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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

田母神問題は嘲笑では済まされない!

2008-11-12 17:29:23 | 社会評論
 以下は、別のところで展開されている「田母神問題」を巡るやりとりです。
 最初に、それについて批判的なものが掲載されたのに対し、右翼と目される人からの書き込みがありました。
 それへの反批判という意味もありましたが、田母神問題を批判する立場の中にも、それをナンセンスとして馬鹿にするのみで、その危険性を軽視している向きがあると思いましたので、それへの補足も含めて拙文を書きました。
 それへの右翼と目される人からのコメントがありましたので再びその補足を書きました。

 <右>とあるはその論者  <六>は私です。

<右>で、論文の内容そのものには一言もふれませんか?
そんなに日本人は愚か者でバカだと言いたいですか?
ほんとにあなた方日本人ですか?ww

<右>あなた根本的に判ってませんな。
田母神氏が力説しているのは蒋介石をはじめとした連中によって日本が戦争に引きずり込まれてしまったという点。

 

<六>
 戦争を幾分知っている世代です。
 今回の田母神前空幕長問題に恐怖と戦慄を覚えました。
 なぜなら、彼の論法は彼個人に止まらず、かなりの普遍性を持って流通していて、自民党のかなりの部分(例えば森元総理など、そして麻生氏も?)や、民主党の一部の連中は、建て前はともかく、本音としては必ずしも否定していないからです。

 彼らはこの問題を、政府や行政機関内での不統一というレベルで片付けようとしています。
 国会での参考人審議においても、彼の思想内容への疑義というより、行政内部の不統一に問題は絞られています。
 だから、田母神前空幕長は、それはそれとして、私の論は正しいと居直ることが出来るのです。

 彼に追随する自衛隊の精鋭たちの存在も今回明らかになりました。
 この事実は条件さえ整えば、「村山談話」や「文民統制」など吹っ飛ばして、彼らが権力の中枢に躍り出る可能性を示しています。
 いわゆる、軍部とそれを密かに支持する政治家の存在であり、その権力掌握の可能性です。

 この図式は、昭和10年前後のそれと酷似しています。
 折しも深刻な不況が襲いかかろうとしています。
 しかも政治は小泉以来全くひどい状況です。
 軍部が政治勢力として成長し、「改革」(2.26や5.15)のスローガンを掲げて決起した場合、それに呼応する人たちも大勢いるでしょう。
 ちなみに、「自己責任」として貧困に追いやられている人たちをに信頼されている政治勢力は存在しますか。
 彼らが「軍部」の決起にある種の可能性を見出すことがないと言い切れますか。

  

 軍部とそれに呼応した政治家たちのクーデターの温床は整っています。
 クーデター、ないしそれを利用した政権の実質的軍部依存、戦時体制(諸自由の徹底的制限)、国際問題にたいする武力による対応(これは田母神前空幕長の参考人発言でも堂々と述べられています)、そして戦争へと・・。

 現在のこの鬱積した状況において、このシナリオを否定できるでしょうか。また、それへの抵抗勢力は存在するでしょうか。
 昭和のそれは、大正デモクラシーの後、若者が、モボ・モガにいれ込んでいるときに突然現れました。

 ですから、田母神前空幕長を浅薄でナンセンスと笑うのみではなく、それがかくも堂々と述べられる背景、それを隠然と支持する勢力の存在に注意しなければなりません。
 彼らは、屁理屈を捏造するネウヨのヘタレを越えて、厳然とした勢力として存在しています。
 
 日本の戦後処理の不徹底のツケですね。

 

<右>そうなると、あなたの年齢は70歳前後以上ということになりますが?
クーデターというなら、クーデターをシミュレートしてここで語ってください。

アクセス禁止しないと約束していただけるなら徹底的に教育いたしますよ。

 

<六>
 そのとおりです。
 70歳を過ぎています。
 そして、あなたのように観念的にではなく、実体験として戦争を知っています。
 軍部の支配がいかに残酷なものであったか、若者たちが赤紙一枚で戦争に駆り出されてゆくさまや、回りで戦火に焼かれる人たちも見ています。
 死臭が漂う焼け跡も経験しています。

