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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

青春をかすめた名古屋テレビ塔私話 完結編

2018-12-29 18:00:41 | 想い出を掘り起こす
 2018年、最後に名古屋を訪れた際、来年1月から2年弱の休業をするという名古屋テレビ塔へ登った話は前回にした。まだその塔が建設中の頃、私が中学生だった頃からの思い出も含めて。その続きを書こう。

 登ったのは午後4時といういくぶん中途半端な時間だった。
 私の算段は、まだ明るいうちにそこからの展望を楽しみ、この時期ならもう5時になれば暗くなるから、夜景を楽しんでから降りてくるというものだった。暗くなるまでの間、いくぶん間が持てないかもしれないという思いも多少あったが、展望台の隅にあった喫茶コーナーででも時間を潰せばと思っていた。

            
 ところがである、そんなコーナーなどはなかった。何十年か前に登った時にはあったのか、それともはじめからそんなものはなかったのかはさっぱりわからない。
 ただし、今回登って気づいたのだが、私が思い描いていたよりは展望台は狭かった。これでは喫茶コーナーなどはなっからなかったのかもしれない。

 四方の景観を一通り見て、10メートル上の野外展望台に登る。ここは、金網によって外界と隔てられているのみだから、この時期は寒い。とくに、西や北の面では、寒風が容赦なく吹き付ける。
 早々と退散して、もとの展望台に戻る。さいわいにして休憩用のソファが空いていたので、そこへ身を落ち着ける。

 この塔と私をつないだ時期をしばし回想する。
 こんな上に登って思い出すのも何だが、私の一番濃い思い出は、この塔の下にあった。1958年から60年に至る学生時代の拭い去ることができない思い出は、しばしばこの塔の下と結びついていた。

 50年代末からいわゆる60年安保の頃の学生運動は、正統左翼を名乗る政党の一元支配から脱したあとで、背後には党派性のようなものがあったものの、まだ、民主的ルールが保たれた大衆運動であった。
 ストライキやデモも、各単位自治会の学生大会で否決されればそれに従った。これら単位自治会の連合として愛知県学生自治会連合(県学連)があり、それの全国的な組織が全国学生自治会連合(全学連)であった。
 ただし、私が学生でなくなる頃には、学生運動は党派の乱立によって四分五裂の状態となり、複数の全学連がお互いに自己の正当性を訴えながら併存する事態となった。

            
 県学連の呼びかけにより、各自治会でデモなどが承認決議されると、各自治会の参加者たちは名古屋市の中心部に集まり、そこからデモ行進を始めるのだった。もちろん、ヘルメットやゲバ棒などその存在も知られていない頃で、まさに「腰に手拭いぶらさげて~」の普段着のままの参加であった。

 その折に、もっともよく使われた場所がこのテレビ塔下だった。そこには野外ライブなどにも使われるステージ状のものがあり、演壇として使うには好都合だった。
 
 その頃、関わり合った問題としては警察官職務執行法改正に対する反対、教員に対する勤務評定の実施に対する反対などがある。
 ともに、敗戦とともに押しやられたはずの戦前体制への復帰が懸念される案件であった。当時の言葉で言えば、戦前復帰を思わせる「逆コース」政策だった。前者は、「オイコラ警察」といわれた旧体制下の警察への恐怖を思わせるものだったし、後者は、教育内容の統制のために教員をまずもって縛り付ける危険性を孕んでいた。

 

 それらにも増して、59年から60年にかけての日米安全保障条約改定、それに伴う日米地位協定に対する運動は盛り上がりを見せた。私たちは、戦争を知る世代であり、いざ戦争という事態になったら真っ先に戦場へ駆り出される年齢であった。
 これらは今日まで続く軍事同盟であり、また地位協定は米軍基地並びにそこに所属する軍人軍属の犯罪行為をも日本側は捜査したり裁いたりできないという条項を含む不平等なもので、それらは今日まで継続され、とりわけ、沖縄の現状を固定化するものとして作用し続けている。

 この、60年安保当時、どういうわけか田舎のぽっと出の私は、県学連の役職につき、所定のデモなどの当日、各自治会の参加者が集まるテレビ塔下の広場で、それを待ち受ける立場になっていた。

 今日はどのくらいの人たちがと緊張して待ち受けているのだが、安保闘争のデモの参加者は尻上がりに増えていった。その後半には、名古屋のみで実数3,000人を越える日が続いた。
 まだ県学連に加入していない女子大学へ勧誘(オルグといった)に行ったことがあった。自治会室がないということで茶室に通され、自治会顧問の中年の女性の先生が立ち会う中、私は、この安保と地位協定の危険性を、そしてそれを阻止する必要性を懸命に訴えた。
 茶室のこと、全員正座で、男性は私一人ということで大変な緊張だった。顧問の先生はメガネを光らせて私を凝視していたし・・・・。

        
 しかし、次のデモの際、手作りの小さな旗だったが、学校名を鮮明に書いたものを先頭に、数十名の女子学生が参加してくれたのは身震いするほど嬉しかった。できれば壇上から駆け下りて、一人ひとりを抱きしめたい気分だった(オイ、コラッ)。

 国会南門前で圧殺された樺美智子さんの追悼デモと集会をもったのもこのテレビ塔下だった。私が追悼演説をぶち、今もなお、お付き合いがあるYさん(当時はSさん)が自作の追悼の詩を朗読した。

