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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

股間をパシッ! わが銭湯物語

2012-02-08 17:19:58 | 想い出を掘り起こす
    写真は本文には関係ありません。雪の稲沢操車場です。

 戦中戦後、疎開先での風呂は母屋でのもらい風呂で、しかもその母屋が大家族ときて、母や私が入るのは十人以上が入った最後であった。
 20Wの裸電球しかない五右衛門風呂であったが、私たちの入る頃にはすでに湯は汚れきっていて、どろどろした感さえあった。農作業を終えた人たちの後だから致し方なく、それでも入れるだけましだった。
 
 父がシベリアから復員し、何やかやあって岐阜へ戻れたのは昭和25年(1950年)であった。嬉しかったのは、借家ではあったが風呂付きであったことだ。
 40W程の明るい電球のもと(蛍光灯というものはまだなかった)、きれいな湯に入ることができた。

 しかしである、内湯がありながらも毎日風呂を沸かすことはなかった。水道代、ガス代などからしてそれは贅沢極まりないことだったのだ。風呂を沸かす日は週にニ、三回だったと思う。
 しかし、私はそのころ小学校の高学年で、育ち盛りの遊び盛りとあってよく汗をかき、またどろんこになって帰ったりした。
 そんな時は「風呂屋へ行っといで」という母の言葉を背に小銭をもらって銭湯へ出かけた。

        

 うちの風呂も良かったが、銭湯もまた楽しかった。
 広々としていて、当時の木桶がタイルに当たる音かカラカラ~ンとこだまして独特の雰囲気を醸しだしていた。
 
 「とおちゃん、石鹸投げるよっ」と女湯から声がかかり、「よっしゃ」と亭主が答えると白い塊が(その頃は白しかなかった)境の壁越しに飛んで来るのだが、無事キャッチということはほとんどなく、タイルの上を滑る石鹸を亭主が追いかけたりする姿が面白かった。
 石鹸も貴重品だったから、庶民の家では一家にひとつだったのだ。

 風呂からあがると、たしか一本5円だった「みかん水」を飲むのが楽しみだった。これは今では見かけることはないが、駄菓子屋などでも売っていて、当時の清涼飲料水の代表格であったサイダーやラムネより安かったせいで私たち子供がよく飲んだ。

 みかん水を味わいながら脱衣場にいると、よく見かける初老のおっさんが上がってきて、その人に視線が吸い寄せられるのだった。
 というのは、その人の湯上り後の仕草が実に粋で絵になっていたからだ。
 まず体中を手拭いでくまなく拭き上げる。
 当時、銭湯へ持参するのは手拭いであった。
 タオルや、バスタオルなどという派手なものが登場するのはもっと後のことだ。

       

 さて、そのおっさんだが、からだを拭き上げると必ず行う儀式があった。
 それがこの文章のタイトルにした「股間をパシッ!」である。
 絞り上げた手拭いで最後の仕上げとして股間を打つのである。
 そのパシッという音の響きが素晴らしく惚れぼれとするほどであった。

 おっさんはそれを終えるとダボシャツにステテコ(通販で売っている今様のカラーのものではなく純白のもの)、それに腹巻というスタイルでさっそうとのれんを肩で分けて出てゆくのであった。
 とにかく、かっこ良かった。

 あるとき、私も真似をしてみた。
 からだを拭き上げてから手拭いを振りかざし、エイッとばかりに股間に打ち下ろした。
 トンガラシのようなオチンチンを刺激するには充分な効果はあったが、とてもパシッと言う渇いた音は出なかった。
 バサッ、あるいはズタッという音にもならない情けない音が申し訳程度にするのみだった。

 実に多くのの銭湯が消えてゆくなか、その銭湯はいろいろ趣向を凝らして今も残っている。そして時折私はその前を通りかかる。
 その都度、みかん水を飲みながら眺めていた「股間をパシッ!」を思い出すのである。60年前に目を丸くしてそれを眺めていたあの可憐な少年はどこへ行ったのだろうといぶかしく思いながら・・・。

 

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ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか(私の勉学ノートから)

2012-02-06 15:55:45 | よしなしごと
 1975年に野坂昭如がサントリーゴールドのコマーシャルソングで歌った「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか」という歌があります。
 
   ソ,ソ,ソクラテスかプラトンか
   ニ,ニ,ニーチェかサルトルか
   みーんな悩んで大きくなった.
   (大きいわ 大物よ)
   俺もお前も大物だ!
   (そおよ大物よー)


 残念ながら以下はその歌とは関係がありませんが、まあ読んでみてください。

         
           ソクラテス?            プラトン?
 