 戦前、青年将校たちがクーデターを繰り返す中で、表面では弾圧しつつも、それを利用して軍部(統制派)が権力を掌握し、一挙に戦時体制を築き上げ、文民による統制が効かぬ中で、あの悲惨な戦争に突入し、止まる時点もわきまえず戦火を拡大し、もって近隣諸国と自国の民に多大な悲惨をもたらしたことは、私が生を受けてからの現実の出来事です。
 シミュレーションの世界ではありません。
 リアルな出来事だったのであり、現実の悲惨だったのです。

 ついでながら、私の実父は、あの無謀なインパール作戦の中で戦死しています。英霊とは言われたくありません。無謀で粗野な権力(田母神と同様な志向とイデオロギーを持った)によって駆り出され殺されたと思っています。
 やっと家庭を持ち、小商人として自分の店を持った直後の横死、どんなにか無念であったろうと思います。
 
 こうした命を返すことが出来ますか?

 

 ついでながら、
 >>徹底的に教育いたしますよ。
 というあなたのもの言いは実に尊大ですね。
 まさに田母神のあの尊大さにに通じると思います。
 それは常に権力者が下々に言い渡すもの言いです。



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きみはキウイを誤解している!(レシピ付き)

2008-11-10 14:19:08 | 写真とおしゃべり
偉そうな表題を付けましたが、私自身が誤解していたのです。

 いつものように所用で自転車を駆っていた。
 そしていつものように、同じ道ではつまらないからと少し違う経路を選んだ。
 かまぼこ形のブドウ棚のようなものがあった。
 キウイの畑である。
 最近、この辺りでもよく見かけるのだが、ここは結構規模が大きい。
 見れば結構たわわに実を付けている。

 キウイといえばニュージーランドの特産で、ニュージランドの国鳥キウイ・バードにその形状が似ているのでこの名で呼ばれていると言われ、私もそう信じ込んできたが、どうやらそれは誤りらしい。

 

 まず、ニュージーランドの特産というのが誤りで、元々は中国の長江流域の原産で、ニュージーランドへ持ち込まれたのは1904年、たかだか100年前だという。
 その後、ニュージーランドで品種改良などがなされ、わずか半世紀で、諸外国へ輸出するまでなったのは事実である。
 その当時の名前はチャイニーズ・グーズベリー(chinese gooseberry)で、要するに、「中国スグリ」という原産地の名残をを留めるものであった。

 ところがである、当時(1950年代)は東西ブロックによる冷戦のまっただ中で、「中国(chinese)」と付くだけで米国やその同盟国へは輸出しにくかったというのだ。そんな事情で、改名を迫られることとなった。そこで、もともと現地語でニュージーランドを意味するキウイを付け、「キウイ・フルーツ」として輸出を促進したらしい。
 この作戦は成功し、この果物は世界的に「キウイ・フルーツ」で知られるところとなって今日に至っている。

    

 このくだりは面白い。
 いわゆる言語ゲーム論とはいささか次元を異にするが、言葉というものが、様々な諸関係のうちでそれとして流通することを示しているように思われるからである。
 そしてさらに、たかがひとつの果物が「冷戦」という世界史的事実を担っているという点での面白さもある。
 さらに言うならば、ものみな商品とされる現実の中においては、ものの命名は「売る・売られる」が重要な基準となっているということである。
 要するに、売れない名前は売れる名前に取って代わられるのだ。

 ちなみに、ニュージーランドのキウイ産出量は世界で3位であり、2位は原産地の中国、そして第1位はなんとイタリアだという。
 イタメシ屋にはやはりキウイを使ったメニューが結構あるのだろうか。
 なお、日本での栽培は1969年からといわれているが、こうした果物があるという事実が広く知られるきっかけは、1970年の大阪万博といわれている。

 キウイ畑を見た感想を書こうとしてちょっと調べたら、私の先入観を覆すいろんな事実が出てきた。
 一見些細なことどもが秘めている事実は面白い。
 「たかがキウイ、されどキウイ」という言い古されたレトリックで、この拙文を閉じたいと思う。

 

上の拙文は、「駒沢女子短期大学キウイ・フルーツ研究室」のHPから多くの示唆を受けたことを感謝と共に申し添えます。
 
なお、余談ですが、このキウイフルーツはマタタビの仲間で、和名を「オニマタタビ」と言うそうです。
 今度、スーパーなどでキウイを買うとき、店員さんに「オニマタタビはどこにありますか?」と訊いてみましょう。
 不審者が現れたとして、警備員が駆けつけたらその店員さんは正常です。
 「あ、それならここにあります」とちゃんと案内してくれたら、その人は少しマニアックで危ないかも知れません。


