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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

冬の陽光にきらめく川が秘めた歴史

2012-02-12 01:14:30 | 想い出を掘り起こす
 私にしては珍しく朝のうちから出かける。
 地域での集まりだが、三〇分ほど早く着いてしまったので近くの川辺に足を運ぶ。荒田川と境川が合流する辺りである。
 やっと人が渡れるほどの橋が架かっている。若い折りなら自転車でも渡れたであろうが、この歳になってからのバランス感覚を考えるとよしたほうが無難であろう。

          

 橋の上から見ると、上流にも下流にも、五〇センチを越えるかのような鯉が泳いでいる。ざっと数えても一〇匹近くもいる。
 おりからの好天ではあるが、先ごろ降った雪解けの水が混じってさぞかし流れは冷たかろうと変なところで同情する。
 しかし、やがてもっと水がぬるむ頃、彼らの恋の季節がやってくる。春から初夏、この川沿いを歩くと浅瀬でバシャバシャと産卵している光景にお目にかかることができる。

              

 この場所からおよそ一キロほど上流の川沿いに私が通っていた中学校があるのだが、この川についてのいい思い出はない。
 昭和二〇年代の後半から三〇年代のはじめ(一九五五年頃)とあって、戦後の復興期以降、拡大する生産や消費の廃棄物がほとんど無規制の垂れ流し状態で各河川を襲っていた。この川も底からメタンガスが泡立つほど汚れきっていて、夏など校舎の窓からその悪臭が侵入するほどだった。
 誰もまだ、環境汚染などを問題にする者もなく、それらが真剣に語られるようになったのは六〇年代の高度成長期の各種汚染や公害が進むところまで進み、人命が失われたり奇病が発生するなどの目に見える被害が出始めてからである。
 六〇年代の日本の公害の実態を知る人達は、今の中国の状況を一方的に笑えないはずである。

          
 
 先進的な科学者や医師などがそれら公害を指摘しても、企業や官僚はそれを認めようとせず、水俣、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの各種訴訟が起こされ、その実態が明らかになるにつれてやっとその重い腰をあげたというのが実態であった。
 そして彼らの無責任な引き伸ばしと怠慢の間に、事態はさらに悪化し被害は拡散し続けた。
 それらは改められたのはやっと近年になってからだが、早く幕引きをしたがる官僚や企業は、例えば水俣の被害申請を近々打ち切ろうとしている。体内に蓄積された水銀などの物質は長期にわたって被害をもたらすもので、昨日今日、発症をみなくとも、何ヶ月後、何年後に症状として顕になる可能性が十分あるのにである。

              

 しかし、そうした被害者の告発と彼らを中心とした公害をなくす運動はやがて全国的なものとなり、以来、留まるところを知らなかった環境破壊に一応の歯止めがかかることとなった。こうした過程を経て、「公害防止」や「環境保護」という今ではあたりまえとなっている言葉が市民権を得るようになったのである。
 この川にも鯉や鮒のほか、比較的綺麗な水を好むハヤなども戻ってきた。まだ清流とはいい難いにしても、水の透明度は格段に良くなり、部分的にではあるが、この川が合流する長良川からの天然鮎の遡上も確認されるという。

 水辺を歩いていて、水中の小動物たちが元気で活動している様を見ることは心地よいものである。それらはまた、その川自体が生きているかどうかのバロメーターでもある。
 これでカワセミでも現れればいうことなしと思っていたら、「ア~ラ、私たちで悪かったわね」とセキレイのつがいがチチチチと鳴いて川面を渡っていった。






コメント
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