をともし、その向こうに大丸の入り口がポッカリと口を開けていました。
夢幻の行進の列から離れて、その入り口に一人向かっていきました。
夢幻の中の、さらに夢幻の世界に行くような錯覚。
まだ、開場には間があるので、十四階の会場に行くエレベーターには、数名のお客さんしか乗っていませんでした。

十四階につくと、ちょうど開場したところで、受付にはなじみの往来のみなさんが夢の世界の番人のごとく、最後の準備を終えたところ。
なんだか、これから落語の『七度狐』の世界に連れて行ってもらえそうな……で、小屋に足を踏み入れると、わたしの記憶の底に眠っていた、昭和の、それもかなり時代物のソレがそこにありました。

昭和三十年代前半の西成区山王町……といってもお分かりにならない人が多いでしょう。戦後復興の証のごとく再建された通天閣。その南側。飛田新地と呼ばれる遊郭が軒を連ね、世の裏と表が混在したような一角に、夢芸荘というアパート……と言っても、今のワンル-ムマンションのようなものではありません。引き戸の入り口を入ると二坪ほどの三和土(たたき) 入り口の横が共同の台所。粗末な流しの手前には、江戸時代のような水瓶。奥には、ご飯を炊く羽釜、コンロ。ずんと手前にはカンテキの上に、へこんだヤカン。
尺高の上がりがまちに続いて、共用のお茶の間。二階への階段が奥にあり、水屋や箪笥、神棚を上にした物入れ。上手には一階の部屋に続く廊下と思しき暖簾。

要は、江戸、明治、大正、昭和が混在したような立体長屋を想像していただければいいでしょう。

ここの住人は、落語家の円丸(まるまる)を始め、売れない、あるいはメジャーからはみ出してしまった芸人とその家族が住んでいます。その数九人。普通これだけのキャラを板の上に乗せると、人間関係どころか、誰が誰だか混乱し、勢い説明的な台詞などが入るのですが、全てドラマの中のイザコザの中で分かる仕組みになっています。一見簡単そうで、むつかしい。高校演劇の場合など、劇中にメモらないと、そういうことが分かりません。
そういうことが自然に分かるのは、本と演出、そして役者の演技がしっかりしているからであります。往来の皆さんは円熟の手前までこられたと感じました。一昔まえは、往来の役者さんたちは役者の声で、台詞を言っていましたが(発声はいいが、役者個人の個性が正面に出てしまう)今回は、完璧に役の声として観客席に届いていました。立ち居振る舞いも、役の個性として完成されていて、舞台に出てきて違和感を感じる役者がいませんでした。

話を、簡単にまとめると、落語家円丸が咽頭ガンに罹っていることが分かります。芸能斡旋所の所長が、こっそり亭主に死なれた漫才師の松子に「ここだけの話」として漏らしてしまい、それが落語のように、次々と他の住人の知るところとなる。この展開は大いに笑わせてくれます。
住人たちは、円丸には知られないように気を遣いながら、時にエゴから邪険にしてしまったりします。円丸も住人たちの善意を素直に受け入れられず、捨て鉢になったり。
そんな、ある日芸能斡旋所の所長が、住人たちに、こう言ってきます「若松座の支配人が、新人発掘のためこの夢芸荘にやってくる」
しかしテストを受けられるのは二組だけ。奇術師横田の発案でくじ引きで、それを決めることになります。くじに当たったのは、急ごしらえの漫才コンビ松子と宏次と円丸。
いよいよテストの日がやってくる。松子と宏次のコンビは合格するが、円丸は芸を商品としか見ない支配人(マスコミの、芸を見る目の代表としての目)によって、不合格となるばかりか、時代遅れの烙印を押され、芸人としての人格を否定されます。咽頭ガンの病状も悪化し、円丸は発狂し精神病院に入れられることに……円丸は、狂いながら「早よ、芽え出しや」と、菊の鉢植えに肥やしをやり続けます。貸衣装屋のオバハンが、貸した羽織をむしり取っていきます。
そして、病院から迎えが来ます。

ここにいたるまで、住人たちは人情的で自分勝手、プライドが高いわりに線が細く、お人好し、涙もろくて面白い。
どこかで、自分を笑い飛ばしながら、風に震えている人間群像の描き方が見事であります。

どこか、ゴーリキーや黒澤明の『どん底』を思わせる話ですが、藤本義一という作家の人を見る目は暖かい。
円丸が精神病院に入れられるところで終わってしまえば、それはそれで、人間の破綻した生き様を描いたドラマにはなるのですが、藤本義一という人は、話を、こう続けます。
そこひを患った講釈師夫婦が、こう締めくくります。
「あんた、当たりくじを円丸はんに……あげたやろ」
「うん。せめてなあ……と、思て。ワシの目はもう見えへん。せやけど目えは見えんけど、涙は出てきよる」
そして、出囃子で幕が下りると思いきや……下手、アパートの入り口のところにサスがおち、円丸が肥やしをやった鉢植えの菊が見事に花を咲かせています。これは、本の指定なのか、鈴木さんの演出なのか、観る者の心にも花を咲かせる分かりやすくて、心を癒してくれる演出でした。


妙な例えですが『どん底』が、「ビーフシチュー」だとしたら、この『虫』は「肉じゃが」であります。それもたきしめて、肉やジャガ芋にしっかり味の染みこんだそれ。

道具は、ほぼ完璧なのですが、わずかに不満が残りました。
汚さがキレイなのです。汚しはかけてあるのですが、柱や軒、引き戸、フスマに寸分の狂いもない。場末のアパートなら、いささかのガタピシがあっても良かったのではないだろうかと。また三和土に汚れやクスミが無く、茶の間も、なぜかタタミではなく三和土と同じくパンチのジガスリのようで、違和感がありました。往来の道具作りの上手さが逆効果になったか……役者さんの演技が激しいので、滑ることを心配されたのかもしれません。
また、柱時計。往来なら針を動かすかと思いましたが、動かない。アラを見つけたと思って喜んでいたら、きちんと話の中でそうあるべしになっていました。以前このアパートにいた住人が、中身の機械だけを質に入れたというオチがついています。藤本義一といい、演出の鈴木さんといい、大阪という土地と人情を、よくご存じでありました。
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ほんとうの創作劇のありかた

