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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

材木・人工林・林道 その繋がりはいま?

2018-03-09 14:03:45 | よしなしごと
 材木について書いてきました。
 生きている立木も美しいが、伐採され、適切に製材された材木も美しくかつ有用であることを書いてきました。
 私が材木屋の息子で、しかも跡継ぎを嘱望された養子として育てられたにもかかわらず、それを親不孝にも裏切ってきたユダであることも書きました。

 ですからこうして、いまさらのごとく材木について書くのは、後ろめたさと言おうか、贖罪の気持ちが多分に含まれています。
 ただ、子どもの頃から、材木を身近で見てきた経験からして、製材された材木はとてもきれいなのです。変な比喩で申し訳ないのですが、動物や人間の内部や断面はグロテスクで醜いのですが、植物の王である樹木の断面はとてもきれいなのです。

            
 
 ところどころに、いわゆる節がでているものもありますが、いままでやここに載せた写真をご覧いただくとおわかりのように、それ自身がとてもきれいなのです。
 お寿司屋さんなど、ヒノキの柾目(まさめ=節がなく、木目が水平方向にきれいに平行しているもの)のカウンターが尊重されますが、逆に、あえて節を目立たせた「大節板のカウンター」もなかなか野趣があっていいものです。

 居酒屋を開業した際、亡父が私に呉れたのがこの大節板でした。不孝な私に呉れたのです。約50年前から30年間、このカウンターにお世話になりました。

            

 ただし、誤解されないように言い足しますと、柾目に対するものは節板ではなく板目なのです。ようするに、丸太の中心部で、年輪を横断するように製材すれば柾目になり、年輪に平行するように製材すると板目になります(図を参照してください)。

            

材木は見た目にも美しく面白いのですが、その匂いもそれぞれ違ってとても豊かです。その香りは、多分、その木の新芽をちぎって嗅ぐそれに似ているのでしょう。ちょっと文章では表現しにくいですね。
 板や柱に挽いた材木の倉庫へはいると、溢れんばかりの木の香がシンフォニーのように身を包んでくれます。

 
 しかし、やはり一般には、節がないものが尊重されます。しかしそれは、天然の木材ではまったく稀で、人工林で人手をかけてこそはじめて可能なことなのです。
 人工林での作業は、下草刈りや間伐などいろいろありますが、木目に直接関わる作業は枝を人工的に切る作業「枝打ち」です。
 樹木はその成長の過程で枝を伸ばします。そして、それを放置するとその枝の痕跡が節となって確実に残ります。しかし、早いうちに 枝うちしてその枝を切ってしまえば、木はその切り口を覆うように成長し、節の痕跡を残しません。

            

 杉でも檜でもそうですが、人工林のものは地表からかなり上まで、きれいに枝打ちされています。
 こうした不断の努力があってこそ、節のないきれいな木目の材木が可能になるのです。林業ではその植林から生育過程での幾多の作業が何十年というスパーンで行われ、その結果としてやっと商品として売れる木ができるのです。ですから、一般に考えられる伐採して売るというのは、最終段階のほんの一幕に過ぎず、それに遡る努力の集積こそが本当の仕事なのです。

 しかし、その林業が今や衰退を余儀なくされています。主因は材木の需要が減ったことなのですが、同時に数十年単位の時を経てやっと換金されるというその業態が、即金主義的ないまの時世に合わないということもあります。
 田んぼの休耕田同様、手入れを放棄した人工林もかなりあるようで、そのせいもあって、自然災害で崩落などあって通れなくなった林道も、むかしならすぐに復旧作業が進んだのに、いまはそのまま放置されているケースが増えたと聞きます。
 その先に管理すべき人工林がなくなったいま、わざわざお金をかけてまで修復しないということです。

            

 かつて日本の山地では、ちょっとした渓や沢沿いに、それぞれトラックが一台通れるほどの林道があり、上流への遡行を可能にしていました。イワナやアマゴを追いかけて中部地方の渓へ通っていた頃、よくそうした林道のお世話になりました。
 それらの林道の幾つかがいまや通行不能になっているのです。