おまけ 六の料理帳から>
 
「くずきりのキウイ・ドレッシング和え」
 
 1)くずきりを湯がき水分を切っておく。
 
 2)キウイの皮をむき、それをおろし金でおろす。
 3)それに、塩、胡椒(出来れば粗挽き)を加え、よく撹拌する。
   さらに、オリーヴのエキストラオイル(ごく少量)を加える。

 4)それを先のくずきりと合わせて和える。

 ミントなどの香草をまぶすと味が多彩になります。
 ところてんの発想で、ごまを振ってもいいでしょう。

 本当は、夏場に作ると爽やかな一品になります。
 このキウイ・ドレッシングは、野菜にかけてもおいしいはずです。



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街の紅葉たちと向日葵と

2008-11-08 15:58:54 | 写真とおしゃべり
 雑用がたまって遠出をする機会がない。
 病院ー図書館ー買い物ー自宅というサイクルの繰り返しである。
 したがって、野山で紅葉を楽しむという機会にも恵まれない。

 ならば身の回りで手っ取り早く見つけようという、転んでも起きない(行き倒れ?)六であった。
 で、おきまりのコースやそれから少しばかり逸れたところで見かけた紅葉である。

 

 桜は花と決めつけるのは早計、紅葉がまた美しい。
 うまく紅葉しない間に枯れてしまう年もあるそうだが、今年、私が見かけた限りでは結構綺麗に染まっていた。

    

 これはケヤキである。葉が青いうちは割合、じみな木であるが、紅葉すると美しい。葉の細やかさが秋空にお似合いで爽やかな紅葉といえる。

 

 おきまりの定点観測(県立美術館と図書館間)の南京ハゼであるが、こちらの紅葉は例年よりも不揃いであまり赤くはない。
 それはそれで悪くはないともいえるが、暗紅色に染まった豊かな葉を従えたこの木独特の紅葉を知っている者にとっては、どこか物足りない感じがぬぐえない。

 

 それにどういう訳か、今年は昨年に比べ実の付き方もうんと少ないのだ。昨年など、遠目にも白く弾けた実が暗紅色の葉の間から顔を覗かせ、白ごまをまぶしたように見えたものだが、今年は近寄って探すとやっとあちこちにちらほらと散見できるといった具合なのだ。
 紅葉の仕方といい、実の付き方といい、今年はこの種の木にとってあまりいい年ではなかったのだろうか。
 それとも、この木だけの(たとえば年齢的な)問題なのだろうか。

 

 そんなことをぼんやり考えながら自転車を漕いでいたら、前方に黄色い花が揺らいでいた。
 向日葵である。
 紅葉と並行して、別に立ち枯れた風でもない若々しい向日葵が艶然と咲いているのだ。
 確かに、真夏のそれのように猛々しさはないが、いかにも秋に寄り添うような花の付け方は、しおらしくも可愛いものがある。

 この国は、春夏秋冬がくっきりしているといわれる。
 それはそうかも知れないが、それぞれの生にとっては、そうした四季の巡り合わせとははずれたところで生きなければならないこともある。
 別に、歳時記にしたがって生きているわけではないのだから。









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車たちは成仏できるのだろうか?

2008-11-06 17:16:16 | 写真とおしゃべり
 私が自転車でいつも通る道を少し変えたところでぶつかった風景です。
 まさに「ぶつかった」車の墓場とも言えるところです。
最後のものはいわゆる放置されているもの(道路などではなく私有地)ですが、他は全て、解体待ちの在庫です。
 中には、私が今乗っているものよりも遙かに年式が新しく、程度のいいものもあります。

 

 いろいろ感じるところがありますが、ひとつは事故の怖さです。
 あまり偉そうなことは言えません。
 私も若い頃は、というかかなり歳とってからも、結構無茶な運転をしていました。
 今となっては恥ずかしいのでその内容は言いませんが、その割に、自分が加害者となる大きな事故に遭遇しなかったのはまさに悪運という他はなく、振り返って考えると、ぞっとすることも結構ありました。

 

