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かわいい男たち『厨房男子』 今年最後の映画

2015-12-28 16:22:25 | 映画評論
 今年最後の映画は、畏友、高野史枝さんの初メガホンになるドキュメンタリー、『厨房男子』を観ることととなった。
 かくいう私も厨房男子の端くれ、これを見逃す手はない。
 ましてや作り手の高野さんとは、かつて、某雑誌で丁々発止とやり合った仲とあっては、なおさらである。

             

 様々な厨房男子が登場する。必要に迫られたひと、趣味の領域のひと、それが高じてプロにまで至ったひと、これだけは引けをとらないと自負するひと、そして、リタイア後に集団で素材から調理からその販売までをやってのけるひとたち。

 「男子厨房に入るべからず」といわれたのは古~い昔のことであるが、それ以後、男子が厨房に入る時代になっても、どことなく、女性の領域を手伝う、ないしは補うという意味合いがあったような気がする。しかし、この映画に出てくる大半の人たちはそうではない。
 最後のほうで集団での調理を行うメンバーが、「調理をすることは自立をすることだ」といった意味のことを語るシーンが印象に残った。

               

 この自立は、つれ合いに先立たれたリ、離婚をした際に必要な技量という意味合いも含むとはいえ、それにとどまらず、それらを超えたものであると思う。
 というのは、料理というのは一定の時間をさいて作業をするということ以上に、ある能力を必要とするということなのだ。その能力とは、いってみでばある種の構想力のようなもので、どんな単純な料理でも、その素材を取り揃え(何をどこでどれほど入手するか)、その調理の手順(どんな調理器具を使い、焼くのか、湯がくのか、煮るのか、揚げるのか、そして味付けには何をどれだけ用いるのか)を考え、最後に盛りつける器(もちろん盛り付け方も)を選んだりする一連の思考作業が必要で、それに付随して肉体を行使しなければならない。さらにいうなら、たいていの調理は刃物や火を用いるから、安全も考えねばならない。

               

 こうしてみると、調理というのはその設計から資材の取り揃え、作業から仕上げと、建築にも似た総合作業といえる。また、この映画にもあるように、有機栽培の素材や自然そのものの採取などを考え合わせると、外部との社会的な広がりをももつ営みともいえる。
 こうした作業であればこそ、自分に役立つ自立にとどまらず、行為する主体としての自立=自律にも繋がるように思うのだ。

               

 もちろん、調理の到達点は食にある。豊かな調理、自分自身が行った調理は結果としても豊かな食を生み出す。ましてやそれが、自分のみならず家族や仲間の胃袋を満たし、笑顔を生み出すとしたら、厨房男子の生きがいこれに過ぎたるはない。

 この映画は、それらの過程を、出演者のそれぞれのシチュエーションに合わせて、展開してゆくのだが、そこに登場する男子の表情が素晴らしくいい。実は、旧知の人も2、3登場するのだが、彼らがおやっと思うほど安らいだ表情で調理をするさまは実に新鮮であった。

               

 映画好きの高野さんがついに一線を越えて自分で作ってしまった映画だが、そのキャッチコピー通りに、おいしく、面白いものに仕上がっている。「おかわり」ならぬ次回作も期待したい。

 なお、この映画は年明けの16日まで、名演小劇場で上映される。







 
コメント (2)
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