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映画『フラメンコ・フラメンコ』を観る

2012-02-28 16:02:36 | 映画評論
 ピレネー山脈を越えるともはやヨーロッパではないという。この言葉には多少の蔑視も含まれているようだが、この際それは無視しよう。スペイン、しかもその西南部、アフリカに接するアンダルシアには、事実、伝統的なヨーロッパとは異なる風情が満ちてているようだ。
 そこでヒターノ(スペイン語でロマ=ジプシーのこと)たちによって生み出されたのがフラメンコである。ヒターノの発祥はインドといわれているから、かれらの西への旅の到達点がアンダルシアともいえる。
 映画はそのアンダルシアのフラメンコの精髄を惜しみなく繰り広げる。

 画面でアンダルシアの風光などが紹介されることはなく、同一のスタジオで収録される全21幕の踊りや歌、あるいは演奏で綴られているのだが、そこには間違いなくアンダルシアの風が吹いている。

        

 構成は人の誕生から成長、成熟、死、そして再生によるもののようなのだが、別にその連続性を意識しなくともひとつひとつのシーンを十分楽しむことができる。
 これを記録映画といって良いのだろうか。数々の劇映画とともにダンスと音楽をテーマにした作品を撮り続けてきたカルロス・サウラ監督がヴィットリオ・ストラーロ(『ラスト・エンペラー』などのカメラマン)と共に創り上げたこの作品には、台本自体はわずか3、4ページしかなくその展開の可能性を余白に書きこんであるにすぎないらしい。それは実際に演奏される際の臨場的な刺激とその芸の即興が生み出す力を重んじたからだという。

 陰影、色彩、反射などの光の躍動を追い続けるカメラは素晴らしい。ひとこまひとこまがドキドキさせるような絵を紡ぎ出す。
 そうした映像に隈取られた音楽と踊りがそれぞれ至芸というべきことはいうまでもない。各シーンが終わるごとに「オーレッ!」と叫んで拍手したくなるほどなのだ。

 踊りの素晴らしさもさることながら、全身から搾り出すような歌声も印象的である。その発声はやはりオペラなどに見られるヨーロッパの伝統的なものとは異なり、地声をそのままぶつけるという点で朝鮮半島の伝統芸能「パンソリ」に似ている。そういえばその小節も、歌全体を通じて流れる哀愁もそれに似ている。

        

 フラメンコといえばギターであるが、これももちろん超一流の演奏者揃いで、私のように楽器を操れない人間が観ていてもその弦さばきそのものがすばらしい絵になっているし、そこから弾き出される音の豊かさは聴く者の身体と共鳴して心地良い。
 また、珍しい二台のグランドピアノによるフラメンコの演奏が出て来て、もちろん初めて聴いたのだが、ジャズピアノとはまた違って陰影のシャープな音の流れがとても面白かった。

 映画だから当然といわれればそれまでだが、各シーンは美しくかつ、観客の感覚を掴みとって離さない。
 冒頭はスペインの画家たちの作品が衝立のように並ぶなか、それをかき分けるように前進したカメラが演奏者へと至るのだが、ラストではその逆で、どんどん引いてゆくカメラが再びそれらの作品群を撮し出す。
 そして、それらの作品を一枚一枚紹介するようにエンドロールが流れる。
 かくして私たちは、しばし親しんだアンダルシアの風が希薄になる現実へと連れ戻されるのである。

 予告編 http://www.youtube.com/watch?v=0Wv2PsT9f9Y
 

コメント
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