 ソクラテスはポリスのなかでとりわけ「真理」などというものを主張したわけではありませんでした。ただし、人々がそれを述べる意見(ドクサorオピニオン)に自分の疑問をつきつけ、その誤りを正すとともに人々が独断や偏見におちいらず、ただしく思考するよう促しました。

 ソクラテスはそうした自分の方法を、「虻(あぶ)」や「助産人」に例えました。人々の間をうるさく飛び回って、人々の思考を促す手助けをするという意味です。その意味でソクラテスは、「真理」を教えたりするのではなく、人々の意見をまずは尊重するという姿勢を生涯崩しませんでした。

 しかし、そんなソクラテスが、ポリスの生活に何の有用性をもたらさないばかりかそれを乱す有害なものであるとして告発をされることとなりました。彼があれほど大切にしたポリスの市民たちの意見によりソクラテスは有罪と断定され、毒をあおって死に至ったのです。

 それをつぶさに目撃し、記録(『ソクラテスの弁明』)した弟子のプラトンは、そこに二つの教訓を見い出しました。
 そのひとつは、ソクラテスを死に追いやった複数の意見の不当さに対する激しい憎悪でした。
 そしてもうひとつは、それら市民の意見をあくまでも自分の意見と同等に扱い、それに対して「弁明」という言論で応じたソクラテス自身の限界への批判でした。

 そこからプラトンは次のような結論を導きます。
 市民の複数の意見は無知や偏見に満ちており、それらに依拠することはできないということ、したがってそれらには、哲学者による絶対的な「真理」(彼の場合はイデア)を対置し、その「真理」を有する哲学者による支配(哲人政治)をこそ実現すべきであるということです。

 そうした考えのもとにプラトンは『国家』などの著作を著すとともに、シチリア島のシュラクサイで哲人政治の実験となる新しい国家運営を試みますが、それは不首尾に終わったようです。

 ここに後世の政治哲学に及ぼす大きな分岐点があります。
 プラトンの「正義や真理に基づく政治」は、その後も実験的に試みられ、前世紀には地球上の何分の一かでそれを語る体制が実現したりしました。前提の「真理」の当否はともかく、ナチズムもまたそうした体制のひとつであったともいえます。

 一方、ソクラテスの真理や正義を前提とするのではなく、「複数の意見の交流」のなかで、もっぱら言論やパフォーマンスによって自分たちの未来を見出してゆく政治は、古代ギリシャのポリスにかすかな痕跡を留めるのみで、未だ実現されてはいません。
 人々が複数であることとその言論に依拠した政治は、その前提条件として成員である市民たちが経済的条件などにおいて自由な存在でなければならないからで、そうでなければお互いに自由な意見を述べ合うことは不可能だからです。

 さて、以上、ソクラテスとプラトンの対比をいくぶん単純化して述べてきましたが、あくまでもこれは政治哲学的な場面に限定したもので、これでもってプラトンの哲学そのものを否定したり卑しめたりするものでは決してありません。
 なんといってもプラトンは、現象とそれをもたらすイデアという分離、発見によって、以後延々と続く西洋形而上学、西洋哲学の産みの父ともいえるのですから。

 以上は、ハンナ・アーレントの『政治の約束』のうち、「ソクラテス」の項の読解のためにとった私のノートに依ります。

<おまけ> お口直しに冒頭で述べた野坂昭如の歌をどうぞ。
   http://www.youtube.com/watch?v=uopVGKgd3n8
   (最後の「トンガラシ」のところまで聴いてください)






