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映画『ふるさと』を観る いまはなき徳山村へのレクイエム

2017-09-09 14:24:41 | 日記
【映画の概要】『ふるさと』は、1983年公開の神山征二郎監督、加藤嘉主演の日本映画。揖斐川上流部、徳山ダムの建設で湖底に沈み行く岐阜県揖斐郡徳山村(現揖斐郡揖斐川町)を描く。徳山村の出身で、同地で分校の先生をしていた平方浩介の著書『じいと山のコボたち』(童心社)の映画化。認知症の老人と少年の親交を描きながら、消え行く徳山村の美しい自然を表現している。文化庁優秀映画奨励賞など多数の賞を受賞。主演の加藤嘉がモスクワ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞。

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 Aさん、お薦めいただいた映画「ふるさと」観ました。
 まだ水に沈む前の徳山村の風景を懐かしく観ることができました。一九八三年に作られた映画ですから、まだ村がほぼ残っている頃ですが、同時にぼつぼつ村を出る人が出始めた頃ですね。
 私はこの映画を、作品として客観的に鑑賞し、批評めいたことを述べることにはあまり気が進みません。ただただ懐かしく思えるのみなのです。

 まさにその徳山村へ私はアマゴやイワナなどの渓流魚を求めてしばしば出かけていたのです。正確にいうと、あの映画が出来る少し前まで行っていたのですが、あの頃にはもう行っていません。工事で破壊されてゆく村の姿を観るのに忍びなかったからです。
 ですから、私が行っていたのは、一九七〇年代の初めから八〇年代の初めまでの一〇年ぐらいです。

           
    水没する前の本郷地区 殆どの建物は取り壊されている。左上の小学校、
    水が満たされつつあるとき訪れた際、高台にあったせいでそれだけがぽつ
    んと取り残されていて哀れを催した。いまはもう全てが水の下。


 ちょっとした商店などがあった村の中心、本郷などが出てくるのも懐かしいのですが、やはりアマゴを求めて入った渓谷の様子が忘れられません。
 映画では、中頃から渓流釣りシーンが出てくるのですが、まさにあんな感じで渓に入っていました。映画では、ジイと子どもが連れ立って行くのですが、私は一人です。釣り仲間と一緒に行っても、それぞれ別の渓に入りますから釣っている間は一人です。
 渓流釣りは、鮒釣りや海釣りと違って、渓をどんどん登りながら釣り進みます。映画でもジイがいっていましたが、アマゴはとても敏感な魚ですから人の気配を悟られてはいけないのです。彼らは上流を向いて餌が流れてくるのを待っていますから、上流から接近したのでは絶対
釣れません。

           

 深山幽谷の中を一人で釣り登るのは、都会の喧騒の中に暮らす身にとっては稀有な経験です。渓はその流れる音や虫や鳥などの小動物たちの声に満ちているのですが、にもかかわらず、そこには絶対的な静寂があります。
 そんな静寂を破って、竿先に魚信があり、それに応じてグッと合わせると、水中の生物の鼓動が張りつめた釣り糸を通じて私の身体に伝わり、私はそれを読み取りながら、彼、また彼女がどれくらいの大きさで、どちらの方にどう逃げるのかを推し測ります。
 そこを間違えると、もともと、魚たちにさとられないようにと使っている細いテグスが無情にもぷつりと切れてしまうのです。こうして、魚との駆け引きに勝利してはじめてそれをゲットできるのです。釣り上げた魚たちの美しいこと。それに触れた掌には、その細かい鱗がダイアモンドの粉のようにキラキラと輝きます。

           

 釣れなくとも、渓歩きは愉しいものです。
 折々の花々が咲き、こごみ、わさび、たらの芽などの山菜が出迎え、りす、猿、かもしかなどの野生動物と出会うこともあります。
 夏の夕暮れは、ひぐらし(かなかな蝉)が鳴き、河鹿蛙が哀愁を帯びた声を震わせます。それを聞くと、竿をたたんで、暗くなる前に戻り、渓を出るのです。

 そうしたことどもがすべて、現在のあの広大な水の下でかつてあったのです。私などはほんの一〇年間のビジターにしか過ぎなかったのですが、一万年以上前の石器時代からの人の営みがいまやすべて貯水量日本一というあの巨大な水の下なのです。

              
 
 映画に戻りましょう。ジイが隣家の少年と釣りを始めることによって認知の症状が薄らぐのは象徴的です。
 認知症というのはいまや社会問題にもなりつつありますが、かつてはそんなに多くはなかったのではないかという仮説があります。ようするに、定年の制度化など、人をリアルな現場から引き離す近代以降にそれは増えたのではないかというのです。
 私はこれは一理あるのではないかと思います。というのは、古典などを読んでいても、あまり認知の話は出てこないからです。

 ジイは、連れ合いを亡くし、具体的な仕事から遠ざけられることによって認知の症状を発症しますが、かつてアマゴ釣りの名人といわれたその秘伝を、少年に伝える過程のなかで覚醒します。この事実は、現実とのリアルな関わりこそが人の晩年に光をもたらすことを証しているようです。

           

 神山征二郎監督は、この映画ではその郷土愛(岐阜北高出身)を随所に見せながら、老人と子どもと自然という絶妙の取り合わせのなかで、失われてゆくものへの郷愁をうまく描き出しています。
 私としては、ダムが出来ることをめぐって村落の中にさまざまな問題が発生し、そこにある種の人間模様と言うかドラマがあったことを知っているので、その辺の背景にも触れてほしかったという気持ちがあるのですが、まあ、それもいってみればないものねだりで、かえって映画のストーリー展開を複雑にするのみだったかもしれませんね。

 渓へ行かなくなって以来、静寂のなかでひとり佇むという経験をほとんどしていません。まだ、多情多感であったあの頃(三十代)、現実を相手に一敗地にまみれた二十代の自分をうまくまとめきれないまま、もやもやする思いをあの自然のなかで癒やしていたのだろうと思います。そんな自分を、いまとなっては慈しむように回顧することができます。

          
     今はすべてがこの湖底 ここで暮らした2,000人近い人たちの思いも

 いろいろな思いを惹起する映画でした。
 Aさんがそうした機会を与えてくれたことに改めて感謝します。

【映画予告編】
 https://www.youtube.com/watch?v=sYhUd7bsc3Y

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