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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ケバい魅力をたたえた街・大須 チョイ見と思い出など

2017-09-22 11:52:11 | よしなしごと
 つい最近、僅かな時間であったが名古屋の商店街、大須を訪れる機会があった。
 私が根城としてきたやはり名古屋の今池同様、下町の商店街であるが、さまざまな要因があって現今では大須の方が勢いがある。

           
 
 歴史的にも大須のほうがはるかに古い。もともとこの街は、大須観音の門前町として発展してきたのだが、その大須観音が、かつては現在の岐阜県羽島市桑原町大須にあった真福寺寶生院が徳川家康の命により現在地に移転されたものだということからして400年の歴史をもつことがわかる。
 なお、岐阜育ちの私は、羽島市に大須という地名があることは知っていたが、それがこの大須につながることは長じて初めて知るところとなった。

           

 ようするに大須は、私がこの街を知った頃には、観音様の門前町として、善男善女、ジジババが集まるところだった。それを示すように、この街の道路は、赤門通り、万松寺通り、仁王門通り、門前町通りなど、それぞれが抹香臭いネーミングに満たされている。しかし、それが今日、ある種のトレンドとして街の味わいを加味する雰囲気を醸しているのだから面白いものである。

           
           
           

 そうしたジジババの街大須は、東京の巣鴨ほどのブランド性を持ち得ず、1960年代から70年代にかけては衰退の兆候を見せ始めるのだが、そこへ一石を投じたのがアメ横ビルなど家電店やパソコンショップの進出で、それらが若者が来る街としての新たな発展を生み出し、秋葉原(東京)、日本橋(大阪)に次ぐ日本三大電気街の一つに数えられるようになった。
 基本的にはそれが今日の大須を支えている。街には若向きのオープンカフェのような作りの飲食店が溢れ、私のような焼跡派にはいささか入りにくい感もある。

 そうしたこの街の「正史」とは別に、私にはある種の個人的な思い入れもある。
 その一つは、いわゆる「大須事件」である。
 時は1952(昭和27)年7月7日、当時まだ国交がなかった中国との日中貿易協定の調印式に臨んだ社会党の帆足計、改進党の宮越喜助代議士の歓迎集会が今はなき大須球場(中日スタジアムがない前にはここでプロ野球などが行われていた)で行われ、それが当時の日本共産党の軍事路線などと相まって大荒れに荒れ、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷という事態に至った。

           

 この事件は、同じ年の皇居前広場での血のメーデー事件、大阪の吹田事件と並んで、三大騒擾事件といわれた。
 当時私は中学生で、それらの詳細を知るべくもなかったが、同じこの国の戦後のなかで、いろいろな問題が発生しつつあるのだという漠然とした予兆はあった。
 私を同人誌に誘ってくれた故・伊藤幹彦さんが、当時高校生の身でこのデモに参加し、警官隊の制圧にあってほうぼうのていで逃げ延びたのを知ったのは10年ほど前だったろうか。

           
  
 もう一つの大須での思い出は、ロック歌舞伎スーパー一座による夏の「スーパーオペラ」、冬の「スーパー歌舞伎」であった。
 私はそのほとんどを観ているが、かつての浅草オペラを思わせるそれは、底抜けに面白かった。劇団長の原智彦を始めとする劇団員は舞台で弾けていて、アドリブの政治批判なども辛辣にして痛快であった。
 惜しむらくはそれも2008年の舞台を最後に幕となってしまった。そしてその主宰者で演出家であった岩田信市氏も、今年、冥界へ旅立ったという。

           

 そんな大須の街を今回はチラ見程度の散策であったが、平日にも関わらずそのパワーは十分感じることができた。
 ド派手で、ストレートに迫りながらもどこか郷愁に満ちたこの街の不思議な魅力、それは四百年の歴史と、ITが生み出した若者文化との融合、加えて東南アジアやブラジルなどのエスニックな要素が溶け合ったトレンディな味わいのなかにこそあるのだろう。
 加えていうならば、写真で見るようにケバい街であるが、そのケバさがこの街の得体のしれぬ多様性の表出なのかもしれない。
 

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