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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ある似顔絵の話

2011-09-29 02:59:25 | アート
 似顔絵である。
 誰がモデルかはあえていうまい。
 書いた人は私の旧知の先達で、名古屋の某デザイン学校の理事長である。
 
 この人の作品も観たことがある。
 ビルのワンフロアーを使った名古屋大空襲をモチーフにした作品で、この先達の志向を明瞭に示すものであった。
 その志向は是としながらも、ただし、文字を用いた説明が多く、この種の作品に言語を直接に介在させることに疑義を呈した覚えがある。

 この人と共通の知人である若い(?)女性と三人で飲んだ。
 酒も料理も上手く、話も弾んだ。

 宴たけなわと言うか、既にお互い結構出来上がったところで似顔絵の話が出た。
 共通の知人の話によるとこの先達の似顔絵の巧さは定評があるという。
 ということで出来上がったのがこの似顔絵である。

          

 欲を言えば、お互いシラフでともいえようが、考えようによっては酒精のもたらすままに描き、描かれるのも悪くはない。

 人の表情を写す手段には、写真や肖像画がある。
 しかし、似顔絵はそのどれとも違うだろう。
 写真は瞬間を捉える。
 撮す側は対象の瞬間の趣を焼き付け捉える。
 撮される側はそれに備えるさしたる準備もないままに撮される。
 だからプロの写真家はそのモデルを前にしてバシャバシャとシャッターを切る。

 肖像には、逆に描かれる側の志向、つまりこう描かれたいが強く反映する。伝統的な肖像画はほとんどそうで、クライアントの要求を描くのが職人芸なのだ。
 肖像を描きながら作者の美意識を明確に表出した作品もゴヤを筆頭にかなり存在するが、それらは大家にのみ許された特権であったのかも知れない。

 似顔絵はそのどれとも違う。
 例えば数分の間、描き手は対象の際立つ箇所を見出そうとする。
 描かれる方は、写真のようにフイの瞬間ではなく、自分の表情をそれなりに整えようとする。そしてその結果には「似ている・似ていない」の基準が当てはめられるだろう。

 ところで、その「似ている・似ていない」を判定するのは誰であろうか。
 少なくとも、描かれた本人ではない。
 描かれた本人は自分の表情など知る由もないのだ。
 私たちは鏡を見るが、その表情は決して他者が見る表情ではありえない。
 私たちは鏡を相手にしてではなく、他者のうちにあってこそその表情を持ちうるのだ。

 という訳でこの似顔絵が出来上がった。
 ところで葬式の遺影に似顔絵ってありうるのだろうか?

 

コメント
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