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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

夏の終わりとスーパーへの買い物、そして人類の滅亡

2017-09-02 14:34:55 | よしなしごと
 「このクソ暑いのいつまで続くんじゃ」という、私の上品極まりない呪詛が効いたのか、9月の声をきくや、昼間こそ暑さは残るものの、朝晩はぐんと涼しくなった。
 昨日は一日中デスクワークで、朝からパソに向かってショボショボと陰気なことといったらありゃしない。なんとか予定の仕事を終えて気がつけば4時を過ぎている。
 
 こんなことしていたら背中がまあるくなって本当におじいさんになってしまう。少し背筋を伸ばして運動しなければと、近くのスーパーまで徒歩で出かけた。
 スーパーへいって棚を見て歩いたが必要なものはさしてない。野菜も農協から仕入れたばかりだし、動物性蛋白質もほとんど必要はない。ではなぜわざわざここまで歩いてきたのか。運動の必要があったのは事実だが、それだけではなく、たしかに前日からこれを仕入れなければと思っていたものがあったはずなのだ。
 
 一巡したがそれを思い出せない。その間、カゴには98円の水菜と消味期限間近で値引きの練り物など2、3品を入れる。しかし、必要なのはこれではなかったはずだ。
 
 二巡目、もう一度野菜の棚からじっくり見てゆく。すると、それがあった。そうなのだ、必要なのは生姜だったのだ。この間、奴豆腐を食べるにも、冷や麦をすするにも、生姜は不可欠なのだ。高知産のそれを、形がよく、使いやすく、ロスが出ないという基準で選ぶ。
 これで帰ってもいいのだが、これまで買ったものの総額は500円にもならぬ。変な見栄で、これでレジに立つのはなんだか惨めな感もある。そこで肉のコーナーで、この前の健康診断で医師から、「血の気が少ないから肉類も摂るように」といわれたのを思い出し、国産牛の細切れで120gが300円台であるものを買った。
 
 そんなものは牛肉のうちに入らないといわれそうだが、これでも玉ねぎか何かとさっと炒めると、けっこううまいのだ。
 うちの父母の代では「肉」というだけでごちそうだった。そしてそれはハレの日の食い物だったのだ。まあ、こんなこといっても、所詮は貧乏人の負け惜しみに過ぎないのだが。
 結局、レジでの支払いは850円ほど。

            
               

 帰途、少ない買い物で荷が重くないのを幸い、回りを見回しながらゆっくり歩を進める。両側にはまだ残っている田んぼ。もう稲刈りのニュースもあるなか、この辺りは遅場米の産地でまだ稲は青々としているのだが、流石に穂が出始めている。

 その手前の休耕田では、小サギのつがいが散策していた。頭上の電線には、ムクドリが30羽ほどとまって喋りちらしている。一見無統制な集団のようで、みな同じ方向を向いているのが面白い。

            

 もっと目を上げると、もう完全に秋の空だ。鱗雲、鰯雲、羊雲などがやがて暮れなぞむ空に混然と展開している。
 耳を澄ますと、田や路傍ですだくのももう秋の虫たちだ。

            

 こうして季節はめぐる。冒頭に書いたような私の呪詛とは無関係にだ。この循環は年々歳々、幾分の変化はあっても、大きな差異はない。もしその差異が大きくなった場合、といっても宇宙規模ではほんの少しの変化で十分なのだが、人類を始めとする生物全体にとってはまさに天変地異の大エポックとなるだろう。

            

 そのようにして地球の歴史はあるし、その過程で多くの生きものたちが滅んできた。かつて生態系の頂点にあったという恐竜もそうだ。彼らはいまや、岩石の一部を構成し、私たちの足下で眠っている。
 人類もやがてその轍を踏むだろう。そして、私たちが眠る大地の上を、私たちが想像もしなかった生きものたちが闊歩するやも知れない。

            

 変な話だが、自分たちが滅んだ、あるいはもっと卑近な例として、自分が死んだ後の世界を見ることができないのは、野次馬根性だけで生きているような私にとっては、実に残念なことといわねばならない。でもよく考えたら(よく考えなくとも)、死ぬということはそういうことなのだ。



コメント
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