 私たちが無邪気に信じている日本の「原風景」は、実は田畑の管理のために人為的に作られた農村風景であったり、あるいは、人工林を可能にする山里や山中の風景であったりと、すべからくそうした先人たちの自然との交換の営為のために作り出されたものなのです。
 したがって、農業にしろ、林業にしろ、それらが柱となった土地々々での営みがなくなるとき、それが醸し出した風景そのものも変わります。詳しくは述べませんが、グローバリゼーションのなか、それらはいくぶん加速されたいるような気もします。

            

 材木の話から逸れたようですが、実はそうでもないと思っています。
 私たちは、先行する世代が築いたもののうちで生を受け、同時代人たちとともに生きながら、相互の営みのなかで自分の生を紡いでゆきます。
 材木と私たち、材木のもとである山林の変遷と私たち、そうした関わりは、私たちと世界とのつながりの、ひとつの今の様相を示しています。
 ただし、親不孝な材木屋の倅という自意識は、そのつながりをみなさんよりやや濃い目に自覚しているのかもしれません。
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親不孝な材木屋の息子の話

2018-03-06 01:55:00 | 写真とおしゃべり
 材木の話である。前回は前置きのみで終わってしまった。
 
 なぜ私が材木の話にこだわるのか、それは私が材木屋の息子だからである。父は福井県の山奥で1908年に生を受け、高等小学校卒業と同時に(1923年=大正12年)柳行李(やなぎこうり=カワヤナギの細い枝を麻糸で編んで作った蓋付きの容器。昔の行商人などが背中に担いで用いた)ひとつを担いで岐阜の材木屋に奉公に出た。いわゆる丁稚からの叩き上げである。

              

 その父は1935(昭和10)年頃、奉公先から独立を許されて、やっと自分の店をもったのだった。相前後して結婚するのだが、子供ができないため跡継ぎにと養子に迎えられたのがほかならぬ私であった。
 私の方は生後すぐに母を失って養育困難な状況にあった。私が迎えられたのは1940(昭和15)年、二歳のときだった。

              

 しかし、その店も、戦況が逼迫するにつれ、父が徴用(軍需工場での強制労働)にとられ、維持できなくなり、さらには戦地へ招集されるに至って閉店を余儀なくされた。
 中国東北部に兵士としていた父は、敗戦と同時にシベリアへ連行され、1948(昭和23)年にやっと帰国できた。帰国できてもすぐに自分の店を再開することができず、再び岐阜市内の材木屋に勤め、小十年経ってからやっと再び自分の店をもつに至った。

 戦争は、私の父からなんと15年の歳月を奪ったのだ。しかし、帰還出来ず命を失った多くの兵士がいたことに比べればマシだったといえるかもしれない。

              

 さて、そんな父が望みを託した後継者の私だったが、なんと親不孝にも、いろいろ「道楽」の結果、その家業を継がなかったのだ。
 結局、家業を継いだのは、私同様養女として育った妹(彼女は父の妻、つまり私の養母と縁続きであった。私はそうではない)夫妻であった。
 そんな親不孝な私がいうのも何だが、それは正解であったと思う。私のような多情軽薄な男よりも、妹夫妻のほうが遥かに立派に家業を発展させたのだから。
 とりわけ、材木商の殆どが姿を消し、岐阜市では残っているのは往年の一割ぐらいといわれるなかで存続していること自体が稀有である。

          

 それが可能だったのは、その戦略にあった。それは、材木なら何でもということではなく、その種類においても、品質においても比較的レアなもの、いわゆる銘木路線に徹してきたからだと思う。
 一般的な材木は、あっという間に他の素材にとって替わられた。いま、一見和風に見える建築でも、むかしのように材木を使ったものはほとんどない。使っていても、原価の安い外材だとか合板だとかで、しかもほんの一部分でしかない。

