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「満州」という記号 「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」を観る

2017-06-25 01:10:18 | 日記
 名古屋市美術館で開催していた「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」を、終了間際にやっと観ることができた。

             

 満州は、子供の頃からある種の興味の対象であった。就学前にみた絵本などではまさに「異郷」の地として描かれていたし、何よりも、ほかならぬ私の父が敗戦一年前から一兵卒としてその地に従軍していたからである。敗戦時はハルビン郊外に蛸壺を掘って、小銃一丁でソ連軍の戦車部隊と対峙するという絶体絶命の窮地に立たされたが、あわやとと思われた瞬間、日本の敗戦が確定し、かろうじて一命は助かった。
 
 もっとも命拾いはしたものの、そのままシベリアへ連行され、強制労働に従事させられ、帰国したのは三年ほど経ってからだった。
 生前それら話をよくしてたし、また「ハルビンはとてもモダンできれいな街だった」とも聞いていた。

 さて個人的な思い入れはこれぐらいにして、写真展に戻ろう。
 正直いうと、期待値とややずれていた。ハルビンや大連などの往年の「モダニズム」の側面がもっと前面に出ると思っていたからだ。しかし、むしろ、満蒙の土着的な写真が多かったように思う。その意味ではタイトルの前半、「異郷」にウエイトが置かれていたのかもしれない。あるいは「モダニズム」は対象のそれではなく、それを表現した側の視点、つまり写真家たちの対応を指すのかもしれない。

          
 
 それはともかく、写真そのものとしてはとても面白かった。前半の櫻井一郎の写真は隅々までとてもクリアーで、フィルム写真のギリギリの限界まで表現していて、高い技術性とアングルや構図などにも配慮が行き届いた優れた写真群だと唸るほどのものだった。
 
 その後の「絵画主義」のコーナーはまさにその通り、クリアーさでは櫻井一郎のものに一歩も二歩も譲るものの、その対象の切り取り方、画面にみなぎる空気感は、バルビゾン派の絵画を思わせるものがあった。「種まき」や「落穂ひろい」など共通の題材が多いところからみても、やはり、バルビゾン派そのものをかなり意識していたのではないかと思わせるフシもある。
 
 最初に書いた「期待値とのズレ」は、「モダン」な側面や「戦争」の側面がやや少なかったことなのだが、それらをさておいても、二〇世紀初頭から中葉にかけて、日本や亡命ロシア人との関連など、独自の空間を形づくっていた満蒙の地のとても貴重な映像をまとめて観ることができたのは僥倖というべきだろう。

             

 ただし、くどいようだが、私ぐらいの年令になると、満州、ないしは満蒙の地は戦争と切り離しては考えることはできない。傀儡満州国の設立が日本の国連脱退の誘因となり、さらにはそれが真珠湾攻撃につながってゆくのは歴史の示すところだが、それらと並行した事業が満蒙開拓団の募集と送り込みで、1930年代はじめから敗戦(45年)までの間に、おおよそ32万人が満蒙の地に送り込まれた。

 送り込まれた人びとは、日本では生活がままならないような人びとが多く、このあたりでは、長野県や岐阜県からが多かったという。岐阜公園の一隅には「満蒙開拓団慰霊の碑」が建っている。
 新天地に希望を求めて出かけた人たちだったが、敗戦によるその末路は悲惨を極めた。彼らを守護するはずの関東軍(中国の関東州を中心に配備された日本軍)は、その幹部たちがサッサと逃げ帰り、残された人たちは一切の財産を奪われ、略奪や陵辱に見舞われ、多くの死者を出すなか、かろうじて引き上げることができた人たちは僥倖ともいわれた。*

 *このくだりは、日方ヒロコさんの自伝的小説、『やどり木』(れんが書房新社 2014年)に詳しい。

 もちろん、これらの事実をもって、被害者としての面を強調するのは片手落ちだろう。それに先行して、日本の一方的な侵略行為があったことは事実だからだ。

          