2011-11-21 16:51:42 | 評論
ほんとうの創作劇のありかた
高校演劇の芝居を半世紀近く観てきました。むろん全てではありません。まあ、ざっと400~500本くらいでしょうか。わたしが、この半生で観た芝居の約半分近くが、大阪の高校演劇でした。

これだけの数を観ていながら、頭に残っている作品はほんの数本です。日比野諦観先生の『海の見える離れ』佐藤良和先生の『喪服』都島工業の『天国どろぼう』ぐらいのものでしょうか。
わたしが観ていない作品で、佐藤良和先生の『さざんがきゅう』という三人三役の名作がありますが見落としています。校名は失念しましたが井上ひさし作『父と暮らせば』がありますが、これも観ておりません。
それ以外の作品は、キレイサッパリ記憶に残っておりません(自分の学校の作品は除いております)
いわゆる、常連校さんの作品は、ほんの僅か断片的な印象としてしか残っていません。

K高校のいつも、凝った道具、照明、張ることしかしない台詞、痩せた台本。特に気になったのは女の子の描き方です。
こんなシーンがありました。女の子が数名、無対象のトイレに入るシーンがありました。まさか、そこまではしないだろうと見ていたのですが、トイレの中でやることを無対象ではありますが、キチント演っていました。笑っている観客もいましたが、わたしは笑えませんでした。十七八の女の子にやらせるものではないと思いました。とにかく、このK高校の女の子の描きようは、わたしの趣味に合いません。汚い演技というのは、歳がいけばいくらもできます。十七八というのは、その年齢でしか出せないミズミズシサや、まぶしい若さがあります。歳をとって、そういう演技を演ることは、よほどの名優さんでなければできません。
また、そういう汚さに必然性があれば、まだ納得がいくのですが。ただグロテスクで、声を張るだけで何も記憶には残っていません。

O高校は、ひところ舞台を八百屋さんになさって、十名近い役者がシャウトしていたことが印象として残っています。なにか日の丸に関する芝居をやっておられたように思うのですが、これも記憶が定かではありません。ある国の国旗だとしておきましょう。その旗が決められた時間に掲揚され、それに敬礼しないと監視カメラがあって、エライさんから叱責されるという、現代の監視社会を予見させるような芝居でしたが、設定に対する浅さと、人物の描き方が類型的であった不満が残ったことを記憶しております。

以上は、批評であります。否定ではありませんので、おことわりしておきます。

合評会のありかた
こういう批評をおこなうのが合評会であります。12月の中旬に本選の合評会が開かれるとおもいますが、昨年のようなホメコトバしか出ないような合評会にならないことを祈ります。ホメコトバは、その場は暖かくしますが、『王様の耳はロバの耳』の王様になってしまいます。分からないところ、これは違うと思ったところなど、素直に出しましょう。合評会は基本的には言いっぱなし、言われっぱなしでいいのです。合評会は、何事かを決める場所ではないのです。「何事かについて批評しあう場」でしかありません。言い心地、聞き心地の良い言葉ばかりでは、無意識の「誉め殺し」にしかなりません。太宰治(ぐらい知ってますよね?)が、「青年とは、否定をいたく好むもの」と言っています。これは青年期の特権です。大いに批評しあってください。

もう一度、創作劇のあり方
本題に戻ります。そういう創作劇を一回ポッキリの演りっぱなしにしないで、いただいた批評や、自分たちの感じたこと(芝居とは、身内で見ている稽古と本番でのそれとは大きく違います)を元にして、改稿再演していただければと思います。
歌や絵などは、発表後に手を加えられることが多くあります。例えばAKB48の曲など、ヒットチャートにのっている期間が長いので、その期間で微妙に変わっています。
天王寺商業が演った『I WANT YOU』は四半世紀前にやった『欲しいものは』の何回目かの改作であります。四半世紀の間に五団体、二十回ほどの上演がありました、その度に手を加え、上演時間だけでも三十五分から五十三分まで伸びています。途中オトナの劇団でも上演されましたので、いささか高校生諸君にはムツカシイものになったかもしれません。

どうか、創作劇を使い捨てにしないで手を加えてください。使い捨てていては、「大阪は創作劇を大事にするところ」だとはいえません。
くどいようですが「使い捨て」「大事にしている」並立する言葉ではありません。
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ピッコロフェスティバルで新作『クララ』を発表!

2011-08-17 18:05:19 | 評論

『クララ ハイジを待ちながら』を天王寺商業高校演劇部が上演しました!

大阪府高等学校演劇連盟加盟校の天王寺商業高校演劇部が、わたしの最新作『クララ ハイジを待ちながら』を8月17日ピッコロフェスティバルに参加して上演してくださいました。

『クララ』は、わたしが常々申しております小規模演劇部の上演に特化して書いた作品群の最新作です。揺れ動く青春の心理を『アルプスの少女ハイジ』のクララに託して、不登校、引きこもりの問題を通し表現してみました。不登校、引きこもりというと、とかく暗いイメージで取り上げられがちですが、現実のそれは、一見平穏、時には明るくさえ見えます。これは私自身の30年に渡った教師生活からも言えることです。人間は長時間に渡って緊張感を保てるようにはできていません。太宰治の作品に、こんな言葉があります「明るさは滅びの徴(しるし)であろうか、人も家も暗いうちは滅びはせぬ」 

そう、明るいがゆえに危機ををはらんでいるのです。ファンタジーな世界にアハハ……と笑っているうちに、人間の孤独さ、青春の脆さ、愛おしさが見えてきます。

天王寺商業高校演劇部は、大阪では珍しく、わたしの作品を取り上げてくださる演劇部です。この夏、天商野球部が、天商最後の野球部として夏の高校野球に臨む姿がテレビなどで報じられましたが、演劇部も、天商として最後の年になりました。部員は兼業部員も含めたった3人の絵に描いたような小規模演劇部です。そんな演劇部でもこれだけのことが出来る! という実践でありました。

大阪府高等学校演劇連盟には、天商のような小規模演劇部が沢山あります。連盟はこれになかなか有効な手だてが打てず苦慮されています。演劇の三要素は(観客、戯曲、役者)の三つです。ここに立ち戻った芝居作りのメソードが必要です。その答えを提示いたしました。