 それが悪いといっているのではない。その方がコストも安いし、扱いやすく合理的なのだ。しかし、材木の需要はそればかりではない。
 本格的な木造家屋の建築も少数といえどあるし、社寺仏閣の建築修復を始めとして材木でなければという需要も多い。その他、少なくなったとはいえ仏壇、囲碁将棋の盤、まな板などなどとの需要が続いている。

              

 実のところ、妹夫妻とその息子(私の甥、いまは彼が経営を支えている)が、先行きの状況を踏まえ、閉店しようとした時、真っ先に反対したのは主要な顧客であった寺社大工、いわゆる宮大工だった。いまやめられては、自分たちに必要な材木が入手できなくなるというのが彼らの言い分だった。

              
 
 それは、父の代から、銘木を惜しまずに仕入れ続け、保管するという路線が評価された瞬間だった。いつ売れるかわからないにも関わらず、これはというものを仕入れ、好条件のもとに保管し続けてきたのだった。
 生前の父の自慢は、国宝犬山城の改修工事にメインの材木を納めたほか、各地の国宝、重文への納入実績だった。父を車に乗せて走ると、あのお社は、あの寺院は、あのお屋敷は、と結構うるさかったものだが、いま思うと、自分の死後にも残るところへ自分の営為が刻み込まれたことへ自負だったと思う。だから、もっと深く頷いて聞いてやるべきだったのだ。

 また話が長くなった。続きは改めて書こうと思う。



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「材木」という木のあり方とその美しさについて

2018-03-04 01:14:48 | よしなしごと
            

 凛として立つ木は美しい。
 初々しい幼木、少しばかり分別がついたような若木、それらは壮木の時代を経て、どっしり構え周囲を睥睨するような老木へと至る。
 その寿命はその種によって異なり、縄文杉のように千年の単位を誇るもののあるが、せいぜい、何百年単位とされる。自然界では、その限界に達した木は、枯死したり、倒木して朽ち果てたりする。

                

 しかし、木々に は実際にはもっと生きるものがある。
 それは人間が介在して、材木として用いる場合である。その代表格は世界最古の木造建築といわれる法隆寺であるが、それを筆頭として、何百年単位の木造建築はけっこう残されている。

                

 これは考えてみれば面白くて、最も堅牢といわれる鉄筋コンクリートの建造物が数十年も経てば更新されるのに、木造の社寺仏閣、あるいはある種の民家などは、数百年の単位で生き残っている。

            

 私の住む岐阜市の駅(かつての国鉄、今のJR)は、私がものごころついて以後でも三回、建て替わっている。それに対して、そのすぐ南にある私の実家は、築60年の寿命を経ている。
 もっとも岐阜駅の更新は、一度は戦災で焼かれたもの、あとの2度は利便性の見地からの建て替えだから、必ずしも耐久性のみではない。

              

 しかし、木造が鉄筋などに比べて格段に耐久性に劣るということではないとはいえると思う。
 1964年(昭和39年)6月の新潟地震(M7.5)では、信濃川にかかるコンクリート製の橋は、橋脚から橋桁が外れてドミノ倒しのように水中に没したが、一方、当時まだあった木造の橋の方はほとんど損傷がなく、それが話題になった。
 木材がもつある種のアローアンスの力学がそれを可能にしたものと思われる。

             

 なお、上の情報は私自身がこの目で確認している。
 というのは、当時、私が勤めていた会社の新潟支店が、やはりこれも話題になった新潟駅前のかなり傾いたビルのなかにあって、それを救援するために地震後間もないころに新潟を訪れたからである。
 その新潟支店は、全体が激しく傾斜していて、人の平衡感覚との乖離のせいで、目眩がする程であった。今なら、二次災害を恐れて立入禁止になるところだが、当時はそんななかで入居者たちは業務をこなしていたのであった。

              

 私の話は、いつも大きく逸れるのが特徴である。
 主題は「材木」であった。その材木が樹木の自然的生命を超えて、なおかつそのもてる機能を発揮し、建造物などとしてその生命を永らえ、もって人の文化に寄与する「材木賛歌」を書きたかったのだ。
 しかし、あまりにも前置きが長くなった。だからその本題は次回に譲りたい。
 次回は、なぜほかならぬこの私がしゃかりきに材木賛歌を綴るのかも含めて、ちゃんと書きたいと思っている。
 まずは写真で、材木の美しさを享受していただきたい。

