材木の話である。前回は前置きのみで終わってしまった。
なぜ私が材木の話にこだわるのか、それは私が材木屋の息子だからである。父は福井県の山奥で1908年に生を受け、高等小学校卒業と同時に(1923年=大正12年)柳行李(やなぎこうり=カワヤナギの細い枝を麻糸で編んで作った蓋付きの容器。昔の行商人などが背中に担いで用いた)ひとつを担いで岐阜の材木屋に奉公に出た。いわゆる丁稚からの叩き上げである。
その父は1935(昭和10)年頃、奉公先から独立を許されて、やっと自分の店をもったのだった。相前後して結婚するのだが、子供ができないため跡継ぎにと養子に迎えられたのがほかならぬ私であった。
私の方は生後すぐに母を失って養育困難な状況にあった。私が迎えられたのは1940(昭和15)年、二歳のときだった。
しかし、その店も、戦況が逼迫するにつれ、父が徴用(軍需工場での強制労働)にとられ、維持できなくなり、さらには戦地へ招集されるに至って閉店を余儀なくされた。
中国東北部に兵士としていた父は、敗戦と同時にシベリアへ連行され、1948(昭和23)年にやっと帰国できた。帰国できてもすぐに自分の店を再開することができず、再び岐阜市内の材木屋に勤め、小十年経ってからやっと再び自分の店をもつに至った。
戦争は、私の父からなんと15年の歳月を奪ったのだ。しかし、帰還出来ず命を失った多くの兵士がいたことに比べればマシだったといえるかもしれない。
さて、そんな父が望みを託した後継者の私だったが、なんと親不孝にも、いろいろ「道楽」の結果、その家業を継がなかったのだ。
結局、家業を継いだのは、私同様養女として育った妹(彼女は父の妻、つまり私の養母と縁続きであった。私はそうではない)夫妻であった。
そんな親不孝な私がいうのも何だが、それは正解であったと思う。私のような多情軽薄な男よりも、妹夫妻のほうが遥かに立派に家業を発展させたのだから。
とりわけ、材木商の殆どが姿を消し、岐阜市では残っているのは往年の一割ぐらいといわれるなかで存続していること自体が稀有である。
それが可能だったのは、その戦略にあった。それは、材木なら何でもということではなく、その種類においても、品質においても比較的レアなもの、いわゆる銘木路線に徹してきたからだと思う。
一般的な材木は、あっという間に他の素材にとって替わられた。いま、一見和風に見える建築でも、むかしのように材木を使ったものはほとんどない。使っていても、原価の安い外材だとか合板だとかで、しかもほんの一部分でしかない。
それが悪いといっているのではない。その方がコストも安いし、扱いやすく合理的なのだ。しかし、材木の需要はそればかりではない。
本格的な木造家屋の建築も少数といえどあるし、社寺仏閣の建築修復を始めとして材木でなければという需要も多い。その他、少なくなったとはいえ仏壇、囲碁将棋の盤、まな板などなどとの需要が続いている。
実のところ、妹夫妻とその息子(私の甥、いまは彼が経営を支えている)が、先行きの状況を踏まえ、閉店しようとした時、真っ先に反対したのは主要な顧客であった寺社大工、いわゆる宮大工だった。いまやめられては、自分たちに必要な材木が入手できなくなるというのが彼らの言い分だった。
それは、父の代から、銘木を惜しまずに仕入れ続け、保管するという路線が評価された瞬間だった。いつ売れるかわからないにも関わらず、これはというものを仕入れ、好条件のもとに保管し続けてきたのだった。
生前の父の自慢は、国宝犬山城の改修工事にメインの材木を納めたほか、各地の国宝、重文への納入実績だった。父を車に乗せて走ると、あのお社は、あの寺院は、あのお屋敷は、と結構うるさかったものだが、いま思うと、自分の死後にも残るところへ自分の営為が刻み込まれたことへ自負だったと思う。だから、もっと深く頷いて聞いてやるべきだったのだ。
また話が長くなった。続きは改めて書こうと思う。
なぜ私が材木の話にこだわるのか、それは私が材木屋の息子だからである。父は福井県の山奥で1908年に生を受け、高等小学校卒業と同時に(1923年=大正12年)柳行李(やなぎこうり=カワヤナギの細い枝を麻糸で編んで作った蓋付きの容器。昔の行商人などが背中に担いで用いた)ひとつを担いで岐阜の材木屋に奉公に出た。いわゆる丁稚からの叩き上げである。
その父は1935(昭和10)年頃、奉公先から独立を許されて、やっと自分の店をもったのだった。相前後して結婚するのだが、子供ができないため跡継ぎにと養子に迎えられたのがほかならぬ私であった。
私の方は生後すぐに母を失って養育困難な状況にあった。私が迎えられたのは1940(昭和15)年、二歳のときだった。
しかし、その店も、戦況が逼迫するにつれ、父が徴用(軍需工場での強制労働)にとられ、維持できなくなり、さらには戦地へ招集されるに至って閉店を余儀なくされた。
