六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

師走、柾(マサキ)に三度目の華やぎを見ている

2015-12-10 11:25:02 | よしなしごと
                
  私の二階の部屋の正面の柾(まさき)の実が、ここのところの朝夕の冷え込みで赤く色づき、冬の陽射しに輝いている。
 生け垣などに使われる比較的地味な樹木で、庭園などでは脇役に回ることが多いのだが、わが家では一本のみのそれを伸びるに任せているので5mほどの高さになっている。だから、二階の窓の正面に位置するのだ。

 そんなわけでそれほど目立ったところはないのだが、それでも一年に三回ほどの華やぎを見せる。

                        
 一度は春先の新葉が出る頃だ。といっても、この木は完全に落葉しないので、古い葉と入れ替わるように新しい葉をつける。このように一見、常緑樹であるかのようだから生け垣などに用いられることが多いのだろう。なお、この新葉はややメタル風のつややかさが特色だ。
 写真は4月10日に撮影したものだ。

            
 二度目の華やぎは、6月から7月にかけてだ。薄緑の小粒な花をつける。うっかりしていると、見過ごすような花だが、よく咲く年にはぱっと木の色が明るくなるような気がする。
 書見に疲れて、ふと目を上げてこの花を見るのが好きだ。
 写真は6月19日のものだ。

            
 そして三度目の華やぎが今の時期の赤い実をつける頃だ。実はその前から緑のかわいい実をつけているのだが、これはほとんど目立たない。赤くなって、「オウ」と、やっと気づいて貰えそうな感じである。

            
         お、カメムシの仲間が。これはこの木に悪さはしないのかな?
 
 この実がつく頃のもう一つの楽しみは、これを目当てに野鳥たちがやって来ることだ、といっても、キジバトやムクドリ、ヒヨドリぐらいなのだが。
 田園と市街地がせめぎあうような郊外だが、やはり市街化が優勢で、休耕田の増加や、確かにこの辺にあったという木立がなくなっていたりで、座して見ることができる野鳥はどんどん減ってきた。

               
 こちらの行動半径も狭まったいま、周辺の限られた自然の移ろいを見続けることしかできないのもやや寂しい。
 今年は、近くの鎮守様の境内でモミジやイチョウを観たのみで、まとまった紅葉を目にすることなく暮れようとしている。









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お墓って? 安らかに眠る場所?

2015-12-08 00:53:52 | よしなしごと
 運動不足解消のため、いつもは車で行くちょっと離れたスーパーへ自転車でゆく。
 K高校の傍らを過ぎると、岐阜南部ではおそらく一番大きな墓地がある。
 私の家の墓所とは関わりないのだが、この辺りで小、中、高と育ったので、ここにもすでに同級生や知り合いが数人入っていると聞いたことがある。いちいちそれを確認して歩くほどの暇もないので、自転車を降りて少しだけ散策する。

          

 実はもう一つ目論見があって、数年前、ここをゆっくり訪れた時、明らかに戦死をした兵士の軍服姿の立像を模した墓標があったのをいま一度確認したかったのだ。
 かつて、海津市の今尾地区で、あまり大きくはない墓地だが、ほとんどそうした軍服姿の立像で占められているのに遭遇し、その異様さにいささかたじろいだのであった。
 ここには一体しかなかったと思うし、その位置もだいたい覚えていたのだが、今回はそれらしいものが見当たらなかった。
 墓だから当然他の家族も入るわけで、そうした都合もあって、普通の方形の御影石のものに変えてしまったのかもしれない。

          

 しばらくその辺をうろついていたが、メインの用件は買い物だったことを思い出し、そこを立ち去った。ウロウロしていると冬の落日は実に早いから、自転車ではおぼつかないのだ。

          

 こうして石の墓石群が墓の基準になったのは近代以降のことである。古代よりの墳墓などもあるが、個人名を残すことはなかったようだ。
 一説によると、生と死を分かつ此岸と彼岸の捉え方が近代以降で大きく変わったというのだ。かつては死者は他界浄土に引き渡されてそれでおしまいで、葬りはするものの強いて痕跡を残すことはしなかったようである。

             

 しかし、他界浄土の信憑性が揺らぐにつれ、死者たちの名を刻んだものを残し、それをいわゆる法要のように期を定めて追悼するという此岸との縁の回想のなかで、初めて死者は浮かばれるとするようになったのだという。いってみれば、人為の自力による行為が、本来、死者の領域である他界浄土にまで侵食したということらしい。

          

 私のようなノーテンキな人間は、死して後も石に刻まれ、この世に繋ぎ止められるのもなんだかしんどい気がする。そんな私のために六親眷属が集まって法要をしてくれるのも、なんだか負担を強いているようで気が重い。
 まあ、その場合、私はすでに亡きものだから、「しんどい」だの「気が重い」などというのも生きているうちのたわごとでしかないのかもしれない。
 それにまあ、生きている者たちの義理が絡んだ思惑や自己満足などによる追悼についても、もはや死んだ身としてはとやかくいうべくもないのだろう。

 おっと、つまらないことをグダグダいってないで買い物、買い物。早く済まさないと明るいうちに帰れないぞ!

