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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

世界を飛翔した陶磁器 「ノリタケの森」散策記

2018-03-01 01:23:22 | 写真とおしゃべり
 人生には、出会いの妙のようなものを保ったお付き合いがある。
 ふとした機会に出会って、それが家族のようにべったり近くにいるわけでもなく、かといって全く疎遠でもなく、言ってみればそれほど濃厚でも、もちろん冷ややかでもない適度の距離感をもったお付き合い、人格的にも基本的なところで信頼がおける友人といった人たちとのお付き合いのことである。
 20年以上前、パソコン通信と言ったものを媒介にして知り合った夫妻がいて、さほど近くではないせいもあって数年に一度ぐらいしか会う機会がないが、会えば懐かしい。

                

 その夫妻と名古屋で落ち合って地下鉄一駅分を歩き、「ノリタケの森」を訪れた。
 ここはその名の通り、陶磁器などのメーカーであるノリタケが、旧工場の一部をミュージアムや公園、レストランなどに整えた、いわば企業メセナによる複合施設である。
 2001年の開館だが、それから間もなくのころ、一度訪れている。しかし、記憶力の低下した今、誰と行ったのか、その時の詳細がどうだったのかはすっかり飛んでしまっている。ただ、とても快適な空間であったこと、したがって再訪に値するとは思っていた。

             

 さて、そのノリタケであるが、いまでこそ「世界のノリタケ」と称されるに至っているがその発祥は同社の説明によると以下のようだ。
 「幕末の動乱期、御用商人だった森村市左衛門は、鎖国が解かれた日本から大量の金が海外へ流出するのを目の当たりにしました。洋学者の福沢諭吉から、『金を取り戻すには、輸出貿易によって外貨を獲得することが必要だ』と説かれた市左衛門は、国のため自ら海外貿易を始めることを決意します。そして明治9年(1876)、東京銀座に貿易商社「森村組」を創業、弟の豊(とよ)をニューヨークに送って輸入雑貨店『モリムラブラザーズ』を開き、本格的な海外貿易を開始しました。ここに、ノリタケのあゆみが始まりました。」

            

 福沢諭吉あたりが登場するところに時代を感じさせるが、ここにいいう「金の流出」というのは、どうもこれは日本での金・銀の価格設定が問題だったようで、「日本では銀の価値が高く設定されていたので、海外から銀を大量に持ち込み金に交換し海外に持ち出しすだけで簡単に手持ち資産を3倍に出来た」という事情のなかで、どんどん金が流出したようだ。
 まあ、事情はともかく、明治10年になるかならぬかにニューヨークに店舗を構えるなどというのは大したものだ。ノリタケの森には、ニューヨークのノリタケブラザーズの店舗と、その前に物怖じせずにたむろする青雲の志に燃えた日本人たちの群像写真があちこちで見られる。

             

 社史は続く。
 「そして、明治37年(1904)、ノリタケカンパニーの前身となる『日本陶器合名会社』を創立し、愛知県鷹場村大字則武(現 名古屋市西区則武新町)の地に、近代的な設備を備えた大工場を建設しました。しかし、操業を開始したものの、生産を軌道に乗せるまでには更に試行錯誤の年月を要しました。ついに日本初のディナーセットを完成させたのは、10年後の大正3年(1914)のことでした。米国へ輸出された日本製の洋食器は大変な売れ行きで、やがて『ノリタケチャイナ』の名で世界中に知られるブランドへと成長していったのです。」
 この経緯はともかく、名古屋駅から徒歩で10~15分のこの地が、当時は「鷹場村大字則武」という村落であったという歴史に驚く。加えていうならば、その地名、「則武」が現在の社名やブランド名になっていることからみても、同社にとってこの土地が持つ意味合いも推測される。

            

