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大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

大阪放送劇団ーハックルベリーにさよならを

2011-05-15 23:17:33 | 評論

ボク(ケンジ)は二十歳になった今も十歳の時の自分が心の中にわだかまっていた。 十歳のときに両親は離婚、作家である父には新しい彼女(カオルさん)ができる。 カヌーに興味のあるボクは、カヌーのパドルを持って父を訪れ、カオルさんに出会う。 そんな大人の状況を受け入れることができず、心の中では、カオルさんに好意的な気持ちを持ちながら、 素直に状況を受け入れることができず、 一人神田川にカヌーを浮かべ、海にまで漕ぎ出てしまうボク。 心配する大人達。 ボクの心を知って身を引くカオルさん。 そのボクに二十歳のボクが寄り添い、過去を取り戻そうとする。 多感なな少年時代のボクの心を中心に物語は、ホンワカとやさしく、 少し切なく流れていく。 カヌーとともに……

キャラメルボックスの成井豊さんの、 温かく人間を描いた秀作でありました。 二百ちょっとぐらいのキャパのA&Hホールは満席の盛況ぶりでした。客席と同じ高さの平土間に、淡いエンジ色の地がすり。 白くうねった簀の子状の切り出しが、上下と中央に。 中央の切り出しは二枚の切り出しが重なっており、芝居の場に合わせて、 開かれたり、 閉じられたり。 開かれた時も上下が逆になって、 川のうねりを上手く表していました。 そして芝居の優しい流れにきちんとマッチしていて、 簡素ではありましたが、実に効果的に作られ、 使われていました。 過去わたしが観た芝居の中でも秀逸な装置であったと思いました。 昨年の『法王庁の避妊法』は、 リアルな田舎の医院を見事に見せていただき、 今回の詩的な道具は、 いい意味で意表をつかれました。

開場したときから、 中央の机の上の砂時計がトップサスに照らされ、 何事かを暗示しているように思いましたが、 二十歳のボクが砂時計を逆さにすることで、 時間を十歳のボクの時代に戻すことが分かり、 観客は自然に十年の時を登場人物と共にさかのぼることができました。 原作にない表現だとしたら演出と美術は、 いいセンスを持っていらっしゃると感じました。

さて、 芝居は二十歳のボクのモノローグからはじまりました。 舞台の折々に二十歳のボクは姿を現し語ります。 ここ難しいですね、 状況を説明するだけに終わって、 観客の関心をそいでしまいます。 最初のモノローグで「いけるかなあ」と、 正直思いましたが、 なんとか持ちこたえていました。 わたしの悪い癖で、台詞をしゃべっていない役者さんを見てしまいます。 リアクションが弱かったり、カタチだけで終わってしまっていたりしたところがありました。 例えば、 十歳のボクが家庭教師のコーキチくんから、カヌーのパドルをもらったときの喜び などは少し苦しかったように感じました。 しかし、 この芝居は、 どこか優しく爽やかなのです。 それは若い役者さんたちの芝居に取り組む姿勢の良さだと感じました。 無理な表現はせず、 自分たちの力の中で溌剌と演じていらっしゃるのが、 この作品が持っている人間への優しい視線とあいまって舞台の空気を柔らかくも、 力強く見せてくれました。 ラストのキャスト八人の歌とダンスも、 自然な盛り上がりの中で良かったと思いました。 観客のみなさんの拍手はカーテンコールを温かく求めていました。

ただ一つ不満に思うのは、 小屋が大阪の中心からやや遠いのと、 初めてきた観客は場所が分かりづらいことです。 まあ、 わたしの方向音痴のせいもありますが。

一度、 もう少し大きなホールで、 若手とベテランの役者さんで芝居を見せてもらいたいと思いました。 大阪放送劇団は、 今は貴重になった自然で豊かな芝居のできる劇団です。 次回作も期待しています。

                                                                                     大橋むつお

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少人数演劇部のあり方、いたし方

2011-05-06 23:42:53 | 評論
少人数演劇部のあり方、いたし方

 最近の部活は、少子化の影響もあって(一校当たりの生徒数が昔と一桁違う)ごく少数の高校を除いて、部員数が少ない。大ざっぱに言って、正規部員が五人に満たないクラブが増えている。中には、社会問題研究部、新聞部、箏曲部、生物部など多くの学校で絶滅してしまったクラブもある。
かつて文化部の花形であった演劇部もご多分に漏れず、絶滅危惧種化しつつある。わが大阪は、ざっと二百七十あまりの高校があるが、演劇部が存在するのは推定で、四割の危険水域に入っている。この数字は連盟加盟校数百五校から推測した数であるが、まず間違いないであろう。
せっかく演劇部がありながら連盟に加盟しない学校は考えられない。コンクールに出るためには、連盟に加盟しなければならないからである。

