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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

なぜ私は子どもたちの写真を撮るのだろうか?

2011-09-12 02:32:45 | フォトエッセイ
 昨11日は、体調を崩し、これまで欠席をしたことがなかったある会の例会へも出ず、久々に午睡を貪った。
 
 夢を見た。戦時中疎開をしていた田舎での少年時代のシーンであった。幸いにして悪夢ではなく、なにやら漠然としたものであった。
 その夢をみた一端の理由はわかる。つい先日、その田舎の小学校から同窓会の案内がきたからである。フロイトもいうように、夢の素材はやはり近日に経験したものに依るようだ。

       
 
 それはともかく、目覚めてふと気づいたことがある。
 下手の横好きでよく写真を撮るのだが、最近は子どもたち、それも幼児にレンズが向く機会が多いということだ。
 ロリータ・コンプレックスではない。対象はさらに幼い子たちなのだ。変な性愛志向もないはずだ。
 成熟した女性にはちゃんと反応するからだ。

       
 
 それではどうしてかというと、もはや青春への郷愁を通り越して、ある種の先祖返りというか、人として生み出される前の「涅槃」に近い状態への回帰本能なのかも知れない。

       

 涅槃=ニルヴァーナは、「煩悩が吹き消された状態」を意味するらしいが、むろん幼児の世界にもそれなりの葛藤があり、彼らが全くの無垢ではないことを知らないわけではない。
 にもかかわらず、大人たちがそうした葛藤を「力関係」で処理するのとは違った幼児の危うさのようなものがあり、それが魅力なのかも知れない。

       

 幼児が喜々とする瞬間を撮りたい。その瞬間、彼らは「涅槃=ニルヴァーナ」に近い世界にいるものと思いたいからだ。
 それは私の幻想かもしれない。もっと突っ込んでいえば、ほとんどすべての生物の幼体が「可愛い」のは、力なき彼らが生育するまでの期間、周囲の保護を受けるための擬態であるかも知れないからだ。
 
 孫にコロッといかれる老人はその擬態の虜ともいえる。だから「オレオレ詐欺」の標的はジジババなのだろう。

       
 
 なんだか支離滅裂になってきた。
 本題に戻れば、なぜ私は幼児を撮るのかということだが、端的にいえば、自分がそれを経由してきたにもかかわらず、もっとも想起や想像が困難な時代であり、たぶん画像としてしか表象し得ないということなのかも知れない。
 まあ、単純にいって幼児は可愛い。

       

<追記>最近の幼児の服飾はカラフルでデザイン性に溢れている。
    私のガキの頃、男の子も女の子も夏は裸同然だった。
    その他の季節でも、色彩は限定されていた。
    特に男は、白・黒・紺・灰色、つまりモノクロに近い状態だった。

    
 


 

コメント (1)
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