天商演劇部は当初、拙作の一つ『月に吠える』を上演予定でしたが、都合で出演できない生徒が出て、急きょ一ヶ月前に『クララ』への変更を思い立たれました。実質三週間という稽古日数の中で、ほとんどクララの一人芝居といっていいこの作品をよく仕上げられました。

この芝居は、青春の蹉跌といってもいい引きこもりを、クララがチャット相手である「アナタ」と会話することが柱になっています。大人や社会に対する不信感と、それに向かい合う不安が、ブラックユーモアのカタチで明るくコミカルに紡ぎ出されてきます。新入りのメイドのシャルロッテは、そんなクララを偉くて、チョッピリ情緒不安定、でもイタズラや会話はとても面白い姉か、友だちの女ボスを見るように慕っていきます。ロッテンマイヤー女史は、意見ばかりしていますが、これも叱りながらもハイジとの再会にクララの回復を期待します。クララは、ハイジが来ると「服を探さなくっちゃ!」と、部屋中ひっくり返し、最適な服を探します。ハイジが飽きて行ってしまってから、やっと服を決め、交差点までハイジを追いかけ「間に合わなかったわ……」と言って戻ってくることの繰り返し。

そして今回も、シャルロッテに手伝ってもらって、部屋中ひっくり返し「シャルちゃん、それ脱いで……!」と、シャルロッテのメイド服に目を付け「脱げ~!」と迫り馬乗りになります。あわや裸にされかけたとき、シャルロッテが叫びます「お嬢様は、お嬢様なんですから、クララ・ゼーゼマンでいらっしゃるのですから!」

「そう、そうよね……わたしは、わたし……クララ・ゼーゼマン……なのよね!?」と、普段着で部屋を飛び出します。ロッテンマイヤー女史は「いつもこうなんだから……」と、ため息。

わたしは、この話に答えを出していません。クララはやっと引きこもりから抜け出したのか、いつものように「間に合わなかった……」と帰ってくるのか。菊池寛の『父帰る』と同様な終わり方をしていますが、天商演劇部は「今度こそ間に合った」と暗示して幕を下ろしました。

天商野球部が、今年で最後になるとテレビやマスコミで取り上げられましたが、天商演劇部は、来年「新校」になっても(市岡商業高校、東商業高校と合併の演劇部になります。その苦労は察して余りあるものがあります)明るく前を向いてやっていこうというエモーションを籠め、クララに託して舞台化してくれました。その意気に感じてか、ご多忙の中校長先生も来られ、「カンゲキした!」と韻を踏んだのか、おやじギャグか分からない言葉を残していかれました。なかなか言語感覚のいい校長先生でした。普通、コンクールの本選でも校長が来られることは希です。それが塚口まで足を伸ばされました。血の巡りのいい学校であると拝察いたしました。

わたしも、昨年コーチをしておりましたので、たまに顔をだします。正直、一月足らずでこの芝居を演りきることは無茶だと思いました。つい数日前に伺ったときも、主役のクララをやったKさんが、なかなか台詞が入らず苦悩(苦労ではなく、苦悩)していました。幸いシャルロッテをやったYさんとは同級生、励ましあったり罵倒あったり。しかし本番は荒削りではありますが、この「クララ」の初演に相応しく初々しい芝居に仕上げてくれました。ちなみにKさんは陸上部の出身で、演劇は、高校に入って始めてです。Yさんは中学三年間演劇部でしたが、それを鼻にかけることもなく、一緒に仲良く汗を流していました。

ただ、難を言えば、二人の真面目さが役の形象にでてしまい、はじけきれなかったことでしょうか。 そういうと顧問のF先生が上沼恵美子そっくりな顔で、「こんな本書いたん誰やのん!」

おお、ツルカメツルカメ……

 

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部室の台本を読んでみよう

2011-07-12 09:51:28 | 評論

 文化祭や、コンクール、まだ遠い先だとは思っていませんか?

【もう三ヶ月を割っている!】標準的な文化祭は十月前後。コンクールの予選は十一月の初旬から、中旬にかけて。逆算すれば、もう三ヶ月を切り始めています。正直、創作劇を書いて上演するのは、時期的に遅いです。

【卒業生に聞きました】昨日、昨年コーチをやっていた学校の卒業生に会いました。三年間、連盟で生徒の実行委員をやっていた、いわば高校演劇OBのベテランです。「創作劇て、みんないつごろから書きはじめてんのん?」

【九月に入ってからです】と、彼は答えました。わたしも、だいたいそのくらいだと思っていました。何度かこのブログで言ってきましたが、本を書くのには、標準で三ヶ月かかります。戯曲というのはやっかいなもので、役者の体と声を使って肉体化しないと完成しません。

【例えば】友だちが家にやってきて「どうぞ、あがって」という台詞があったとします。本は、そのあとリビングの場面になり、新しい会話が始まります。小説なら、それでいいんですが、芝居は、靴を脱いで、リビングまで行くという生活(行動)が必要なのです。気を遣うかもしれません、何気ない世間話や、挨拶があるかもしれません。それを表現しなければなりません。芝居のテンポを考えると、場合によっては、暗転にして、リビングで座っているシーンに飛躍させ「うそ、ほんと!?」などと言わせ、それから起こる展開を強調しなければならないかもしれません。

【稽古をしないと分からない】ものなんです。で、稽古の過程で本は書き換えられていきます。そういうことを考えると、三ヶ月はかかります。大阪の創作劇が痩せている(と、思っています)のは、この過程をとばして、生のまま、舞台に乗せるからです。だから、もう創作劇を書くのはいささか遅きに失します。前述の卒業生は、こうも言っていました。私学のA高校は、コンクールが終わったら、すぐに来年の文化祭、コンクールに向けての台本を書き始めるのだそうです。実に一年をかけて芝居を創っています。先輩や顧問の先生の指導が、いつの間にか伝統になったのでしょう。わたしは、これを評価します。

【一般的には】やはり、九月前後になってから、本を書く学校が多いと思います。なんせ大阪は九十%を超える創作率です。くり返します。九月……いいえ、今でも、すでに遅いのです。