 さて、どこの都道府県の連盟も、一部の大人数の有力校を中心にまわっていると言っても過言ではないであろう。例えば、夏休みによく行われる連盟主催の講習会のメニューは多彩である。いや多彩すぎる。演技、演出、劇作、照明、音響、メイク、基礎練習などなど、分科会というかワークショップが多く、全部の分科会に人を出したら、部員の数が足りない状況である。先ほども書いたが、たいていのクラブは五人以下なのである。講習会のメニューは、生徒の数が一桁違ったころの内容と変わらない……どころか増える傾向にある。意地悪く言うと一部大人数の有力校のための講習会になり果てしまっている。

 今の演劇部は絞り込まなければならない、わたしは常々基本にたち帰ろうと言っている。演劇の基本は「観客、戯曲、役者」である。その他のことは「できたら、有った方が良い」程度のものである。極論ではなく、道具なんかいらない、照明は地明かりのつけっぱなしでいい。高校演劇は時間の制約がある。たいてい五十分程度である。そんな短い上演時間で、暗転は禁物。キッカケが二十も三十もある照明プランなどもってのほかである。コンクールでこれでもかというほど飾り込んでいる道具、宝塚見まごうような照明の設定をしてきて、現場のスタッフや実行委員の先生や、生徒諸君を悩ませている学校がある。これで芝居が良ければいいのだが、最初の二三分の演技で破綻してしまう学校が多い。基本である、戯曲と役者がお粗末であることが多い。ユニホームやルックスだけがいい野球チームを見ているようなものである。困ったことに、これに迎合するような審査員や、連盟の先生方が多い。

 では、本論。まず本。登場人物の少ないしかもすぐれた戯曲を探しておこう。清水邦夫、別役実、イヨネスコ、つかこうへい等の芝居に少人数劇が多い。白水社に高校生向けの戯曲を紹介した本がある(書名を忘れてしまった) 青雲書房には、その名も「1人から5人でできる、新鮮いちご脚本集」がある。また、ルナールの「にんじん」などは、著作権が切れていて上演許可のいらない戯曲である(登場人物は男一人、女は子役も含めて三人)古いところではチェーホフの短編に少人数劇がかなりある。創作劇もけっこうであるが、やはりきちんとした芝居は読んでおいたほうがいい。そうそう、井上ひさしの「父と暮らせば」など男一女一である。探せばいくらでもある。ちなみに、わたしの本はたいてい五人以下で、一人芝居もいくつかある。興味のある人は検索してください。

 わたしは、あまり基礎練習はやらせない。なぜか、たいていつまらないからである。名優という人たちの中にも研究生のころさぼり倒していた人が何人もいる。ただ、基本的な集中力や演技力は必要である。発声は「あめんぼ」と気に入った詩の一つも覚え繰り返しやっていればいい。
 具体的な芝居の稽古の中で問題が出てきたら、その問題にあった訓練はする。わたしは基本は自分を十分に表現できるプレゼンテーションの力が基本だと思っている。稽古中によく無駄話をさせる……といっても、「さあ、やるぞ!」では、構えてしまう。うまくのせて楽しく話させる。「そこで、どうしたんや?」「どんなぐあいやった?」「どんな感じ、ちょっとやってくれへん?」てな感じでのせてしまう。集団としては(今、女子四人というクラブの指導をやっている。姿勢が悪く表情にも乏しいのでAKB48の「会いたかった」をやらせている)なにか楽しい駆け引きのある遊びをやらせてみるといい「だるまさんが転んだ」や「椅子とりゲーム」そして無対象の縄跳び、連休などを挟んだら、インタビューごっこをやらせている。集中力、表現力がつく。

長くなってしまった。詳しく知りたい人は「高校演劇基礎練習」で検索すれば、いろんな人がブログを開いているので、自分たちの間尺に合ったものを捜せばいいだろう。また、わたしの「女子高生HB」をご覧いただいてもいい。

また、別のブログでもお話できればと思います。   大橋むつお
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高校演劇ー基礎練習(2)

