6月10日のことである。地域のクラブの人たちとともに、豊橋経由で飯田線沿いの奥三河を訪ねた。
単線各駅停車、すれ違い列車待ちののんびりした旅が心地良い。
まずは本長篠駅まで乗り、そこから長篠城址までひと駅分を散策しながら戻る。
写真はその過程で撮ったほとんど未編集のもの。
ここまでかなり時間を要し、疲労も激しかったので、長篠城址の全体は臨めず、ほんの入口付近だけを観る。
長篠城址駅から再び飯田線に乗って新城へ。
ここで遅い昼食を摂り、あまり駅から離れない範囲を散策し、帰路につくべく新城駅に戻る。以下はその折の写真。
新城駅ではちょうど、折り返して豊橋行になる列車があったのでそれに乗り込む。
15時11分の発車までの時間を待っていると、急に車内の灯りが消える。へ~、JRも発車までの時間、節電のために消灯するのだと思っていたら、どうも様子がおかしい。
消えた電灯が瞬くように点滅したかと思うとまた消えてしまう。しばしその繰り返し。
発車時間はどんどん迫る。
一体どうなっているのかと思ったら車掌のアナウンスが。
「ただいま、当列車の電気系統が異常をきたし停電をいたしております。原因究明と修復の間しばらくお待ちください」
二両編成の列車のことで、スタッフの動きがよく分かるのだが、運転手や車掌が慌ただしく行き交い、話し合い、電話をかけたりしている。
しかし、症状は続く。私のプリンターなら、調子の悪いときはコンセントを抜いて、しばらくしてから接続すれば治るので、それを教えてやろうとしたが、よく考えてみたら、電車のコンセントがどこにあるのかがよくわからない。パンタグラフだろうか。
発車時間はとっくに過ぎたが、事態は回復しない。
そのうちに次のようなアナウンスが。
「たいへん申し訳ありませんが、この列車の電気系統不全が回復いたしませんので、運休とさせていただきます。列車からお降りいただいて、次に参ります列車にお乗り下さい」
戦中戦後の時期、物資不足や粗悪部品の損傷などのせいで、列車の運行中止などはしばしばあったが、そしてまた、戦時中の空襲警報や現在の気象条件、事故などによるものなど外的要因のものはあるとしても、こうした列車そのものの内的要因による運行中止はいまどき珍しいのではないだろうか。
でも考えてみると、まだ発車前でよかったのかもしれない。これが駅ではなく途中で停車して動けなくなったら、単線運転のこと、上下線ともすべて運転中止となり、山の中の線路上にぽつんと取り残され、この日のうちに帰宅できなかったかもしれない。
以下は、運転不能になった列車の写真。列車の前方では、私たちが反対側のホームに移ってからも、運転手と車掌の会話が続いていた。
これは帰宅してから知ったのだが、東名高速で空中ジャンプをした乗用車が、対向車線のバスに突っ込むという信じられないような事故があったとのこと。この場所がというと、やはり新城市の郊外だそうだ。時間は朝の7時半。ということは私たちが岐阜駅から列車に乗り込んだ時間だ。
この日の新城界隈の乗り物は、ご難が重なったことになる。
もっとも、私たちの被害は30分ほどの日程遅延と極めて軽微で、楽しいはずの桜ん坊狩りの旅が修羅場と化した人たちの被害とは比すべくもないのだが・・・・。
【帰宅してから】この日の歩行数は約12,000歩。この歳になってこれだけ歩くと、もう歩かなくてもいいと気を抜いた途端に両足に痙攣が。この夜半になってやっと収まった。
単線各駅停車、すれ違い列車待ちののんびりした旅が心地良い。
まずは本長篠駅まで乗り、そこから長篠城址までひと駅分を散策しながら戻る。
写真はその過程で撮ったほとんど未編集のもの。
ここまでかなり時間を要し、疲労も激しかったので、長篠城址の全体は臨めず、ほんの入口付近だけを観る。
長篠城址駅から再び飯田線に乗って新城へ。
ここで遅い昼食を摂り、あまり駅から離れない範囲を散策し、帰路につくべく新城駅に戻る。以下はその折の写真。