【そこで提案です】部室や、ロッカーに眠っている、先輩たちが演った本を読み返しましょう(できたら演出が使っていた台本) 一度上演された本は、一度稽古を通して肉体化され、観客の目に晒され、コンクールでは、審査員や、観客の講評、や評判を受けています。新作を書くよりも、効率が良いと思います。その台本の書き込みや、書き換えを味わいましょう。きっと何か光を放っています。上演されたということは、それだけの価値と重みがあります。

【創作劇】を大切にするということは、そういうことだと思うのです。本は使い捨てではないんです。例えば野球選手を考えてください。一シーズン不調だった選手は、シーズンオフに調整をやります。そして来期を目指します。戯曲にも調整の期間があっていい……あるべきだと思います。わたしは生業が本書きなので、上演される度に、できるだけ上演資料や、審査員、観客の評を集めます。そうやって、多い本だと十回近く書き換えています。そうやって戯曲というのは進化していくものなんです。

【書く手間がはぶける】わけですから(むろん、今に適うように書き換えはしなければなりませんが) その間、他の本を読んだりDVDを観たりして、本を読む目、ドラマを観る目を養ってください。こないだ「時をかける少女」を観ました。仲里依紗主演の最新作です。この「時をかける少女」は筒井康隆が1967年に発表した小説で、その後、テレビや映画でリメイクされてきました。わたしは中学生のときに小説から入りました。その後映像化されたものは全て観ました。去年作られた最新作の出来が一番だと思いました。主演の仲里依紗は、その前のアニメ版の主役である真琴の声をやっていて、いわば同じ役を、アニメと実写で演ったわけで、役の形象としては進歩していたと思いました。このように、本も役者も成長するものなのです。

【新しいものに飛びつかず】先輩が残したものを、もう一度見つめ直してください。それが既成本であれ、創作であれ。そこから、大阪の高校演劇の明日が開けてくると思います。

      劇作家  大橋 むつお

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高校演劇ー基礎練習(1)

2011-06-30 19:13:41 | 評論

一学期ももう終盤、四月からの部活を振り返って、どうだったでしょう?
新入部員は獲得できたでしょうか?
基礎練習、何をやって良いかわからなかったり、これでいいんだろうか、とは感じてはいませんか?

発声練習、「あめんぼ赤いなアイウエオ……」 腹式呼吸で、お腹ペコペコなんてやっていませんか?
両方とも、築地小劇場(もう80年くらい昔)時代からのメソードです。
意味が無いとは言いませんが、ちょっと退屈で、遠回りなメソードです。難しくいうと、ちょっとストイックです。

稽古はできたら、楽しく効率的であったほうがいいですね。「声を腹から出せ」と、よく言われますが、間違いです。お腹から声なんか出てきません。お腹は、せいぜい空いたときに「ぐ~」 こわしたときに「ごろごろ~」というのが関の山です。

声は、喉から出てきます。気管の上に声帯という筋肉があってこれが振動すことによって声が出てきます。だからだれでも声は出るんです。
ただ、声には響く声と響かない声があります。
声帯というのは、楽器でいうと弦、マウスピースにあたるものです。ブラバンの新入部員の人たちが、今このレベルじゃないでしょうか。
校庭や音楽室でブーブーとかピーピーとか、楽器とは思えない音を出していませんか。マウスピースで出たと思っても、楽器本体につけると、先輩たちのようにいい音が出ない。俗に「クサイ音」といわれます。わたしも中学のころはブラバンだったので、この時期「クサイ音」を出していました。
役者の声も同じです。声帯で出てきた声をうまく響かせないと「良い声」にはなりません。良い声というのは「良く響く声」のことです。
楽器は、弦楽器なら胴、金管楽器なら本体のラッパのところで共鳴させ、大きくてきれいな音になります。
声は、一言で言えば頭で共鳴させます。とくに顔の前方。
舌で上の前歯を触って下さい。そしてそのまま舌で上あごを奥の方になぞってみてください。最初の方は硬いでしょ、これを硬口蓋といいます。さらに奥を舌でなぞると柔らかくなって、ちょっとえづきそうになります。ここを軟口蓋といいます。

良く響く声というのは、この硬口蓋に声がぶち当たり、共鳴箱である頭の骨(特に前の方)が良く響いている声のことで、「マスク共鳴」といいます。最初に口を閉じてハミングしてみましょう。顔の前の方がビリビリと振動していることに気づきませんか? コツは、ハミングではありますが口の中を玉子一個はいるくらいのイメージで広げておくことです。ビリビリが自覚できたら、口を開けます。まだ息は鼻からだけ出していてください。ビリビリが消えてしまうようなら口から息が抜けている証拠です。ハミングすると声帯から出た声は鼻から出ざるをえず。だれでも顔がビリビリと振動します。難しくいうとホッペの中の空洞「前頭洞」が振動しているのです。
さて、口を開けてもビリビリしているようなら、そろそろと口から声を出してみます。とたんにビリビリが無くなりませんか? これは声が軟口蓋の柔らかい肉に吸収されてしまって響かなくなるからです。
そう、理屈は簡単なんです。声を硬口蓋にぶち当てられるようになればいいんです。
稽古で、一番声が硬口蓋にぶち当たる、口と喉のカタチを探ってください。うがいをするように真上を向いて声を出し、少しずつ顔を下に向けます。そのとき、口の中を大きく、すこしアゴを前の方にもっていくとスィートスポットが見つけやすいです。

次に体。姿勢良く立ちましょう。しかし力んだ「気をつけ」ではいけません。そしてきれいに歩いてみましょう。コツは腰で歩くということです。
次に顔。自然な笑顔が作れますか? ウィンクできますか? 案外できませんね。笑顔は虫歯が痛いのを堪えているような顔になっていませんか。ウィンクは目にゴミが入ったみたいにギュっとなっていませんか。慣れない人は片目だけつぶることもできません。アメリカ人なんかは子供でも自然にやってのけます。生活の中に習慣としてあるからです。
わたしは、今指導している生徒にAKBの「会いたかった」をやらせています。明るく響く声。美しい姿勢、笑顔が全部この中には含まれています。まあ、やりかたは様々です。役者の基礎を教えるのは、自転車の乗り方を口で説明するようにもどかしいものです。世に出回っている入門書もムツカシイもなが多いです。この春から『ホンワカ女子高生HBが本格的に演劇部にとりくむまで』という小説形式の入門書のブログを始めました『女子高生HB』で検索してください。                大橋むつお