 またまた、長くなってしまった。
 そうそう、せっかく登ったのだからその印象も書くべきだろう。
 予想はしていたが、西方にそびえる名古屋駅前の高層ビル群は圧巻であった。考えてみれば、あれらのビル群は、この展望台よりも高いのだった。
 東南の眼下いわゆるオアシス21、それにNHK名古屋放送局と隣の愛知県芸術美術センターの景観も見ものだった。
 思えば最初に登った頃は、ところどころにあるビルのほかは、瓦葺きの家が圧倒的に多かった。いまは、それを探すことは困難である。

 その存在感が著しく減退したのが名古屋城である。かつてはこの展望台の北方に、否が応でも目に入る位置でそびえていた。しかし、今は、林立する建造物の間を、懸命に探してやっと見つかるような有様だ。

            
 これら景観の変化は、即、歴史の変化であり、私たちの暮らし向きの変化である。それらに私はどう関わり合ってきたのか、あるいはこなかったのか、私にはよくわからない。
 程よく暗くなってきたので、光の泡立ちと化した四方の景観をもう一度見回して下へ降り、わが感傷のテレビ塔と別れを告げた。

 写真は宵闇迫る景観を中心に・・・・。

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6 コメント

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懐かしいです (さんこ)
2018-12-29 19:05:55
あの頃、父は展望台の下にあった事務室で、日本放送協会を55歳で定年退職した後、数年の嘱託時期を経て、テレビ塔の事務方として勤めていました。私が県学連の一員として、学生集会に参加する姿をハラハラして見下ろしていたことでしょう。長い髪を垂らした私を。病後の娘を。懐かしく思い出します。六文銭さんの颯爽とした姿も。
今の学生さんに、語ってもわかってもらえないぐらい純情に、国のあり方に、危惧を抱き、声をあげるのが使命だと信じていました。
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そうでしたか。 (六文銭)
2018-12-29 23:57:54
>さんこさん
 長い髪の往時のさんこさん、もちろん、この瞼に焼き付いていますよ。でも、その折、お父上が頭上にいらっしたことは知りませんでした。
 今はもっと高いところにいらっしゃるお父上、長い髪のあなたの行く末をご覧になって、「あれはあれでよかった」とお思いだと思います。
 今の若い人々、私の当時とくらべて遥かに多くの「情報」をもち、世慣れているように思いますが、話など聞いていると、「ちょっと、そんなところですんなりとまとまらないでよ」といういらだちを感じます。
 まとめようにもまとまらず、だから迷い続けた私自身の青春を思い出すからでしょうか。
 あ、いまも迷い続けています。
 「四十(✕2)にして惑わず」とはゆかないようです。
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久屋公園 (漂着者)
2018-12-30 00:10:49

高校時代にテレビ塔下や松坂屋裏手の久屋公園へ行きました。70年安保改定、沖縄返還などをめぐる大学生や労組の議論の輪に加わり、未熟な発言をしていました。学校から政治活動に対する処分も受けました。大学のころは内ゲバが増え、親しかった女性が血の海を泳ぎニュースになったこともあります。残念ながら六文さんの時代のような熱気とは無縁だったと思います。

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開発途上 (六文銭)
2018-12-30 00:58:25
>漂着者さん
 おっしゃるように70年代のデモなどの出発点は、久屋大通公園のエンゼル広場が多かったですね。60年ごろにはその一帯はまだ開発途上で、名古屋タイムズ社の会館をはじめ、立ち退き作業の段階でした。
 70年代、私はサラリーマンでしたが、そこでのデモなどに参加したことがあります。先年亡くなった牧野剛のアジ演説などもそこで聞きました。
 その後、殺し合いのゲバルト闘争になったことはご指摘のとおりです。
 ただし、それをもって60年代の運動のほうが良かったとは思っていません。むしろ、60年代の闘争があれ程の規模に至りながら、なぜ敗北したのかについての総括がちゃんとなされなかったこと、「反スタ」などと威勢良くいわれながら、スターリニズムとはなんであったのかがちゃんと掌握されていなかったところに遠因があると思っています。
 あの党派による殺し合いの応酬は、まさにスターリニズムのカリカチュア版でした。それらのゲバルトのニュースに接し、政治的なアパシーに陥ったこともあります。
 そんな折、連合赤軍事件に接し、どうにもならなくなって、その後のあてもなく、サラリーマンを辞めました。
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再認識 (漂着者)
2018-12-30 08:55:04

久屋公園の件、初めて知りました。反スタを唱えながら、プチスターリニズムの当事者になっていった過程はおっしゃる通りです。60年代の敗北感が70年代は無力感として反復され、その向かう先が内ゲバや連赤事件だったような気がします。六文さんがそうした経緯にずっと真摯に向き合ってこられたことを改めて認識しました。
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それほどでも (六文銭)
2018-12-30 11:14:57
>漂着者さん
 それほど、終始、真摯に向き合ってきたわけでもありません。
 出口のないところでウジウジとヒッキーのように過ごした時期もありますし、ときにはそんなことはさっぱりと忘れて、「優しく」生きたほうがと思ったこともあります。
 しかし、どうも喉に小骨が刺さったままの状況ではと、よろよろと勉強し始めたのが実情です。
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