2011-05-01 08:10:55 | 評論
前回は、主に声を出すことについてのべました。
今回は、演ずるとは何か!? ちょっと真正面からの、でも大事な基本です。

演技とは「人をだますことです!」 つい昨日には、友だちと「今年の担任はハズレやった」とか「思いっきり、はじけようぜ!」と、声を限りに、カラオケやったり、「おひさ~ 元気してる~?」なんてメールを打っていたり、普通の生活をしています。つい数時間前には、お母さんに「朝ご飯ぐらい食べていきなさい!」と叱られたり、溜まったメールにメンドイと思いながら返事を打っていたり、テレビのCMに出ているAKB48のメンバーに「かっこいい」と思っていたり、犬をお散歩びつれていったり、ごく日常のことをしていて、小屋(劇場)に入って、衣装を着け、メイクをしたら、いろんなキャラに変身して、泣いたり、笑ったり、演じます。
これって、あけすけに言えばウソですよね? さっきまで仲の良かった部員同士が、憎しみ会う恋敵になったり、学校大好きネエチャンが引きこもりの子になったり、中には赤ずきんになる人もいます。
これってウソなんですが、舞台に立っている間は真実なんです。真実だから、お客さんは感動してくれます。真実でなかったら、観客はすぐにしらけて引いてしまいます。

では真実としてのウソ(演技)の話をしましょう。
だれか一人、ウメボシか、レモンについて説明してください。「丸くって、こんくらいで、赤っくって、フニャとしてて、すっぱくって……」という具合です。まわりのみんなは質問します「赤て、どんな赤?」「うんとね~ たそがれた赤」「なにそれ?」「う~ん……ドドメロ!」「アハハ」「真っ赤っかもあるよ、ご飯が赤うなるねん。コンビニの弁当なんかそうやねえ」などとやりとりしていると、口の中に唾が湧いてきて、酸っぱくなってきませんか? これが演技の始まりなんです。
目の前にウメボシがあるわけではありません。もちろん口の中にもありません。でもしっかりウメボシは出現したんです。もし、これを側で見ている人(入部希望の見学者とか)もウメボシを感じてくれたら、立派に『ウメボシ』という寸劇のできあがりです。

もう、分かりますよね、演ずる側がウソを真実と感じていれば伝わるものなんです。
次にレッスン。両手の親指と人差し指をくっつけて目の前に持ってきてみてください。またはそう指示します。そして、「左手に針、右手に糸を持っていると思いましょう」 すると、あ~ら不思議、そんな気がしてきたでしょう? 目は存在しない針穴と糸を見て、針穴に糸を通すときなんか息を止めているんじゃないですか? やっているほうも、観ている方も、そんな気がしてきます。通すと、針がきになりますね。ちゃんと針山に刺しておきましょう。これで「糸通し」という芝居ができました。
次に「縄跳び」 校庭がいいですね、二人が見えない(無対象といいます)大縄跳びの縄をもって回します。残りのみんなは、その回っている縄の中に入っていきます。これ、不思議なことに、初心者でもたいていできます。存在しない縄を見つめ、それを目で追って、入っていくタイミングをはかってしまいます。無対象なのに、縄がひっかっかったりすると「あーあ」とか「あ、ごめん!」とか自然に出てくるから、不思議っちゃないです。これで「縄跳び」という芝居ができました。

さあ、ここからです。無対象で玉子を割ってみてください……どうです……「あれぇ?」今までのようには、簡単にできないでしょう。コツが入ります。玉子を感じられなかったら、本物で一度やってみて試してみてください。玉子はつまむのではなく、手全体でつかんでいることに気がつきませんか。そして、コンコンと割ったあと、九十度回転させて、割れ目を自分の方に向けていることに気づけば「あ!」と、感覚的な発見があります。そして、勘のいい人は、玉子を持ったときのヒンヤリしたザラザラ感や、割ったあとに手にまといつく白身のネトネトまで感じるとおもいます。

今回は演ずることはウソをつくことだと言いました。まず自分自身をだませるようになってください。次回は、この無対象の発展系のメソ-ドのお話をしたいと、思います。
もっと早く、先のほうを早く知りたい人は『女子高生HB』で検索してください。へんなサイトじゃないですよ、正式なタイトルは『ホンワカ女子高生HBが本格的に演劇部にとりくむまで』という、長ったらしいタイトルの小説形式の、高校演劇入門書です。では、また……

大橋むつお
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