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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【映画】『黄色い星の子供たち』

2011-09-14 03:35:53 | 映画評論
 ナチスに依るユダヤ人の虐殺に関してはこれまで無数の映画が作られてきた。しかしこの映画は、それらと多少趣を異にする。
 というのは、ナチス対ユダヤ人という定型の二項に加えて、ドイツ占領下フランスでのペタン元帥を首班とするヴィシー政権が一枚噛んでいるからだ。
        
 ようするに、ナチの要請によるとはいえ、フランス政府自身がコラボラシオン(対独協力)の名において行った「ヴェル・ディヴ事件」(10,000人以上のユダヤ人大量虐殺)を描いた映画なのである。
 しかもその事実は、1995年に時の大統領・シラク氏が公式に認めるまで、フランスでもタブー視されてきた事件であったという。
 ナチの仕業といわれたポーランドの「カティンの森」事件が、実はソ連軍の仕業であったことを描いたアンジェ・ワイダ監督の作品に似ているともいえる。
 その意味では日本のある種の歴史観を持つ人達に言わせれば、フランス人にとっては「自虐」的な作品ともいえるだろう。

        

 様々な人たちのドラマが交錯する群像劇だが、ローズ・ボッシュ監督はそれらをうまく整理して提示してくれる。
 内容については未見の人のために書かないが、ユダヤ人に生まれたということのみで、抑圧され、捕らえられ、家族はそれぞれ引き離されて虐殺されるという定番はここでも繰り返される。

 そして、わずかに生き残ったのは少年であり、その記憶をもとにした調査に依ってこの映画は作られたというのだが、その生き残った少年というのがまさに私と同年代だとすれば、色々と考えさせられるものが残ってしまう。

        

 普通、この種の映画の大規模な悲惨のなかで生き残った少年というのは、その後の未来に向けての希望の星であるのだが、その少年が私と同年代だとすれば、その少年や私たちがその後に作り出してきたのが現今の世界だということである。
 では、現今の世界はそうした悲惨からテイクオフできているのであろうか。
 大きくまとめれば、第二次世界大戦という地球規模での悲惨のなかで生き残った私たち少年は、その後、どんな世界をつくりだしてきたのだろうか。
 まあ、これは見終わった後、私の中に残った個人的な澱のようなものであり、それを離れても十分見ごたえのある映画である。

        
 
 年々記憶が怪しくなったいるが、ユダヤ人医師を演じるフランスのベテラン俳優の名前がどうしても出てこない。うちへ帰って調べたらジャン・レノだった。何度も銀幕でお目にかかっているのになんとも不甲斐ないことだ。

 それに輪をかけたのがその医師のもとで働く若い女性の看護師のことである。このひと、この瞳の輝き、どこかで観た、どこかで観たと思いながらそれがどこであったのかすらさっぱり思い出せなかった。

 これもうちへ帰って確認してあっと驚いた。
 しばらく前に観た映画『オーケストラ』(ラデュ・ミヘイレアニュ監督)の中でバイオリニストを演じ、魅力的な人だなと思っていたメラニー・ロランだった。
 自分の記憶の危なさを棚に上げ、女優さんていうのは役柄が異なるとそのイメージまで異なるもんだとひとまずは言い訳をしておこう。

        

 最後にこの映画でのもう一つの希望は、ナチ、及びヴィシー政権の当初の計画、2万人のユダヤ人の一斉検挙が、実際にはその半数しか実現しなったということである。
 そこにはフランス人に依る事前の情報の漏洩、検挙へのサボタージュ、逃亡への協力など様々な要因が考えられる。

 計画通り、完璧にひとが殺される世の中なんてまっぴらだ。
 捕らえられながらも自分の遊びを見出し、僅かなチャンスに笑顔を見せる子どもたちはすてきであった。
 しかしそれらの笑顔がほんの何人かの例外を除いてすべて消し去られたという現実から目を逸らすべきではないだろう。

 

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とにかく妖しい!

2011-09-14 00:56:57 | フォトエッセイ
       

       

              
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「談合」はまだ死語ではない!

2011-09-13 01:27:43 | 社会評論
          

       
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なぜ私は子どもたちの写真を撮るのだろうか?

2011-09-12 02:32:45 | フォトエッセイ
 昨11日は、体調を崩し、これまで欠席をしたことがなかったある会の例会へも出ず、久々に午睡を貪った。
 
 夢を見た。戦時中疎開をしていた田舎での少年時代のシーンであった。幸いにして悪夢ではなく、なにやら漠然としたものであった。
 その夢をみた一端の理由はわかる。つい先日、その田舎の小学校から同窓会の案内がきたからである。フロイトもいうように、夢の素材はやはり近日に経験したものに依るようだ。

       
 
 それはともかく、目覚めてふと気づいたことがある。
 下手の横好きでよく写真を撮るのだが、最近は子どもたち、それも幼児にレンズが向く機会が多いということだ。
 ロリータ・コンプレックスではない。対象はさらに幼い子たちなのだ。変な性愛志向もないはずだ。
 成熟した女性にはちゃんと反応するからだ。

       
 
 それではどうしてかというと、もはや青春への郷愁を通り越して、ある種の先祖返りというか、人として生み出される前の「涅槃」に近い状態への回帰本能なのかも知れない。

       

 涅槃=ニルヴァーナは、「煩悩が吹き消された状態」を意味するらしいが、むろん幼児の世界にもそれなりの葛藤があり、彼らが全くの無垢ではないことを知らないわけではない。
 にもかかわらず、大人たちがそうした葛藤を「力関係」で処理するのとは違った幼児の危うさのようなものがあり、それが魅力なのかも知れない。

       

 幼児が喜々とする瞬間を撮りたい。その瞬間、彼らは「涅槃=ニルヴァーナ」に近い世界にいるものと思いたいからだ。
 それは私の幻想かもしれない。もっと突っ込んでいえば、ほとんどすべての生物の幼体が「可愛い」のは、力なき彼らが生育するまでの期間、周囲の保護を受けるための擬態であるかも知れないからだ。
 
 孫にコロッといかれる老人はその擬態の虜ともいえる。だから「オレオレ詐欺」の標的はジジババなのだろう。

       
 
 なんだか支離滅裂になってきた。
 本題に戻れば、なぜ私は幼児を撮るのかということだが、端的にいえば、自分がそれを経由してきたにもかかわらず、もっとも想起や想像が困難な時代であり、たぶん画像としてしか表象し得ないということなのかも知れない。
 まあ、単純にいって幼児は可愛い。

       

<追記>最近の幼児の服飾はカラフルでデザイン性に溢れている。
    私のガキの頃、男の子も女の子も夏は裸同然だった。
    その他の季節でも、色彩は限定されていた。
    特に男は、白・黒・紺・灰色、つまりモノクロに近い状態だった。

    
 


 

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ワッ、来たっ!

2011-09-11 15:28:56 | よしなしごと
        
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「ミスト」リィロード @「豊橋ノンホイ公園」

2011-09-10 23:42:46 | よしなしごと
        
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アラ、エッサッサ~  でもみんな腰がひけている。

2011-09-09 01:52:30 | アート
        
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秋色迫る 季節の変化が鋭角なのは年齢故か?

2011-09-08 00:57:26 | よしなしごと
        
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ダンゴムシは午前1時30分にすすり泣くのだろうか?

2011-09-07 01:27:04 | アート
        
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ダクストランティアの懺悔

2011-09-06 03:40:49 | アート
        
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