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生きる! チェーホフ『三人姉妹』を観る

2012-02-05 01:15:00 | 催しへのお誘い
        
 
 久々に芝居を観た。A・チェーホフの『三人姉妹』である。
 学生時代の先輩がプロヂューサーをつとめたもので、私たち同世代が10人ほど集まっての観劇となった。

 チェーホフの芝居といえば、戦前戦後を通じての「新劇」のデフォルトの演題であった。崩壊しつつある帝政ロシアでの貴族階級を中心とした不安は格好の素材であったし、その後に来たるべき新しい社会を予感させるという意味でもそれらの不安はやがてポジティヴなものの到来を予感させるものとも受け止められていた。

 しかし、今や私たちは帝政ロシアの崩壊後にきたもの、戦中戦後すぐにはよく解らなかったそれらの全貌、そしてそれらの崩壊をも既にして知ってしまっている。したがって、チェーホフの描いた不安の延長上に来たるべきものを安易に語ることはもはやできない。

 むしろ、私たちはチェーホフが描き出した不安そのものへ、そこでの登場人物が抱くアイデンティティの危機そのものへと今一度連れ戻されることとなる。
 幕開き早々に語られる三姉妹のこぞっての希望は、地方の町からモスクワへと帰ること、そしてそこで肯定されてあったものへと回帰することであった。

 しかし、その果たされぬ夢を抱きながらも愛し愛され、あるいはその錯綜とした関係に翻弄されながら時は進むだろう。そしてそこではもはやモスクワへの帰還は共通の夢としての役割を果たさないものへと変貌してゆくだろう。

 「ヴ・ナロッド(民衆の中へ)」や労働への志向、どうしようもなくのしかかる現状や不意に訪れる別れなど、三姉妹はそれぞれ新たな選択肢を生きなければならない。

 ラストシーン、軍楽隊の演奏をバックに「あれを聞いていると分かる気がする。なんのために私たちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか」というセリフが心身を共鳴させるように搾り出される。そして「でも、私たちは生きてゆくのだわ」という肯定の言葉が語られる。

 そこにはもはや、モスクワという「中心」から切り離されてあるというルサンチマンはない。むしろその運命を「ウイ」といって引き受けてゆく決意すら見出すことができる。

 最後に、すべての人物が去ったあと、舞台には赤子が眠ると思われる白い乳母車が残される。そこにはあたかも、新しく生まれいづるものへと託されるもの、期待や希望のようなものが集約されているように思った。
 プロヂューサーに確認したところ、そうした演出意図はないということだったが、私は勝手にそう決め込んで舞台中央の白い乳母車をくっきりと視覚にもそして頭脳にも刻みこんでこの芝居を見終えたのであった。

 帝政ロシアの末期という時代や場所を超えて、チェーホフの持つ普遍性を改めて知った舞台であった。顧みれば、この不透明な時代への不安、そしてそこでのアイディンティティ・クライシスは現に私たちが直面している問題でもあるのだ。
 私たちは、それでも彼女ら三姉妹のように、顔を上げて「ウイ」といいうるだろうか。


 2月5、7、8、9、10、11日(6日は休演)
   5、11日は13時30分開演 7、8、9日は18時30分開演
   10日は13時30分 18時30分の二回公演
   それぞれ開演15分前に入場するとおまけの催しがあります。
 愛知県芸術劇場小ホール
 上演台本・演出 鐘下辰男

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ひとが分断されてあること 映画『灼熱の魂』を観て

2012-02-03 01:50:45 | 映画評論
 オイデプスの悲劇は、神託に抗う人たちがそれにも関わらずどうしようもなくそのうちへと転落してゆく悲劇であった。
 しかしこの映画が描く悲劇は、一見、宿命とも見えながら、その実、人為による宗教、民族、党派といった恣意的な分断によってもたらされたものである。

             

 母の死と謎めいた遺言、「父と兄を探せ」に従い双生児の姉と弟は母の軌跡をなぞる。そのなかで次第に明らかになり、やがて衝撃的な事実となって私たちの前にもたらされるものをどのように日常の言葉で語ったらいいのであろう。

 映画の前半、まるで前振りのように数学の話が出てくる。しかし、後半にいたって弟が見出す解は1+1=1というあってはならない等式なのであった。

 母の遺言のなかに執拗に出てくる「いっしょにいること」は希望であり悔悟でもある。なぜなら「いっしょにいられなかったこと」、そしてその後の人々の分断の歴史のなかで1+1=1という悪魔の等式が実現してしまったからだ。

              

