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ヨーロッパ白人男性中心のヘテロセクシャリズム? ミシェル・ウェベリックの『セロトニン』を読む

2020-07-28 14:36:52 | 書評

 ミシェル・ウェルべックの小説は、しばしば私を不快にさせる。しかし、途中で投げ出したことはない。
 その不快さのひとつは性描写にある。彼によれば、それはほとんどペ*スとヴァ*ナの接合に還元されてしまうかのようだ。それでいて、それへの執着はかなりのものがある。
 
 もうひとつは、時折現れるミソジニー的な表現だ。この小説の前半に現れる日本人女性・ユズ(彼女の性生活も奔放で、集団での行為から獣姦にまで及ぶ)との関連もそうだ。
 彼女に面と向かって「メスブタ」と罵る場面もあるのだが、「おいおい、そんな彼女を結婚ではないにしろ、当面の伴侶に選んだのはお前だろう」と毒づきたくもなる。

            
 
 彼女が日本人だから私の中にある同胞意識が反応するわけではない。私にはそんな愛国主義や民族主義はない。
 この作品にも部分的に出てくるし、それを主題とした作品(『プラットフォーム』2001年)にもあるようにタイを舞台としたセックスツアー(それは西洋人男性の男性性を取り戻す試みとされる)などから考えて、ヨーロッパ白人男性中心のヘテロセクシャリズムの匂いが否定できないのだ。

 にもかかわらず、なんやかんやいいながら彼の小説をつい読んでしまっていて、『素粒子』を皮切りにこれで6冊目になろうか。
 それらのうち、『地図と領土』、『服従』については、やはりブログに書いているので、下記にその所在を示しておこう。

 なぜ読んでしまうのか、恐らくそれは、そのアクチュアルなリアリズムのせいであろうか。わざわざ「アクチュアルな」と形容したのは、彼の小説は決して一般のリアリズムの域に収まるものではなく、むしろ逆に、SF的な奇想天外な展開が多い。 
 『素粒子』や『地図と領土』はその結語部分は未来社会だし、『服従』はフランスにイスラム政権が発足するというシチュエーションによるものだ。

        

 したがって一般的な意味では空想に属するのだが、それでいてまさに現実を鋭く抉り取ったような、少なくも静謐な現実観察では得られないリアルさがある。それは恐らく、私たちのこの現実の可能世界を垣間見させる試みかもしれないのだ。「アクチュアルな」リアリズムと形容する由縁である。

 ただし、表題の『セロトニン』にはそうした飛躍はほとんどない(中盤の農民闘争を除いては)。
 セロトニンとは何か、私の初めて出会う言葉である。それは幸福ホルモンと呼ばれる神経伝達物質で、抗うつ剤の「キャプトリクス」がその分泌を促進するという。そして、これは主人公の常用する錠剤でもある。

「それは白く、楕円形で、指先で割ることのできる小粒の錠剤だ」

 これがこの小説の書き出しだ。そして全く同じ一文が、この小説の最終節の冒頭にも出てくる。
 主人公、フロラン=クロード・ラプルストはうつ病のためこの薬を常用し、そのために性的に不能に陥っている。そのジメジメした閉塞感が全編を覆う。

 彼は、少し触れたように、日本人の女性・ユズと同棲しているが、ある日、蒸発し、世間との接触をほとんど断つ引きこもりの生活に入る。彼が為すのは、タバコの吸えるホテルを見つけてそこをねぐらにし、過去を回想し、映画『舞踏会の手帳』よろしく、過去に関係のあった女性、ただし一人だけは唯一、親しかった男性を訪ね歩くことであった。

        

 それらの詳細は書くまい。
 印象に残るのは上に述べた男友達(彼は古い館を継承している領主の末裔にして自身酪農の経営者である)を訪問している間に起こった、農民たちと政府との壮絶な闘いの場面である。
 これは明らかに、グローバリゼーション、さらには欧州統合による矛盾の集積、ないしはその一つの帰結であり、「闘い」は悲惨な「戦い」へと展開される。

 もうひとつ息を呑むシーンは、主人公がかつて唯一愛し合え、幸せだったと自認する相手カミーユ(その幸せを壊したのも彼自身なのだが)の現在の居場所を探り当て、彼女に知られることなく、ストーカーとしてその公の生活から私生活までを監視下に置き、ある日ついに、狙撃用の銃の標的として意外な相手を捉えるシーンである。照準はピタリと合わされ、引き金に指がかかる。

        

 ウェルベックの小説が、いかに荒唐無稽な状況を描いていても、そこにはアクチュアルなリアリズムがあるといった。
 この小説においてのそれは、経済と性生活においての(新)自由主義の中で生じる格差を描いているといってもよい。その格差の底辺に対し、様々な「幸福産業」が「救いの手」を差し伸べる。しかしそれらは、常に様々な副作用を伴い、敗者は決して復活することはない。
 彼が服用するキャプトリクスが、その副作用として不能を伴うように。

        
 この小説にしばしば登場するパリ、サン=ラザール駅 一昨年夏、この近くで3日間を過ごした。写真はその折、撮ったもの

 結局彼は、窓から飛び降りて一挙に片を付けるか、それとも「幸福産業」の手を借りて緩慢な死を待つかを迫られる。
 いわゆる勝ち組に与し得ないものにとっては、この選択肢しかないのかという問いは、答えられないままにそこに置かれている。
 この小説においても、そしてこの現実においても・・・・。

 やはり、ウェルベックの小説からは目が放せない。

 *https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20170904

 *https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20170916

 

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