新城駅ではちょうど、折り返して豊橋行になる列車があったのでそれに乗り込む。
15時11分の発車までの時間を待っていると、急に車内の灯りが消える。へ~、JRも発車までの時間、節電のために消灯するのだと思っていたら、どうも様子がおかしい。
消えた電灯が瞬くように点滅したかと思うとまた消えてしまう。しばしその繰り返し。
発車時間はどんどん迫る。
一体どうなっているのかと思ったら車掌のアナウンスが。
「ただいま、当列車の電気系統が異常をきたし停電をいたしております。原因究明と修復の間しばらくお待ちください」
二両編成の列車のことで、スタッフの動きがよく分かるのだが、運転手や車掌が慌ただしく行き交い、話し合い、電話をかけたりしている。
しかし、症状は続く。私のプリンターなら、調子の悪いときはコンセントを抜いて、しばらくしてから接続すれば治るので、それを教えてやろうとしたが、よく考えてみたら、電車のコンセントがどこにあるのかがよくわからない。パンタグラフだろうか。
発車時間はとっくに過ぎたが、事態は回復しない。
そのうちに次のようなアナウンスが。
「たいへん申し訳ありませんが、この列車の電気系統不全が回復いたしませんので、運休とさせていただきます。列車からお降りいただいて、次に参ります列車にお乗り下さい」
戦中戦後の時期、物資不足や粗悪部品の損傷などのせいで、列車の運行中止などはしばしばあったが、そしてまた、戦時中の空襲警報や現在の気象条件、事故などによるものなど外的要因のものはあるとしても、こうした列車そのものの内的要因による運行中止はいまどき珍しいのではないだろうか。
でも考えてみると、まだ発車前でよかったのかもしれない。これが駅ではなく途中で停車して動けなくなったら、単線運転のこと、上下線ともすべて運転中止となり、山の中の線路上にぽつんと取り残され、この日のうちに帰宅できなかったかもしれない。
以下は、運転不能になった列車の写真。列車の前方では、私たちが反対側のホームに移ってからも、運転手と車掌の会話が続いていた。
これは帰宅してから知ったのだが、東名高速で空中ジャンプをした乗用車が、対向車線のバスに突っ込むという信じられないような事故があったとのこと。この場所がというと、やはり新城市の郊外だそうだ。時間は朝の7時半。ということは私たちが岐阜駅から列車に乗り込んだ時間だ。
この日の新城界隈の乗り物は、ご難が重なったことになる。
もっとも、私たちの被害は30分ほどの日程遅延と極めて軽微で、楽しいはずの桜ん坊狩りの旅が修羅場と化した人たちの被害とは比すべくもないのだが・・・・。
【帰宅してから】この日の歩行数は約12,000歩。この歳になってこれだけ歩くと、もう歩かなくてもいいと気を抜いた途端に両足に痙攣が。この夜半になってやっと収まった。
旅も、そう大事にならない予期せぬ出来事はいい思い出になることがありますね。
「新城市」に引きつけられた理由は、若いころ、あるスク-リングのために上京した際、知り合いになった人が、新城市の人だったというだけですが、後に少し文通などしたことがありました。
彼女は、自分の家の庭先でバイオリンを弾いている格好をした写真を送ってくれましたが、市のオ-ケストラに所属しているとありました。
それ以上のことは忘れてしまいましたが「新城市」から懐かしい思い出が蘇えりました。
街道筋といった感じで、大企業などの進出も比較的少なく、それだけこじんまりとした落ち着いた街です。
また周辺の緑と調和した街並みでした。
ちょっと歩いtだけでは、ヴァイオリンを弾く人というイメージはありませんが、市庁舎を中心に文京施設などが落ち着いた佇まいを見せていて、その一角に市民オーケストラの活動拠点があるのかもしれません。
花てぼさんのお知り合いが、いまもオケのなかで頑張っていらっしゃるといいですね。
テレビでこの模様を見て、六文銭さんの記事をあらためて理解しました。