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「一億」とは一体誰のことなのだろうか?

2015-12-06 13:38:36 | 歴史を考える
 「一億総活躍社会」というのは、新安保法案を暴力的な強行採決で乗り切った安倍内閣が打ち出した「新三本の矢」を担うイメージらしい。ようするに、国民すべてをいわゆるアベノミクスの第二弾階に動員しようというわけらしいのだ。

 ところで、この一億とは一体誰のことなのだろうか。
 結論的にいうならば、それはあなたであり私であり、そして、あなたでも私でもない。それについて考えてみよう。

 一億という数字はどこから来ているのだろうか。日本人の人口から来ているというのはある程度根拠がある。しかし、長期的にその推移を見てみると、それは大きく変動していて、一億が日本の人口の近似値であった期間はさほど長くはないことがわかる。
 幕末の頃、日本の人口は4,000万人ほどだった。それが文明開化や産業革命により急速に増加したのだが、それでも、日本が対外膨張政策をとり出した1920年代から30年代にかけては6~7,000万人であった。
 その後も人口は増え続けるのだが、私がものごころつき、「一億総◯◯」という言葉を聞いた1940年代中頃でも7,500万人前後である。


         

 この時期、右肩上がりのグラフにピョコっと陥没が見られる。これは1944年から45年で、戦死者、戦災による死者を現している。巨大な力、しかも人為による力が人命をかくもあからさまに奪ったという痕跡だ。
 実際に日本の人口が一億に達したのは1960年代の中頃である。
 以後、増加傾向は21世紀初頭にまで続き、1,300万近くをピークに、今は上昇時とほぼ同じカーブを描いて減少過程に入っている。このグラフを信用するならば、2100年には幕末同様、4,000万人にまで減少することになる。

 これからわかることは、「一億」という数字は日本の人口を忠実に反映したものではないということである。ただし、戦時中の「一億」は動物たちが自分の身体を膨張させて相手を威嚇するような作用を持っていたのかもしれない。戦時中には人口統計そのものが機密事項であったという話を聞いたことがある。

 したがって、「一億総◯◯」は、近似値としての日本人の人口を示すと同時に、「すべからく日本人たる者は・・・・すべし」と呼びかける国民総動員令としての意味をもっている。もちろん、それらは例外事項として、そこには含めないマイノリティをもっていることは言うまでもない。

       

 私が幼少時、軍国幼年であった折に耳にしたのは、「一億総火の玉」、「一億総玉砕」、「一億総特攻」などの言葉であった。
 これらのスローガンのほとんどは、大本営を経由して津々浦々まで浸透していたと思う。日本の敗色が濃厚になり、本土決戦が必至と思われる頃、これらのスローガンはヒステリックな様相を帯びてヒートアップしていった。

 これらは当然「一人一殺」など、死と隣合わせを含意していたが、死というものを知らなかった私は当然のように「一億総火の玉」などと口走っていた。そうすると、周りが「良い子だ」とほめてくれるのだった。
 いま、私がその周りの大人だとしたら、「一億総火の玉で、一人一殺を試みるとしたら、相手の一億と、こちらの一億の大半が死ぬこととなる。こんなにたくさんの人が死んで、どんないいことがあると思う?」と尋ねるかもしれない。

            

 当時、私の周りにも、密かにそう思い、私を「英雄気取りで怪気炎を上げる愚かなガキだ」と思っていたひとがいたかもしれない。しかしそう思ってもそれを口にだすことは許されなかった。そんなことをしたら、彼自身が「非国民」として袋叩きにされるか、下手をすると憲兵隊へ連行され、背後関係を調べると称して半殺しの目に合わねばならなかったからだ。

 ところで余談だが、日本は天皇陛下のご英断によって本土決戦の悲惨を免れ得たと思っているナイーヴな人たちからすっぽり抜け落ちている事実を指摘しなければなるまい。
 ここでは、紛れもなく当時も日本の「本土」の一部であった沖縄での地上戦が無視されているのだ。1945年の3月から6月まで、あの小さな島で、圧倒的に軍事力において優勢な米軍相手に、沖縄は3ヶ月にわたって戦ったのだ。そしてその死者は日本側のみで20万人、その半数の10万人近くが民間人だったのだ。