『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』          青雲書房より発売中。大橋むつおの最新小説!  お申込は、最寄書店などでお取り寄せいただくか、下記の出版社に直接ご連絡いただくのが、一番早いようです。ネット通販ではアマゾンや楽天があります。青雲に直接ご注文頂ければ下記の定価でお求めいただけます。 青雲書房直接お申し込みは、定価本体1200円+税=1260円。送料無料。 送金は着荷後、同封の〒振替え用紙をご利用ください。 大橋むつお戯曲集『わたし 今日から魔女!?』  高校演劇に適した少人数戯曲集です。神奈川など関東の高校で人気があります。  60分劇5編入り 定価1365円(本体1300円+税)送料無料。 お申込の際は住所・お名前・電話番号をお忘れなく。 青雲書房。 mail:seiun39@k5.dion.ne.jp ℡:03-6677-4351 大橋むつお戯曲集『自由の翼』戯曲5本入り 1050円(税込み)  門土社 横浜市南区宮元町3-44 ℡045-714-1471   
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劇団大阪『フォルモサ!』

2011-06-27 13:47:08 | 評論

 大阪春の演劇まつり参加の、劇団大阪による公演でありました。劇団大阪は創立40周年にあたり、創作脚本を公募され、その最優秀に選ばれた石原燃さんの『フォルモサ』を上演されました。

 作品は、戦前の明治末年、日本統治下の台湾が舞台。高砂族と総称される台湾の山岳原住民の人類学的調査を依頼された、総督府嘱託の人類学者百木太郎の苦悩を描いたドラマです。彼は東京帝大の人類学者森尾を助け、当時蛮族と呼ばれていた原住民の調査にあたるが、その調査が滅び行くことを前提とした調査であり、皇民化政策の一環であり、彼らの文化を失わせるものであり、帰順せぬ者は征伐されると知って懊悩する。そして、百木はせめて彼らを移住させ、生存の道をさぐろうとして周囲の者との軋轢の末、強制的に日本に送還され、送還される船上から海に身を投げて行方不明になる。これが大筋であります。

 芝居は百木の妻アイの手紙(?)の朗読から始まる。意図は分かるのだが読まれてしまうと、聞き逃したところが分からない。ドラマとして見せて欲しいと思いました。ただ「毒婦たれ」という言葉がキーワードなのだろうと思いましたが、劇中アイの苦悩が一人称で終わった感じがして、百木の理解者たろうとしたアイの心情に共感……したいのに、しきれないもどかしさを感じました。ラストも、アイの手紙と百木の助手をやった宮田の手紙の読みあいで、建前としての宮田(在台日本人の理解と意志の限界のシンボル)と、本音としてのアイの言葉のかみ合わなさを象徴的に表そうとした演出意図であると汲み取りました。ドラマとは感じさせるもので、くみ取らせてはどうなんだろう……と、思いました。

 役者は、さすがに劇団大阪で、大半の役者さんの役の形象は見事でした。ただ、百木の原住民への思いが、始めから「ありき」 所与の前提になっており、百木の思いがドラマとして昇華しきれていない感じがして、これも置いてけぼりを食った感じになりました。

 作者ご自身の、お言葉で語っておられますが、創作にあたり台湾の学者楊先生の森丑之助(実在の日本人学者)について語られた話がもとになっているようです。初稿があがった段階で楊先生に見てもらわれたようで、正直に楊先生のお言葉が書かれていました。「百木太郎は丑之助とは別の人物だし、あなたの創作上の意図はとてもよくわかります。でも、森丑之助は本当に寛容で優しい立派な人だったんですよ」 楊先生は、遠慮がちにではありますが、石原さんの作品に違和感をおぼえられたんではないでしょうか。この作品は日本人に対する目の冷たさを感じる……と言っては失礼なのですが。登場人物(百木の養女、タイヤル族のハナコを除いて全て日本人)が、百木は一途ではありますが、タイヤル族をはじめとする原住民への思いが、なにか内向きに自己完結して、観客として共感できません。他の日本人は、小市民的か独善的で、同じ日本人であることが恥ずかしくなるような形象であったことが残念です。

 作品では触れられておりませんが、パンフに書かれていた抗日蜂起、いわゆる霧社事件のほうが、双方の誤解と、日本がとった対応の残虐さがよく分かったのではないでしょうか。なんせ日本軍は毒ガスを使い、親日的な高砂族同士たたかわせたのですから。

 ただ、ここで基本的な見解の相違になると思うのですが、日本の台湾統治は、当時としては非常に成功した例であると思っております。親日感情の良さは李登輝元総統の言葉を持ち出さずとも、台湾旅行をした人たちが、たいてい感じてくることであります。この21世紀の感覚で当時を見ては、見失うものが、どうしても出てきます。

 さらに巨視的に民族が、他民族に与えた耐え難い残虐行為をとらえるなら、わたしは東京大空襲を作戦立案したアメリカのカーチス・ルメイを取り上げます。東京大空襲は、広島、長崎の原爆を上回る10万人の日本人を焼き殺し、戦後は航空自衛隊の創設に功績があったとして日本政府は勲章まで与えています。ここにアメリカ人のプラグマティズムと、日本が戦後置かれた国際的、地政学的な悲しい位置を感じるのです。しかし、わたしは建築で言えば二級建築士、三階建て以上の建物は建てられません。石原さんは一級建築士であります。建てた作品に違和感はあるとはいえ、ちゃんと耐震基準をみたした建物をお建てになったと思います。

 演劇的には、傾向の違いを感じますが、40年の長きにわたって、これだけの堅牢な劇団を経営し、発展させてこられてきたことは、後輩として敬意の念を禁じ得ません。これからも、益々のご発展を期待いたします。

       劇作家  大橋むつお

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劇団往来『ママはダンスを踊らない』

2011-06-26 23:31:10 | 評論
劇団往来『ママはダンスを踊らない』

 第35回大阪春の演劇まつりの参加作品です。演出の鈴木君とは学生時代に何度かエキストラの仕事をまわしてもらったり、古い付き合いですがビッグになったなあと思います。劇団往来は、大阪でも屈指の劇団になりました。さて、今回はブレヒトでもなく、原爆がテーマでもなく、お気楽で楽しいエンタテイメントでした。