 最近は、あまり車に乗らないようにしています。
 それだけに今度は、たまに遠出をしたり、高速を走ったりする場合の自分の運転技術に自信が持てず、逆に慎重になりすぎてもたつく結果になりはしないかと恐れています。
 まあ、過信するよりはいいのですが・・。

 
 
 もうひとつは、これらの車の来し方行く末を見るとき、消費社会の行き着くところがあからさまなように思うのです。  
 これらの車も新車として届けられた折りには、それぞれの消費者にワクワクして迎えられたはずです。
 ドアを開けたときのあの独特な匂い、どの部品もぴかぴかまぶしいこの車が、今日から私の足となって地上を支配するのだという満足感。
 しかし、いったん事故ったりすると、そのフェティシズム的、物心崇拝的愛着は一瞬にしてすっ飛びます。

 

 そんなとき、ディラーの甘いささやきが襲うのです。
 「これは修理にだいぶかかりますよ。それにこれだけの損傷を一度は負った車に乗り続けるなんて気分も良くないでしょう。いかがですか、この際、気分一新して新しいものにお取り替えになっては・・」
 それに呼応するように、TVは些細な差異を針小棒大に並べ立て、新車の効用をのべつ幕なしにしゃべり立てます。
 かくして、昨日までの愛車は弊履のごとくあっさりと捨てられてしまうのです。

 

 そうしてみると、こうして積み上げられた車たちは、まこと人間の業の堆積のようにも見えます。
 あなたが捨てたかつての愛車が、この中にあるかも知れませんよ。
 せめてそれらが、解体され新たな資源として、再び日の目を見ることが出来るよう祈ってやって下さい。





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「熟秋」という言葉を見つけたのですが・・

2008-11-04 17:20:55 | よしなしごと
 「熟秋」という言葉は既にあるのでしょうか。
 「広辞苑」には載っていません。
 しかし、俳句などの世界では既に使われているのかも知れませんね。

 
         ハナミズキの紅葉とルビーのような実

 なぜそんなことを言い出したかというと、いつものように所用で自転車を駆っているとき、深まり行く秋、ものみな熟す秋から、秋そのものが熟すといった感があるといった思いに至り、「熟秋」という言葉がひらめいたのです。
 もし、これが私の造語であるとしたら大したものですね。
 しかし、厳密に言うと、既成の言葉を組み合わせただけですから造語ではありませんね。

 
   近くの畑で 菜ものの元気がいい。農協の売り場にも俄然葉ものが多くなった。
 
 言葉のはじめというのは不思議ですね。
 茫洋とした物事、しかし五感にとってはかすかな痕跡であるもの、それを区切り名付ける、いわゆる分節化するわけですが、そのことが、そのかすかな痕跡でしかなかったものを、これと特定できるものとして立ち上げることができるといったことのようです。

 
              野焼き(その1)
前に野焼きの写真を撮っていたら、焼いてる人が近づいてきて「これぐらいはいいだろう」という。何のことかと思ったら、最近はダイオキシン云々でうるさいのだという。お百姓のささやかな季節の習性まで取り締まって何の環境ぞ!と思った。


 しかし、ある人が「私的言語はない」というように、それは流通し、全く同じではないとしても、発語する人と受け止める人との間である意味が共有されなければならないのですが、それはどのようにして保証されるのでしょうか。
 とりわけ、新しい言葉の場合にです。
 その意味合いの共有がどうして可能になのか、また本当に、或いはどの程度まで共有し得ているのか、などなど考えると私などがやたら無責任に発する言葉が、なんだか危うい基盤の上に立っているようにも思えます。

 
            たわわに実った柑橘類

 言葉ははじめから意味をうちに持っているのではなく、その発話される状況に応じてその都度意味を獲得すると考える立場もありますし、発話者と受け手との間にぴったりした符合がなくとも、その類縁のようなところで流通するとも考えられます。