 写真展から大きくはずれたようだが、こうした歴史的背景を下敷きにその写真たちを見ると、当然、その意味合いが変わって見えてくる。写真を単に美術作品として見る場合、それらは邪道といわれそうだが、もとより写真が「真を写す」という記録性、時代に即した撮し手の主観がその背景にあるという時代性、さらには何らかの主張を支えるプロパガンダ性をもつとしたら、その表現がもつ多重性に即したさまざまな見方があってもいいのだと思う。
 私にとっては、とりわけ「満州」という地名がもつ重みがある限り、それらの写真がもつ記号としての多重性や錯綜を捨象して、ナイーヴに観ることはできなかったのである。

 満州については、ほかにも語りたいことがさまざまにある。
 若い友人から聞いたその叔父上の悲劇、その晩年に友人となった故・トーマスさんの少年時代の思い出、などなど・・・・。
 それらが、一挙に押し寄せるような写真展であった。

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2 コメント

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おばちゃんの満州 (くろあしまる)
2017-06-27 00:30:54
 昭和時代に亡くなった近所に住むおばちゃんは満州開拓団の引揚者でした。
 命のやり取りをしていた軍人と違って、満州開拓団での生活や大変だった戦後の引き上げの思い出などを明るく話してくれました。
 現地の中国人に厳しくしていた人は日本の敗戦が判明すると、中国人に殺されたそうです。そのおばちゃんは近隣の中国人と仲良くしていたので、友達になった中国人に危ないところをかくまってもらって生き延びたそうです。かくまってくれた中国人も命がけだったことでしょう。

私の出身の村は高知県十川村(現在は四万十町)、350人くらいが満州に王道楽土を築くべく「万山十川開拓団」として大陸へ渡り、140人くらいが戦後命を持って村に帰ってきました。
四国の山間はいずれもさほど豊かな暮らしではなく、隣接する村々も同じような生活をしていました。しかし、満州へ開拓団を組織して行ったのは十川村だけでした。貧乏な生活をしていても、ほとんど情報もない、親戚知人もいない海を越えた大陸にまで行こうと考える人間は誰もいませんでした、にもかかわらずです。
最近NHKが長野県のある村の満蒙開拓団に関する資料を探して陸軍、農林省、内務省などが自分たちの組織の利害から、満州開拓と村内の農業インフラに関する補助金を抱き合わせて村長や村議会に働きかけを猛烈に行っていたことが分かる取材をして、番組を制作して放送していました。
十川村も補助金欲しさに村のリーダーである村長が村民を説得して満州へ送り込んだと思われます。そのことは「十和村誌」(十川村は東隣の昭和村と昭和30年代初期に合併して十和村になりました)には一言も書かれていませんが、忘れてはならない事実だと思います。おかげで、山間部の水田に給水する古い水路がやたらと整備されている理由が少し判明しました。

私の母親にその満州から引き揚げてきたおばちゃんのことを聞くと、「生きちょるうちに満州のことを聞いていたら、いっぱい話して呉れたろうにねぇ。あの人は話し好きじゃったから。」、と言っていました。

六文銭さんのブログに載った満州の写真を眺めながら生まれる前の戦争、大陸と時代を考えてみました。
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希望と絶望 (六文銭)
2017-06-27 01:22:06
>くろあしまる様
 詳しい補充ありがとうございました。
 インフラ整備を条件に国策を推進する、またそれに応える首長がいるというのは、例えば原発の誘致にも使われた手法ですね。
 しかし、それで満州へ渡った人たちは国家ぐるみの宣伝もあって、希望に燃えていたはずです。努力して開墾すれば、自分の土地になるというのは、戦前の小作農にとっては夢のような希望だったと思います。
 敗戦がそれを絶望の淵に追いやるわけですが、考えてみれば他民族がすでにいる土地へ行って、そこを自分のものにできるというプロジェクトそのものが無理をはらんでいたのだろうと思います。
 私の友人の叔父は、満州の虎林で警官をしていたのですが、その職業柄、敗戦後に自分たちが被る運命を察知し、妻子と自分を拳銃の標的にしたという悲劇があります。
 日本人が海外へ移住するという歴史は、ブラジルを始め、ハワイ、コロンビアなどいろいろがありますが、満蒙開拓団ほど悲劇に終わったところはないと思います。
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