 とある町のゲイバー「アクエリアス」に勤めるオカマの明菜はオカマ歴26年のベテラン。親友で店のママでもある夢路が、経営不振のためニューハーフ、ハードゲイ、オナベを取りそろえた。さあ大変、店ではニューハーフ対その他(主にオカマ)の対立となった! そんな中、明菜は密かに心を寄せている萬太郎から、一人娘の千里を預かって欲しいと頼まれる。仕事のトラブルで、しばらく町を離れなければならなくなった萬太郎に代わり、一週間後に私立のお嬢様中学の受験を控えている千里である。子供を育てたことのない明菜と生意気娘の千里の戦いも、火ぶたを切っておとされた……


 この芝居、あらゆる意味でてんこ盛り! キャストが48人、正にORAI48! それも往来だけでなく、落語家の桂春駒さん、桂春蝶さん、よしもとクリエイティブ、CEL,SABカンパニー、ムーンビームマシン、HIA,ステージ21、舞夢プロ、とてんこ盛り。とばすギャグもてんこ盛り。ラストはもちろんのこと劇中にカルカチュアライズされた人間性がてんこ盛り。挿入歌は4曲まで数えましたが、途中で数えるのを忘れるくらいに上手い歌と踊りのエンタメのてんこ盛り。 もう満腹でした。


 道具や照明、衣装があか抜けて上手いのは、みなさんその道のプロなので、当たり前なので省略しますが、店と萬太郎のアパートを盆を回して転換する手際は大したものでした。わたしたちの常識で、なるべく転換や暗転は避けるのですが、舞台はテレビのカット割りのように変わっていきます。エプロンや花道の使い方も上手く、とにかく客を飽きさせません。明菜を演った要冷蔵さんは昨年の芝居では旧陸軍の将校を演っていたので、同じ舞台で冴えないオカマさんを演っているので、そのギャップの大きさに(おそらく演出も意図しないところで)笑ってしまいます。


 48人も出しながら、ハーモニーの取り方も絶妙でした。所属もまちまち、キャストの年齢も、十歳ぐらいから、還暦前後の方まで、それぞれの色を出しながら全体の芝居の色もしっかり出していました。みなさんお上手なのですが、特に子役の子達が上手いです。昨年の芝居では、言われたとおりに演ってますという感じだったのですが、すごく自然に(むろん、自然に見えるように演出は苦労されたのでしょうが)子供たちの集団を作っていました。欲を言えば、今少し子供たちの個性が明確だとよかったと思いましたが、生きた子供として形象されていました。中でも準主役と言っていい千里を演った今津さんと南雲さんは、千里と奈津子を交互に演っていたようですが、大人の役者と対等な演技ですばらしかったです。わたしの悪い癖で、台詞を喋っていない役者に目がいってしまいます。店のシーンなど上下にボックス席があるのですが、上手で芝居を演っていると下手のボックス席に目がいきます。そういうとき、やや小芝居になっていて、店全体の盛り上がりがもっとできたと感じました。千里の今津さんは、その点きちんとできていました。相手役の台詞や演技の中できちんと自分の演技ができていて素敵でした。ラストで明菜といっしょに食事の準備をするところなど、それまでの千里の葛藤を踏まえた上で、ちゃんと和解のカタルシスを表現できていました。作品も余計なラストを書かず、明菜と千里の食事の準備で、和解とハッピーな未来を暗示させるところで筆を止めていることに好感が持てました。


桂枝雀さんが、生前こんなことをおっしゃっていました「新劇の人は、真面目に芝居しすぎですわ。演るほうが楽しまんと、観てる人は楽しなりまへんで」 まことにその言葉通り、みなさん舞台できちんと楽しんでいらっしゃいました。当然、楽しめるだけの力と、稽古をなさった上であることは言うまでもありません。


劇作家として一言。 わたしなら明菜の誕生日を4月4日の設定にして、エピソードを一つ増やしたかなあ、と、思いました。4月4日はオカマさんの日なんです。3月3日のひな祭りと、5月5日の端午の節句のちょうど真ん中……


       劇作家  大橋むつお

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劇団未来『はいせんやあれへん しゅうせんや……?』

2011-06-20 00:02:04 | 評論

第三十五回大阪春の演劇まつり、第三弾は劇団未来の『はいせんやあれへん しゅうせんや』と、和田澄子さんの作品『西瓜と風鈴~61年目の夏~』の二本立てで、演出は共に波田久夫さんでした。

『はいせんやあれへん しゅうせんや……?』は「上町台地」「おおさか商い地図」の群読から、八人の俳優による八つの詩の朗読に移り、それを西尾さんのナレーションと、ホリゾントに写した動画とスライドが暖かく……そう暖かいのです。戦争を語りながら暖かい。不思議な体験でした。

群読で、大阪全体の描写を少しコミカルなタッチで描写。そのあと、大阪各地で空襲に遭った人たち個々の詩になっていきます。こういう戦争体験の話や詩はときとして、感情過多になるものなのですが、抑制された表現が効果的に観客の心に、そのころの大阪、そのころの大阪の人々の心を感じさせてくれました。八つの詩の中に「わたしの八月十四日」というのがあります。みなさんご存じでしょうか、終戦(敗戦)の前日、大阪の砲兵工廠を爆撃したB29の大型爆弾が国鉄の京橋駅の省線(今の環状線)と片町線(今の学園都市線)の交差するあたりに落ち多くの人たちが亡くなりました。この詩が、二本目の芝居『西瓜と風鈴』の伏線にもなっています。

「戦争を知らない子供たち」である私も、もう還暦が近くなってきました。親はバリバリの戦争世代。学校の先生たちもそうでした。ときにアルコールが入ったり、説教の折などに「戦時中の話」を聞かされました。正直「またかいな」と、思ったものです。しかし、戦時中に大人だった人はしだいに減ってきました。生存されている方も九十前後。なかなかお話はうかがえません。還暦近くになり「自分とはなんだろう」と、ガラにもなく思うことがあります。その時に「あの戦争」は避けて通れません。なぜなら、私たちを育て、教え諭してくれた大人達は戦前の教育を受け、戦争の体験をして、その教育と体験をもとにそれをしていたからです。団塊の世代や、それに続く我々断層の世代のDNAの中には確実にそれが入っています。食事のときのしつけに始まり、ケンカなぞしたときの対処法。友だちとの付き合い方。「駆逐本艦」という遊び。日の丸への思いなど、左右の考え方の違いはあっても、我々は、その「戦争を生きてきた大人達」に育てられたのです。