 
       野焼き(2) 私の「秋」には欠かせない風情

 まあ、こんな理屈は抜きにして、「熟秋」って響きもいいし字面も悪くないでしょう。
 よろしかったらどんどん使って下さい。特許も実用新案もとっていませんから。

 え? そんな言葉とっくにあるって?
 本当ですか? あったらその事例を教えて下さい。
 





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私の祖母は魔女だった。

2008-11-02 17:57:06 | 想い出を掘り起こす
 先頃、映画『西の魔女は死んだ』を観たがシャーリー・マクレーンの娘、サチ・パーカーが老け役を好演していた。この映画を観ながら、何か引っかかるものがあったのだが、それは私自身の祖母に関する思い出で、彼女もまた「魔女」だったのだ。
 今、生きていれば130歳以上になる筈だが、私が三十代の頃この世を去った。
 1944年、私と母は母の実家、つまりこの祖母のもとへ戦火を逃れて疎開して以来、数年間を共に過ごした。

 

 なぜ彼女が魔女であるかというと、それは単に私の思い入れではなく周辺からもそう見られていたからである。若い頃からいわゆる「巫女」として扱われ、霊感があるといわれていた。しかし、祖母は新興宗教の教祖のように自分からその見解を周囲に語ることは決してなかった。
 ただ、相談に来る人にはその運勢などを静かに占った。占いの修行をしたとは聞いていないので、いつしか周辺に占いが当たるという評判が立ち、祖母はそれに応じていたのだろう。
 あるとき、悩んだ株屋が売り買いの吉凶を訊きに来たという。それが当たったかどうか知らないが、謝礼に花瓶か何かをもらったように聞いた。

 

 彼女の本業は、占い師ではなく、いわゆる「木薬屋」であった。要するに漢方薬の知識を持っていたのだ。その知識があって、その延長として占いの方にまで需要が及んだのではないかと思う。えてして魔女とはそうしたものだ。
 納屋には沢山の植物が乾燥されて吊されていた。それぞれが効能別に分類されているようだったが、幼い私にはどれも枯れ草にしか見えなかった。

 村落の人たちが、やれ風邪を引いた、やれ腹痛がする、などといってやって来た。その都度祖母は、その症状に応じた薬草を渡し、その服用などを指導していたようだ。
 今でいえば立派な薬事法違反であるが、村落には医院も薬屋もなく、そのせいで重宝がられていたようだ。それに、報酬を金で受け取ったりはしなかったようだ。人々は自分の家の自慢の農産物などをもってその謝礼とした。

 

 私自身も何度かそのおかげを被った。主に風邪なのだが、常識に反して祖母は熱い風呂に入れて、その汗が引かぬうちにゲンノショウコかなんかの熱い煎じ薬をどんぶりに一杯飲ませた。
 子供には苦すぎるので、途中で躊躇すると、「全部飲まなきゃだめだ」と祖母の叱責が飛んだ。終生、私には優しい祖母だったが、こうしたときは怖かった。目をつぶって喉へ流し込んだ。
 そしてすぐ寝ろという。風呂上がりで熱いものをふうふういって飲んだばかりだから、布団にくるまると汗が流れ出る。それをタオル地でくるみながら私が寝付くまで祖母は傍らにいた。
 こんな荒療治ではあったが、私には効いた。翌朝にはケロッとして起き上がることが出来た。

 

 他にもう一度、魔女の恩恵を受けたことがある。私の大学受験の時であるが、その頃はもう別居していた祖母がわざわざ来てくれた。そして、私に受験票を出せという。それを出すと仏壇に掲げておもむろにお経など読み始めた。
 それが終わると受験票を返し、「お前は絶対受かる!」と宣言した。それを信じたわけではないが、実業学校出身での受験といういささかハードルが高いなかで不安がぬぐえなかった私にとっては、大いに励ましになったことは事実である。

 彼女の予言通りに受かった。
 「どうして分かったの?」と訊く私に、祖母曰く、「お前の受験番号が<イチヨイ>だったからだ」といった。なるほど、私の受験番号は141番で<イチヨイ>と読める。でもそれって占いじゃなくて洒落じゃんと思ったが、そうはいわなかった。
 何とか私を合格させたいという祖母の執拗な願いによるこじつけだということがよく分かっていたからである。

    

 私の祖母は間違いなく魔女であった。
 今と違って、肉体労働にのみ依拠する農家の主婦でありながら、なおかつ11人の子を産み(一人は死産)育て、その傍ら、人様の悩みや相談を受け、病を治す手助けをするなんて魔女以外の誰に出来ようか。
 もの静かであったその祖母の娘、私の母が病床にある。魔女よ、蘇りてわが母の苦境を救え!







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