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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ひとが分断されてあること 映画『灼熱の魂』を観て

2012-02-03 01:50:45 | 映画評論
 オイデプスの悲劇は、神託に抗う人たちがそれにも関わらずどうしようもなくそのうちへと転落してゆく悲劇であった。
 しかしこの映画が描く悲劇は、一見、宿命とも見えながら、その実、人為による宗教、民族、党派といった恣意的な分断によってもたらされたものである。

             

 母の死と謎めいた遺言、「父と兄を探せ」に従い双生児の姉と弟は母の軌跡をなぞる。そのなかで次第に明らかになり、やがて衝撃的な事実となって私たちの前にもたらされるものをどのように日常の言葉で語ったらいいのであろう。

 映画の前半、まるで前振りのように数学の話が出てくる。しかし、後半にいたって弟が見出す解は1+1=1というあってはならない等式なのであった。

 母の遺言のなかに執拗に出てくる「いっしょにいること」は希望であり悔悟でもある。なぜなら「いっしょにいられなかったこと」、そしてその後の人々の分断の歴史のなかで1+1=1という悪魔の等式が実現してしまったからだ。

              

 強いられた分断とその恣意的にして暴力的な再結合はもはや何ものにも代えがたい恐怖と苦悩としてその母の命を縮めるだろう。それは神託として予め予言されたいたものとも異なり、分断という現実がもたらしたまさに青天の霹靂としての悲劇に他ならない。歴史的現実としての人為による分断の結果であるところにその悲劇の悲劇性がいっそう顕になる。

 母の過去の足取りを姉弟が追うロードシーンは緊迫感漂うものとして提示されるであろう。
 全てが終わったとき、それでも姉弟は瞳をあげ生きてゆく決意を明らかにし、見出した兄に母の手紙を手渡す。それを読む宿命の兄の魂の軋み…そこから先は私たちが思考すべき地点であろう。

            

 エンドロールの終わりに、「祖母たちの時代に」の言葉が出てくるのだが、若い人達にとっては前世紀後半の「祖母の時代」かも知れないとはいえ、その時代をリアルタイムに生きてきた私にとっては、まさに置き去られた「私の時代」なのであった。
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