マルクス・ガブリエル『新実存主義』(広瀬 覚:訳 岩波新書)を読了した。
この著者のものは、前に『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩:訳 講談社選書メチエ)を読んでいる。率直にいって、彼のその「新実在論」と称するものが、哲学史上で、ないしはポスト「ポストモダン」といわれる現在において、どう位置づけられるべきものなのかに戸惑いを覚えながら読んだ。
今回の挑戦は、そうした戸惑いをどこまで払拭できるかへの試みでもあった。
ところでこの書名は「新しい」実存主義を意味している。古い方の実存主義はというと、第二次大戦後の一大思潮として、私の少し上から私たちの年代まで、サルトルなどのその哲学上の展開に触れてはいなくとも、その文学作品(サルトル、カミュ、ボーボワールをはじめ、多くの作家をその系列に数えることができるかもしれない。いってみれば、文学的な生の一回性のようなものに馴染みやすい思潮だったから)や映画などで、意識するとしないに関わらずそれらに触れてきた。
こと人間に関しては、まずその本質があって、それに従い私たちがたち現れるのではなく、私たちがどうあるか(どう実存しているか)によって私たちの本質が決められてゆくという「実存が本質に先立つ」というこの主張は、私たちが何にどう関わるか(投企)が私たちを決定するとし、その投企の対象はこれと限定されてはいないという意味で、「自由への恐怖」などともいわれた。その意味で、この思想はある種の決断主義ともいいうる。
この実存主義は、私たちがいまここにあるということ自体が、単に投げ出されてある(被投)ということではなく、すでにして何ごとかの規定を受けているものであり、したがってその決断の内容も、仕方も、それらとは無縁のところで行われるわけでもなく、「自由の恐怖」というのも観念的な幻想に過ぎないとして次第に後退してゆく。
しかし、芸術の分野では、その一回性、既存の制約を打ち破る偶然性の発露として、実存的な衝動は生き延びているのではなかろうか。
それはともかく、それではそうした古い実存主義に対してガブリエルのそれはどう新しいのであろうか。
先に第二次大戦後の実存主義ブームの中心にいたサルトルについて触れたが、一般的にそれに先行し実存哲学の系譜に属する思想家には、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーなどの名が挙げられる。しかし、新実存主義においては、カント、ヘーゲル、マルクス、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトルの名が挙げられている。これは妙なことなのだ。カントの「普遍的理性」、ヘーゲルの「絶対精神」、マルクスの「自覚したプロレタリアート」などは、強固な本質規定として、「実存が先行すべき」実存主義とは対峙してきたものにほかならない。
しかし実は、ここに新実在論に基づくガブリエルの「新しい」実存主義を解く鍵があるともいえる。
ガブリエルは、自分がサルトルから継承したものを次のようにまとめている。
1)人間は本質なき存在であるという主張
2)人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決定するものであるという思想
この2)のまとめ、「自己理解に照らしてみずからのあり方を変える」という僅かな拡大解釈の中に、カントやヘーゲル、そしてマルクスが登場する余地があるのである。彼らは、大きな意味では、対象を受動的に解釈する、あるいは対象からの一方的な侵食に身を任せることなく、まさに「自己理解に照らしてみずからのあり方を変える」試みをなしたと評価するわけである。
もう一つ指摘すべきは、彼はここで、人間の「心」に関する問題を、自然科学的な理解へと還元する自然主義と闘っているということである。この自然主義とは、ようするに人間の心や意識のありようを、脳内のニューロンの働きとして説明しうる…今はできなくとの将来はできる…とするもので、人間を自然の延長(のみ)として考えようとするものである。
この悪しき自然主義の極論は、他者も自身も、所詮は物質の運動にすぎないというニヒリズムへと誘う。
だから彼のこの第一章「新実存主義」には「自然主義の失敗の後で人間の心をどう考えるか」というサブタイトルが付けられている。
思えば、ガブリエルの「新実在論」は、この現実、事実自体などは存在せず、言語を中心とした私たちの営為によって構築されたものに過ぎないというポストモダンに帰結するような「構築主義」に対抗するために構想される一方、自然主義による人間そのものとあらゆる意味の場である世界(地理的な意味ではない。むしろハイデガーの世界内存在に近い意味での世界)の抹殺に対抗するものであった。
その意味では、彼の「新実存主義」は、その「新実在論」の人間における展開を示すものといえる。
いずれにしても、マルクス・ガブリエルの展開にはまだまだ良くわからないところがあり、上の整理も的を射ているかどうかわからない。ましてや、この哲学のもつ意味合いのようなもの、実践的な指針としてのそれなどの検証はこれからだろうと思う。
ただし、一部の社会学などでは、すでにそれを方法に取り入れているようにも見受けられる。