 そうした歴史に裏付けられてだが、このノリタケの森の最大の見所は近代化産業遺産群に指定されている赤レンガ造りの工場群、すなわち上に述べられた当初の工場の痕跡である。近代化に燃えて建造された工場群は、いまやレトロ感満載の空間と化しているが、そこには確実に100年の時間が横たわっていて、それを実感することができる。それを目にするばかりか、触り、中へ入ることもできる貴重な空間といえる。

             

 このノリタケの森の概要を述べておこう。
 *ウェルカムセンター  企業の歴史と概要がよく分かる
 *ノリタケ森のギャラリー その折々の美術展を開催
 *クラフトセンター 陶磁器の原材料から製品までの一貫生産の様子を知ることができる。ここはやはり外せないように思う。
 *ノリタケミュージアム ノリタケが過去作って生きた製品の絢爛豪華な展示場。クラフトセンターからの連続で、ここも必見。
 *ノリタケスクエア ノリタケブランドのショップ。けっこうてごろなものもある。ラーメンどんぶりも売っていたが、ノリタケブランドかどうかよくわからなかったので買わなかった。

              
 
 以上は、屋内の施設であるが、公園になっている「煙突広場」の散策も楽しい。
 その名の通り、旧工場で使われていた6本の煙突を中心とした広場だが、レンガ造りの古い煙突は、倒壊防止の為半分の高さに切られ、その周囲をさらにコンクリートで覆っているため、昔日の面影はないが、私には個人的な思い入れがある。
 それは、私が岐阜から名古屋に通っていた学生時代やサラリーマン時代(50年から60年前だ 遠い目)、これらの旧煙突はまだ健在で、これが見えるとそろそろ下車する準備を始めたものだった。

             

 現在、そのコンクリートで覆われた煙突はツタに覆われていて、それらが芽吹くと緑の塔が六基立ち並ぶことになる。ことほどさように、この公園は四季によってその姿・色あいを変える。
 私たちの行ったのはいちばん地味な季節で色あいに乏しかったのだが、それでもなお、その風情を楽しむことができた。
 この建造に力を貸した人たちの名が記された白磁の皿を掲げた「窯壁」がうねる。窯壁というのは取り壊した工場のレンガ塊を石垣のように積み上げて壁にしたもので、それはまた風情がある。
 ほかに、工場の古い窯跡が古墳の発掘跡のように残っていたり、小さな単独窯が魔法の家のように建っていたりして、それらの間を芝生の広場や植物群が埋める。
 これは名古屋駅からほんの僅かな箇所にあるなんて、都会の中のオアシスのような場所といえる。

              

 場所の説明が長引いた。
 同行させていただいたお二人とは、その至る箇所々々で感想を述べあったり、しばし写真を撮ったりと、楽しく過ごさせていただいた。とりわけ、はじめて訪れたという奥方が予想を上回ったと満足されていたのは、一緒に歩いていて良かったと思った。
 満ち足りた人の傍らにいると、こちらも満ち足りるものがある。

             

 その後は、栄へ移動し、魚と酒の旨い店での歓談。互いの近況やら周辺のニュース、共通の知り合いの噂話など、話題は尽きなかった。25日の夕刻、くしゃみが出た人たちは、おそらくその歓談での話題に登場した人たちだ。
 若い頃なら、ここから二次会三次会という時刻だったが、あいにく若くもないし、お二人の帰途の時間も迫っていたので、名古屋駅まで戻って別れた。
 お二人との会話は心地よかった。とりわけ、昨秋、同人誌の終刊を迎えて以来、あまり人様と時間をかけておしゃべりをすることから遠ざけられていた私にとっては、有意義で刺激をいただける時間であった。

 帰宅して歩数計を見たら9,800歩、ちょうど心地よい疲れであった。

            

【おまけの余談】一昨年、ある繊維会社の功なり名を遂げた九〇歳代の方の自叙伝をつくるお手伝いをしたことがあるが、その方の証言によると、この平和の象徴のような食器工場は、戦時中、当時のご多分に漏れず軍需工場となっていて、飛び立ったが最後着陸できない究極の自爆特攻機のエンジンを作っていたとのことである。
コメント (2)
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