           
  
 これをして、「本土決戦は免れた」と平然という者たちが今なお琉球処分ともいうべき沖縄への基地偏重を当然視し、辺野古の基地建設を「平和のために」(・・・誰にとって?)必要として容認しているのだ。その先頭に、日本政府がいる。

 「一億◯◯」についてもっと具体的に検討しようと思ったが、その前段のみでけっこう長くなった。続きはあらためてとうことにしよう。
 以後、「一億」は多様な使われ方をしてきたので、それを順次みてゆきたい。

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ナンキンハゼの紅葉と借りてきた本たち

2015-12-02 11:19:24 | よしなしごと
 私の読書の力強い味方、岐阜県立図書館が図書の整理のため11月30日から12月10日まで休館だという。これは大変とばかり、11月29日にでかけた。
 休みの間はもちろん利用できないが、いい点もある。通常3週間の貸し出しが、休館期間も加算され、ほぼ30日間になることだ。

           

 返すものは返し、新しく4冊を借りた。
 30日間にしては少ないとお思いだろうが、うちには自分で買ったもの、贈呈本などもあってほかにも読むべきものが山積しているのだ。

 本を借りてから、ここ十数年ご贔屓にしている、図書館と道一本向こうのナンキンハゼの木のウオッチングに。普通、ナンキンハゼは暗紅色に紅葉し、やや重い感じがするのだが、この木は明るい色彩であでやかに紅葉する。
 今年もそうだったが、来るのが一週間ほど遅かった。ほとんど散ってしまっていたが、残った葉はやはり美しい。日が傾きだした条件のなか、なんとか携帯のカメラに収めた。

           

 借りてきた本は以下のようだが、それから3日。ある程度読み進んだ。私の癖で、一冊の本に集中できない。同時並行的に読み進める。それも加味して、以下に借りた本の紹介を。

              

■「権力の空間/空間の権力 個人と国家の間を設計せよ」
              山本理顕 (講談社新書メチエ)

 この本は建築学の棚にあった。普通なら、絶対に私が見にゆかない棚である。それが、アーレント関連の文献を検索している時に引っかかってきたので、野次馬根性よろしく覗きに行ったという次第。
 目次などを見て驚いた。アーレント思想の空間化といっていい書だ。少し読み進んだが、すでにして眼から鱗の記述もある。思想・哲学のコーナーに置いても決して不思議ではない書。
 著者は、横須賀美術館(2007年)、福生市庁舎(2008年)、天津図書館(2012年)など数々の設計を手がけた建築家。

              

■「待ち望む力 ブロッホ、スピノザ、ヴェイユ、アーレント、マルクスが語る希望」
              的場昭弘  (晶文社)
 
 この著者のものは雑誌の論文などしか読んでいない。「待ち望む力」とは希望のことで並んでいる固有名詞が魅力的。この5人は全てユダヤ系の人たち。彼らや彼女たちがどのようにその希望を描いたのかに興味がある。併せて、この現代の暗い時代に私達はどんな希望をもつことができるのかということだ。
 これも第2章まで読み進んだが、とても読みやすいが、反面、高校生のころに読んだ唯物論の啓蒙書のようでやや物足りない。後半面白くなることを期待して読み進めよう。

              

■「藤田嗣治とは誰か 手紙と作品から読み解く、美の闘争史」 
              矢内みどり  (求龍堂 これは初めての出版社)
 
 今秋、岐阜県美術館で「小さな藤田展」を観て、その後『戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々』(平山周吉 芸術新聞社)を読み、さらに、小栗康平監督、オダギリ・ジョー主演の映画『FOUJITA 』を観た流れで借りてきた。
 著者は、30年間美術館の学芸員を経験した美術評論家。この書は、新たな書簡や資料を元に藤田の今まで知られなかった側面に触れるという。読むのが楽しみだ。

              

■雑誌「思想」2015年 7月号 特集は「戦後」の超克  岩波書店

 戦後はまさに私がともに生きてきた時代。それがはらんできた問題とは何なのか。
 安倍総理が「戦後レジームの解体」を声高に語るなか、それとはベクトルを異にする現状脱却の道とは何であるのか、いろいろ考えてみたい。
 日本の思想家のみならず、キム・チョル、ユン・ヘドンなど韓国の論者からみた論考もあるようで、少し幅を広げた戦後論が期待できるかもしれない。

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