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世界を飛翔した陶磁器 「ノリタケの森」散策記

2018-03-01 01:23:22 | 写真とおしゃべり
 人生には、出会いの妙のようなものを保ったお付き合いがある。
 ふとした機会に出会って、それが家族のようにべったり近くにいるわけでもなく、かといって全く疎遠でもなく、言ってみればそれほど濃厚でも、もちろん冷ややかでもない適度の距離感をもったお付き合い、人格的にも基本的なところで信頼がおける友人といった人たちとのお付き合いのことである。
 20年以上前、パソコン通信と言ったものを媒介にして知り合った夫妻がいて、さほど近くではないせいもあって数年に一度ぐらいしか会う機会がないが、会えば懐かしい。

                

 その夫妻と名古屋で落ち合って地下鉄一駅分を歩き、「ノリタケの森」を訪れた。
 ここはその名の通り、陶磁器などのメーカーであるノリタケが、旧工場の一部をミュージアムや公園、レストランなどに整えた、いわば企業メセナによる複合施設である。
 2001年の開館だが、それから間もなくのころ、一度訪れている。しかし、記憶力の低下した今、誰と行ったのか、その時の詳細がどうだったのかはすっかり飛んでしまっている。ただ、とても快適な空間であったこと、したがって再訪に値するとは思っていた。

             

 さて、そのノリタケであるが、いまでこそ「世界のノリタケ」と称されるに至っているがその発祥は同社の説明によると以下のようだ。
 「幕末の動乱期、御用商人だった森村市左衛門は、鎖国が解かれた日本から大量の金が海外へ流出するのを目の当たりにしました。洋学者の福沢諭吉から、『金を取り戻すには、輸出貿易によって外貨を獲得することが必要だ』と説かれた市左衛門は、国のため自ら海外貿易を始めることを決意します。そして明治9年(1876)、東京銀座に貿易商社「森村組」を創業、弟の豊(とよ)をニューヨークに送って輸入雑貨店『モリムラブラザーズ』を開き、本格的な海外貿易を開始しました。ここに、ノリタケのあゆみが始まりました。」

            

 福沢諭吉あたりが登場するところに時代を感じさせるが、ここにいいう「金の流出」というのは、どうもこれは日本での金・銀の価格設定が問題だったようで、「日本では銀の価値が高く設定されていたので、海外から銀を大量に持ち込み金に交換し海外に持ち出しすだけで簡単に手持ち資産を3倍に出来た」という事情のなかで、どんどん金が流出したようだ。
 まあ、事情はともかく、明治10年になるかならぬかにニューヨークに店舗を構えるなどというのは大したものだ。ノリタケの森には、ニューヨークのノリタケブラザーズの店舗と、その前に物怖じせずにたむろする青雲の志に燃えた日本人たちの群像写真があちこちで見られる。

             

 社史は続く。
 「そして、明治37年(1904)、ノリタケカンパニーの前身となる『日本陶器合名会社』を創立し、愛知県鷹場村大字則武(現 名古屋市西区則武新町)の地に、近代的な設備を備えた大工場を建設しました。しかし、操業を開始したものの、生産を軌道に乗せるまでには更に試行錯誤の年月を要しました。ついに日本初のディナーセットを完成させたのは、10年後の大正3年(1914)のことでした。米国へ輸出された日本製の洋食器は大変な売れ行きで、やがて『ノリタケチャイナ』の名で世界中に知られるブランドへと成長していったのです。」
 この経緯はともかく、名古屋駅から徒歩で10~15分のこの地が、当時は「鷹場村大字則武」という村落であったという歴史に驚く。加えていうならば、その地名、「則武」が現在の社名やブランド名になっていることからみても、同社にとってこの土地が持つ意味合いも推測される。

            