わたし個人も折に触れて、戦争体験者の話を聞くようにしています。うちの母の実家は真宗の寺でした。戦時中に釣り鐘を金属供出に出した話や、玉音放送の前日に、ようやく防空壕を掘り出し、十五日に重大放送があると聞き、村中総出で、放送に間に合うように防空壕を掘りました……そして、降って湧いたような終戦。村の人たちは、蝉時雨の中、掘ったばかりの防空壕を見つめていたそうです。 終戦により日本の軍隊は無くなったと思われていますが、近衛師団の一部を一年だけ禁衛府衛士として残したことは、ほとんど知られていません。わたしの義兄のお父さんがやってらっしゃいました。また、世に有名な「国防婦人会」は大阪が発祥の地であることも知られてはいません。思想の違いはあったとしても、それらを記録ではなく記憶しておくためにも、未来の今回の静かな取り組みは有意義であったと思います。

『西瓜と風鈴』は、戦時中慰問袋に風鈴と写真を入れて送ってくれた女学生に恋心を抱き、復員後に西瓜をぶらさげて、その女学生の家を訪れる元兵士の物語です。復員して訪れると、女学生は終戦の前日の空襲で亡くなったことを知り、愕然としますが、その後も六十一年にわたり毎年西瓜をぶら下げて、お盆になると福山からやってきます。八十路の半ばに達した彼は、置き手紙を置いて「今年が最後」という暗示を残して帰っていきます。彼が残した手紙を家族たちが読んで、ある真実が分かります。女性らしく……と言っては叱られるかもしれませんが表現が、やわらかな絹の手触りのように細やかなのです。備前焼の風鈴の話、仏間に下げられた数個の風鈴が優しく女学生の人となりを表すように、優しく鳴ります。上手いですね、作者も演出も。

ただ、二点。絹の手触りにかすかにひっかかるものがあります。ただ一人浴衣の若い女性が出てきます。「これはだれやろ?」と思ってよく見ると、遺影の女学生の写真と同一人物のよう……帰宅後パンフを見ると、死んだ女学生として書かれていました。幽霊だったのでしょうか? どうも一度見ただけでは判然としません。しかし淡い水彩画のような芝居は見事でした。こういうドラマを今の高校生にも見せてやりたいなあと思いました。ただ、今の若い人たちに見せるのにはもう一工夫というか、もう一風吹かせる必要があると思いました。しかし、もしこれを読んでいるあなたが若い、演劇を目指す人ならぜひ観て欲しい芝居ではあります。 もう一点、元兵士のおじいさんに生の加害責任、現在意識を持たせたことが、そこにだけ生の絵の具を落としてしまった水彩画のような違和感になってしまいました。

未来のスタジオは、爆撃に遭った京橋の近くの野江のあたりにあります。かすかに聞こえる電車の音が、ふとこの芝居の中にいるような錯覚を覚えさせました。そこまで演出効果を考えておやりになったとしたら、未来という劇団、さすがに大阪の老舗劇団であると思いました。

最後に一言、一度スタジオを出て、今少し広い劇場でおやりになってはいかがでしょう? それだけの力のある劇団ではあると思います。ただ、あの洞窟のような劇場というのは、四十年も芝居をやってきた人間としては魅力的な空間ではあります。

                                                                      劇作家  大橋むつお

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劇団きづがわ『トイレはこちら』『この道はいつか来た道』

2011-06-12 16:41:39 | 評論

第三十五回大阪春の演劇まつりの第二弾であります。別役実の、共に男一人、女一人。道具も、照明もそう凝ったことをしなくてもできる芝居。しかしその分、演出と役者には高い表現力が求められます。

『トイレはこちら』は、首つり自殺をしようとする女と、トイレの場所を道行く人に教えることで百円もらう仕事を始めようとする男との、かみ合わない会話と、なぜか部分で見ると、変に理屈が通っている不条理劇です。同じ別役の芝居で男女二人の『受付』という芝居があります。人によっては『受付』を高く評価し、この二本の芝居を低く評価するものもありますが、この劇団きづがわさんの芝居を観て、そうでもないな……いや、『受付』のように変な批評性が無く、人間への温かい視線に的を絞って、上演されたことによって、わたしの中での別役作品のランク付けが変わってしまいました。人生に生きる目的を失った女が、トイレの場所を教えることで稼ぎにしようとする男に「そんなことで、稼げるわけがない」と、論争することに生き甲斐を見いだし、そのうち男は自分自身がトイレに行きたくなり、実は、その近辺にトイレがないことが発覚。笑わせてくれる。しかし、その掛け合いの中で人間への愛おしさを感じてしまうのは、新発見でした。別役=不条理=よう分からん。という図式だったのが後述の『この道……』とあわせて、分かりやすい芝居に見せてもらえたのは、演出と、達者な役者さんの演技であったと思います。

別役さんの芝居は不条理でありますが、演技そのものには、とてもリアルな演技をする力が求められます。わたしは、演出するときのクセで、役者が台詞を喋ると、喋っていない役者に目がいきます。きちんと聞いて、反応できていないと、どんなに自分の台詞を上手に喋っても、芝居そのものは痩せたリキミだけの芝居になりますが、役者、特に「女」を演った、橋野さんはきちんと舞台で生活できていて、生きた演技になっており観客のみなさんの反応もよかったように思いました。

『この道はいつか来た道』は、ホスピタルを抜け出した男女が、電柱とポリバケツのある、ある場所で出会い(度々会っていることは、芝居の後半で分かります)会話が始まり、男が「結婚しませんか」というあたりから、いっそう話が面白くなり、飛躍と思わせる展開も、ホスピタルの話が出てくるあたりから、なるほどと納得させられます。 役者さんはお二人とも、お達者で、安心して見ていられました。ポリバケツをあたかも人格のあるもののように扱ったり、互いに半端な道具を出し合い、お茶にするところなど、笑いながらもほのぼのとさせられます。ただ中盤以降、なぜか芝居が、緩みというか、ややリアリティーを失います。失うといってもけして破綻はしません。役者さん二人は自然な呼吸の中で芝居を続けられました。下手な役者だと力みかえったり、どうかするとアドリブに走ってしまうのですが、そういうことはいっさいありません。ラストの雪が舞い散る中、二人の死を暗示させる、ほのぼのした幕の下ろし方は大したものであります。