中国東北部に兵士としていた父は、敗戦と同時にシベリアへ連行され、1948(昭和23)年にやっと帰国できた。帰国できてもすぐに自分の店を再開することができず、再び岐阜市内の材木屋に勤め、小十年経ってからやっと再び自分の店をもつに至った。
戦争は、私の父からなんと15年の歳月を奪ったのだ。しかし、帰還出来ず命を失った多くの兵士がいたことに比べればマシだったといえるかもしれない。
さて、そんな父が望みを託した後継者の私だったが、なんと親不孝にも、いろいろ「道楽」の結果、その家業を継がなかったのだ。
結局、家業を継いだのは、私同様養女として育った妹(彼女は父の妻、つまり私の養母と縁続きであった。私はそうではない)夫妻であった。
そんな親不孝な私がいうのも何だが、それは正解であったと思う。私のような多情軽薄な男よりも、妹夫妻のほうが遥かに立派に家業を発展させたのだから。
とりわけ、材木商の殆どが姿を消し、岐阜市では残っているのは往年の一割ぐらいといわれるなかで存続していること自体が稀有である。
それが可能だったのは、その戦略にあった。それは、材木なら何でもということではなく、その種類においても、品質においても比較的レアなもの、いわゆる銘木路線に徹してきたからだと思う。
一般的な材木は、あっという間に他の素材にとって替わられた。いま、一見和風に見える建築でも、むかしのように材木を使ったものはほとんどない。使っていても、原価の安い外材だとか合板だとかで、しかもほんの一部分でしかない。
それが悪いといっているのではない。その方がコストも安いし、扱いやすく合理的なのだ。しかし、材木の需要はそればかりではない。
本格的な木造家屋の建築も少数といえどあるし、社寺仏閣の建築修復を始めとして材木でなければという需要も多い。その他、少なくなったとはいえ仏壇、囲碁将棋の盤、まな板などなどとの需要が続いている。
実のところ、妹夫妻とその息子(私の甥、いまは彼が経営を支えている)が、先行きの状況を踏まえ、閉店しようとした時、真っ先に反対したのは主要な顧客であった寺社大工、いわゆる宮大工だった。いまやめられては、自分たちに必要な材木が入手できなくなるというのが彼らの言い分だった。
それは、父の代から、銘木を惜しまずに仕入れ続け、保管するという路線が評価された瞬間だった。いつ売れるかわからないにも関わらず、これはというものを仕入れ、好条件のもとに保管し続けてきたのだった。
生前の父の自慢は、国宝犬山城の改修工事にメインの材木を納めたほか、各地の国宝、重文への納入実績だった。父を車に乗せて走ると、あのお社は、あの寺院は、あのお屋敷は、と結構うるさかったものだが、いま思うと、自分の死後にも残るところへ自分の営為が刻み込まれたことへ自負だったと思う。だから、もっと深く頷いて聞いてやるべきだったのだ。
また話が長くなった。続きは改めて書こうと思う。
木の素晴らしさもさることながら
小説が書ける人生ドラマに引き込まれました。
そう言えば仕事に関連して、昔に読んだ本ですが
『木のいのち木のこころ』
西岡常一という宮大工の著書。
当時、色々な事を教えられた本でした。
ふと、思い出して
お父上の自負、六文さんの後悔。わかります。私生児だった私の父が岡崎の地場産業のひとつである石屋から、何十人もの職人を使う土建業の親方として高度成長期のビル建設に携わるようになった頃のこと。名古屋を代表するビルの建設を終え、記念品としてビルの模型を持ち帰り、それを飽かず眺めながら家族の方に顔を向け語り掛けようとするものの、誰も興味を示しませんでした。きっと寂しかったと思います。六文さんのお父上の気持ちを想像し、私事を思い出しました。
父は商人というより、職人肌でした。
もっとも昔の商人は、自分の扱う商品に誇りをもっていて、それに寄り添うように商いをしていましたから、父もまたそうした一員だったということです。
おっしゃっている書、私は未見ですが、宮大工さんの木を見る眼差しはすごいですね。父の代からの在庫で、いいものは既にそうした宮大工さんのツバが付いていて、それを預かり保管しているといった感があります。
社寺仏閣などの仕事が入ると、甥のところへはあの木をこういう風に挽いてくれといってくるのだそうです。
お父上は石工さんでもいらっしゃったわけですね。ヨーロッパでいえばフリーメースンの母体ですね。
石は木材以上に残りますから、そうしたビッグプロジェクトに参加され、ご自分の仕事を残すことがおできになって、達成感はかなりのものだったと思います。
私もそうでしたが、家族は意外とそれを評価する目を持ちえないのかもしれません。
私の知り合いでも、けっこういい仕事をされてお亡くなりになったあと、そのご家族のお話をお聞きすると、けっこうひどい評価だったりします。