 そうした歴史に裏付けられてだが、このノリタケの森の最大の見所は近代化産業遺産群に指定されている赤レンガ造りの工場群、すなわち上に述べられた当初の工場の痕跡である。近代化に燃えて建造された工場群は、いまやレトロ感満載の空間と化しているが、そこには確実に100年の時間が横たわっていて、それを実感することができる。それを目にするばかりか、触り、中へ入ることもできる貴重な空間といえる。

             

 このノリタケの森の概要を述べておこう。
 *ウェルカムセンター  企業の歴史と概要がよく分かる
 *ノリタケ森のギャラリー その折々の美術展を開催
 *クラフトセンター 陶磁器の原材料から製品までの一貫生産の様子を知ることができる。ここはやはり外せないように思う。
 *ノリタケミュージアム ノリタケが過去作って生きた製品の絢爛豪華な展示場。クラフトセンターからの連続で、ここも必見。
 *ノリタケスクエア ノリタケブランドのショップ。けっこうてごろなものもある。ラーメンどんぶりも売っていたが、ノリタケブランドかどうかよくわからなかったので買わなかった。

              
 
 以上は、屋内の施設であるが、公園になっている「煙突広場」の散策も楽しい。
 その名の通り、旧工場で使われていた6本の煙突を中心とした広場だが、レンガ造りの古い煙突は、倒壊防止の為半分の高さに切られ、その周囲をさらにコンクリートで覆っているため、昔日の面影はないが、私には個人的な思い入れがある。
 それは、私が岐阜から名古屋に通っていた学生時代やサラリーマン時代(50年から60年前だ 遠い目)、これらの旧煙突はまだ健在で、これが見えるとそろそろ下車する準備を始めたものだった。

             

 現在、そのコンクリートで覆われた煙突はツタに覆われていて、それらが芽吹くと緑の塔が六基立ち並ぶことになる。ことほどさように、この公園は四季によってその姿・色あいを変える。
 私たちの行ったのはいちばん地味な季節で色あいに乏しかったのだが、それでもなお、その風情を楽しむことができた。
 この建造に力を貸した人たちの名が記された白磁の皿を掲げた「窯壁」がうねる。窯壁というのは取り壊した工場のレンガ塊を石垣のように積み上げて壁にしたもので、それはまた風情がある。
 ほかに、工場の古い窯跡が古墳の発掘跡のように残っていたり、小さな単独窯が魔法の家のように建っていたりして、それらの間を芝生の広場や植物群が埋める。
 これは名古屋駅からほんの僅かな箇所にあるなんて、都会の中のオアシスのような場所といえる。

              

 場所の説明が長引いた。
 同行させていただいたお二人とは、その至る箇所々々で感想を述べあったり、しばし写真を撮ったりと、楽しく過ごさせていただいた。とりわけ、はじめて訪れたという奥方が予想を上回ったと満足されていたのは、一緒に歩いていて良かったと思った。
 満ち足りた人の傍らにいると、こちらも満ち足りるものがある。

             

 その後は、栄へ移動し、魚と酒の旨い店での歓談。互いの近況やら周辺のニュース、共通の知り合いの噂話など、話題は尽きなかった。25日の夕刻、くしゃみが出た人たちは、おそらくその歓談での話題に登場した人たちだ。
 若い頃なら、ここから二次会三次会という時刻だったが、あいにく若くもないし、お二人の帰途の時間も迫っていたので、名古屋駅まで戻って別れた。
 お二人との会話は心地よかった。とりわけ、昨秋、同人誌の終刊を迎えて以来、あまり人様と時間をかけておしゃべりをすることから遠ざけられていた私にとっては、有意義で刺激をいただける時間であった。

 帰宅して歩数計を見たら9,800歩、ちょうど心地よい疲れであった。

            

【おまけの余談】一昨年、ある繊維会社の功なり名を遂げた九〇歳代の方の自叙伝をつくるお手伝いをしたことがあるが、その方の証言によると、この平和の象徴のような食器工場は、戦時中、当時のご多分に漏れず軍需工場となっていて、飛び立ったが最後着陸できない究極の自爆特攻機のエンジンを作っていたとのことである。
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