ただ、前回の息吹さんと同様に、観客の人たちの年齢の高さには、少し驚きました。これは劇団自身長続きしてきたことの証明でもあると思うのですが、若い人たちにも観てもらいたいな、と思いました。前回の息吹さんも含め、今の高校演劇が失ってしまったもの、ドラマの原点がありました。大阪府高等学校演劇連盟の先生や生徒諸君にも観てもらいたい作品でありました。

最後に、小屋の狭さはいかんともしがたいものがあります。膝つきあわせての観劇もいいし、赤テント、黒テントになじんだ世代でもあるので「ま、いいか」とも思うのですが、もう一回り大きな額縁で観られたらなと感じました。ま、これは、そういう施設を無くしてきた行政の問題であり、各劇団は、その中で懸命にやっていらっしゃることは、よくわかっております。

どうです。若い人たちもこういうお芝居を観にいきませんか。きっと得るものがあると思います。

                                                     劇作家  大橋むつお

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劇団息吹・『長江・乗合船』

2011-06-04 00:45:24 | 評論

第35回大阪春の演劇祭りの皮切りの上演です。作者は沈虹光さんで、中国の方です。もちろん日本語に訳されて(訳 菱沼彬晃)います。演出はベテランの坂手日登美さんです。Aチーム、Bチームに分かれ、計5回の公演です。わたしは3日のマチネーでしたのでBチームのお芝居でした。小屋はドーンセンターの一階のパフォーマンススペースで、いささか狭く、どんな道具立てにされるのか、楽しみにしていました。間口5間 、奥行き2間ちょっとを、狭さを感じさせない道具立てでした。下手から、団地の階段、ドアを挟んでリビング、左奥が方先生の部屋へ通じるドア、バルコニーに出るサッシと続き、トイレのドア、キッチンへ通じる廊下の設定。上手はドア付きの切り出しを挟んで、劉強(リュウ チャン)米玲(ミーリン)の部屋。実にコンパクトに過不足のない道具立てでした。

【楽しくて、難しいリアリズム】さて、中味です。長江沿いの2LDKの団地にルームシェアリング(共同生活)をしている元小学校の先生だった方(ファン)女史、何事にも一言多い、62歳のおばさん。そして劉強、米玲の30代の夫婦。いつもイザコザが絶えず、夫婦は、面白半分で、「伴侶を求む」と、雑誌に方先生の名前で広告を出します。方先生が結婚すれば、自分たち夫婦だけで、この2LDKが全部使えるとの企みであります。ところがこの広告を見て、定年間近の、長江を上り下りする船の高船長が花束を抱えてやってくる、何も知らない方先生との出会いは、チェーホフの「熊」や「結婚の申し込み」を思わせる、軽妙で、ユーモアに溢れたやりとりです。最初は手厳しく高船長を追い出した方先生だが、ドラマの進展の中で、しだいに高船長に惹かれていく。劉強と米玲夫婦も、ケンカしたり、ヨリをもどしたり。そこに二人の仕事仲間である雷子(レイツ)や、方先生と高船長のことに興味を持って取材に来るテレビ局のスタッフなど、人と事件な絡め方が実に上手く、その絡みにより、それぞれの登場人物の性格、人間性が説明ではなく、ドラマとして描かれており、同業の劇作家として、とても良い刺激をうけました。役者さんたちも演出の意図をよく汲み取り、こういう芝居にありがちな、無理で不自然な、今風のデフォルメや軽薄なギャグなどなく。自然な演技で、作者が持っている、人間への温かい思いが伝わってきました。素直でヒューマンなリアリズムが、そこにはありました。できたら低迷している大阪府高校演劇連盟の先生や、生徒諸君にも観ていただきたい作品でありました。

しかしリアリズムというのは難しいものですね。みなさん好演でしたが、ところどころで惜しいところがありました。なぜ怒るのだろう、笑うのだろう、泣くのだろう……感情や、行動の変化になる演技が、デッサンしきれていません。例えば、業を煮やした高船長、止めてくれるのを待ってしまっていました。ドアの前で、ほとんど足踏みになってしまいました。船乗りらしく決然とドアを開けて階段まで行ってもよかったと思いました。その方が止める方はもっと強い力で止められ、芝居にアクセントがついたと思いました。米玲と、劉強がケンカして和解するところなど、役としてではなく、個人の恥じらい、ためらいが出てしまい、互いに抱き合うところなど、演技として弱く、せっかく芝居の中に入り込もうとしていた観客が冷めてしまいました。

他にも何カ所か、デッサン仕切れていない演技がありましたが忘れてしまいました。健忘症というわけではないのです。大きなところで、演出も演技もしっかりしていて、きちんと最後のカタルシスへ観客をひっぱっていってくれたからです。

金曜の昼としては、上々の入りでした。劇団が長い演劇活動で、確実に固定した観客をつかんでいる証拠です。ただ、わたし(58歳)より若い観客があまり見あたりませんでした。演劇を目指す若い人たちは、こういう芝居を観ておくべきだと思いました。この芝居は良い意味で定石通りなのです。本も演出も手堅く、ところどころ「あれ?」というところがありましたが、基本のデッサンは骨太でした。こういうリアルなデッサン力は貴重です。これからもこういうリアルで、「人間て、いいなあ」と感じさせてくれる芝居を見せてください。

最後に一つだけ……長江の大きさを感じさせて欲しかったです。この本の人間を見る目に繋がります。なんと言っても広いところでは向こう岸が見えません。明治時代に日本にやってきた中国の人が瀬戸内海を見て「日本にも大きな川があるじゃありませんか!」と言ったぐらい、長江は大きいです。その大きさと、ゆったりした流れは、大人(たいじん)の風格と優しさを感じさせます。演技か演出で、感じさせて欲しいと願うのは、大河と言えば淀川程度の想像しかできない、せせこましい大阪人だからかもしれませんが。

                                  劇作家   大橋むつお

                                          

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