 強いられた分断とその恣意的にして暴力的な再結合はもはや何ものにも代えがたい恐怖と苦悩としてその母の命を縮めるだろう。それは神託として予め予言されたいたものとも異なり、分断という現実がもたらしたまさに青天の霹靂としての悲劇に他ならない。歴史的現実としての人為による分断の結果であるところにその悲劇の悲劇性がいっそう顕になる。

 母の過去の足取りを姉弟が追うロードシーンは緊迫感漂うものとして提示されるであろう。
 全てが終わったとき、それでも姉弟は瞳をあげ生きてゆく決意を明らかにし、見出した兄に母の手紙を手渡す。それを読む宿命の兄の魂の軋み…そこから先は私たちが思考すべき地点であろう。

            

 エンドロールの終わりに、「祖母たちの時代に」の言葉が出てくるのだが、若い人達にとっては前世紀後半の「祖母の時代」かも知れないとはいえ、その時代をリアルタイムに生きてきた私にとっては、まさに置き去られた「私の時代」なのであった。
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やはり隅に座ったほうがよろしいようで・・・。

2012-02-01 02:31:44 | よしなしごと
 カウンターの隅フェチという客がいるようだ。通いつめた店っへいっても、隅が空いてないと帰ってきてしまうというぐらいなのだ。しかし、そこはよくしたもので迎え撃つ客どもも常連、したがって相互の癖もわきまえていて隅に座っているのがいても、彼が行くと「オッ、隅さんが来た」といってサッと席を代わってくれたりする。
 
 ときおり気のきかないドシロウトが隅に座っていて退こうとしなかったりすると、隅さんはプイと踵を返し、何やら呪いの言葉をつぶやきながら店を出るのであった。
 その退こうとしなかった客が店を出た途端、車にはねられたとか、野良犬にガブリとやられたという話がまことしやかに伝わると、もはやそれは完全な都市伝説ともいえる。

 何を隠そうかくいう私もカウンターに座る場合隅のほうが好きだ。上に述べた隅フェチさんほどではないし、別に謙虚でいっているわけでもない。そのほうが落ち着くし、ひとさまに干渉されることも少ないからだ。

       

 かつて、といってももう何十年も前の話だが、直ぐに目を通したいような本を買って、ときどき立ち寄る居酒屋に入った。カウンターだけのその店はあいにく真ん中のひと席しか空いていなかった。ちょっと悪い予感がしたが、そこで踵を返すほどの隅フェチではない私は、そこに座を占めてしかるべく注文をし、早速入手した本を読み始めた。店主にとっては手のかからない客であるといってもよい。

 しばらくするとフイに横から罵声が飛んだ。
 「こんなところで本なんか読みやがって、カッコつけるんじゃないよ!」
 声の主はいかにもその筋のおにいさんで、さっきから連れの女性と何か口論めいたおしゃべりをしていたのだが、どうやら言い負けてその腹いせがこちらへ回ってきたらしい。あわせて居酒屋で本を読むという私の習慣がなにか気障なものに見えたのだろう。

 困惑して店主の方を見ると、自分には関わりのないことのようにそっぽを向いている。この店で本を開くのは初めてではなく、それまでしばしばあったことだった。ただし、いつもはカウンターの隅でのことであった。

 私は本を閉じた。そしてそのおにいさんにいった。
 「お気に触りましたか。こうして飲みながら本を開くのは私の癖でしてね。でもまあせっかくのお楽しみを邪魔しては何ですから、今日はやめさせて頂きます。大将、お勘定はいくらでしょうか」
 私はできるだけ卑屈にならないように語気もはっきりと述べて席を立った。
 もちろん注文したばかりの酒肴はまだ残っていた。
 「いや、別に帰らんでも・・・」とおにいさんは口ごもった。

 店主はまごまごしている。
 「これでいいですか?」
 と私はしかるべき金額をカウンターに置いた。
 「あ、お釣りが・・・」
 といって店主は慌ててレジからそれをもってきた。
 その間、一切、私と目を合わそうとしない。

 外の空気は爽快であった。
 以来、その店には一度も足を運んだことはない。
 しばらく前に偶然通りかかったら、携帯のショップか何かになっていた。

 やはり、カウンターは隅のほうが無難なようだ。

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