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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

結局は「生きてるうちが花」なんだろうか?

2016-03-05 15:00:34 | ひとを弔う
  必要があって25年ほど前に編まれた全集を読んでいる。
 全集といっても一人の書き手のものではなく、複数の書き手からなるアンソロジーのようなものだ。それらが何冊も続く。
 
 懐かしい書き手、ここしばらくお目にかかれない書き手、その当時も今もあまり良く知らない書き手が出てきたりする。
 そんな場合、この人は今どうしているだろう、この人は一体どんな人だろうと検索してみる。

           

 今なお健在な人を見出すとホッとするが、鬼籍に入っている人の場合など、だから最近見かけないんだと寂しい思いにとらわれる。それが、当時すでに大御所だった人の場合は多少は落ち着くのだが、中には私とぼぼ同時代で、その時代の空気をともに吸ってきた人もいたりする。
 そればかりか、私よりも若い人たちで、すでに向こうへ行ってしまった人たちもいる。

 そうした若い人の一人が、死について語っていたりする。当時は50歳になっていない人だから、「私もいずれ死を迎えるのだろうが」などという一節が入ってはいても、決してそれを実感として感じてはいなくて、その文章での「死」も対象化されたものでしかない。もっとも、誰も死を死んだことなどないのだからやむを得ないのだろうが。

 彼は実際に自分が死に臨んだ際、かつて、自分がそれについて書いた文章を思い出したろうか。あちこちへいろいろ書いていた人だから、とくにそれを思い出したりはしなかったろう。
 そしてそれでいいのだろうと思う。できれば、自分の人生で楽しかったことどもなどを思い浮かべながら、唇に微笑みを浮かべて亡くなってほしいものだ。

           

 こんなことを書いていると、私自身の死後、あいつは「死」についてこんなことを書いていたがといわれそうだ。良き思い出を抱いて、あるいは少し譲って、成就しなかった恋についてのビターな思い出でもいいから、それらを抱いて笑みを浮かべながらなどというならば、私の単なる夢想、ないしは願望といわれそうだ。

 罪深い生を送ってきた私には、七転八倒の苦痛以外の何ものでもない死がふさわしいのかもしれない。でも、その際でも、自分の生に対して後悔やルサンチマンは覚えたくないし、そのように生きてゆきたいものだ。
 ま、これも含めて「死を死んだことがない者」の単なる妄想とも思われるのは間違いないところだろう。

           
 
 こんなことを考えていると、自分の死の間際が実際にはどうであるのかいくぶん楽しみになってきた。ただしこれすら、自分の死を、少し離れた場所で見続ける自分を必要とするので、そんなものは本当の死とはいわないのだろう。

 「人間はすべて死ぬ。しかし、死ぬために生まれてくるのではない」といって、人の生誕が常に世界への新たなものの贈与であることを語ったのはハンナ・アーレントであった。
 それに対し、その師、ハイデガーは、死を先取りすることに依拠して人間の生を(というより「存在」というものを)考えた。

              

 自分の死を例示しながらも、決してそれを実感していなかったあの若きアンソロジーの書き手にしても、そしてこれを書いているこの私にしても、決して死そのものを実感しながら死ぬことはできない。
 単純な事実だが、死はそうした実感の主体そのものを消去する作用だからだ。

 こうして死のまわりを徘徊しながら、私のような凡人は、「生きてるうちが花なのよ」と通俗的な趣味の世界に走ることとなる。

              

 今宵はこれからコンサートへ。
 「大阪フィル 第39回岐阜定期演奏会」で、指揮者も女性(三ツ橋敬子さん)ピアノとオルガンのソリストもそれぞれ女性(菊池洋子さん 徳岡めぐみさん)という顔合わせ。
 メインはラヴェルのピアノ協奏曲とサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」。
 楽しみだ。



コメント (2)
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