雑用がたまって遠出をする機会がない。
病院ー図書館ー買い物ー自宅というサイクルの繰り返しである。
したがって、野山で紅葉を楽しむという機会にも恵まれない。
ならば身の回りで手っ取り早く見つけようという、転んでも起きない(行き倒れ?)六であった。
で、おきまりのコースやそれから少しばかり逸れたところで見かけた紅葉である。
桜は花と決めつけるのは早計、紅葉がまた美しい。
うまく紅葉しない間に枯れてしまう年もあるそうだが、今年、私が見かけた限りでは結構綺麗に染まっていた。
これはケヤキである。葉が青いうちは割合、じみな木であるが、紅葉すると美しい。葉の細やかさが秋空にお似合いで爽やかな紅葉といえる。
おきまりの定点観測(県立美術館と図書館間)の南京ハゼであるが、こちらの紅葉は例年よりも不揃いであまり赤くはない。
それはそれで悪くはないともいえるが、暗紅色に染まった豊かな葉を従えたこの木独特の紅葉を知っている者にとっては、どこか物足りない感じがぬぐえない。
それにどういう訳か、今年は昨年に比べ実の付き方もうんと少ないのだ。昨年など、遠目にも白く弾けた実が暗紅色の葉の間から顔を覗かせ、白ごまをまぶしたように見えたものだが、今年は近寄って探すとやっとあちこちにちらほらと散見できるといった具合なのだ。
紅葉の仕方といい、実の付き方といい、今年はこの種の木にとってあまりいい年ではなかったのだろうか。
それとも、この木だけの(たとえば年齢的な)問題なのだろうか。
そんなことをぼんやり考えながら自転車を漕いでいたら、前方に黄色い花が揺らいでいた。
向日葵である。
紅葉と並行して、別に立ち枯れた風でもない若々しい向日葵が艶然と咲いているのだ。
確かに、真夏のそれのように猛々しさはないが、いかにも秋に寄り添うような花の付け方は、しおらしくも可愛いものがある。
この国は、春夏秋冬がくっきりしているといわれる。
それはそうかも知れないが、それぞれの生にとっては、そうした四季の巡り合わせとははずれたところで生きなければならないこともある。
別に、歳時記にしたがって生きているわけではないのだから。
病院ー図書館ー買い物ー自宅というサイクルの繰り返しである。
したがって、野山で紅葉を楽しむという機会にも恵まれない。
ならば身の回りで手っ取り早く見つけようという、転んでも起きない(行き倒れ?)六であった。
で、おきまりのコースやそれから少しばかり逸れたところで見かけた紅葉である。
桜は花と決めつけるのは早計、紅葉がまた美しい。
うまく紅葉しない間に枯れてしまう年もあるそうだが、今年、私が見かけた限りでは結構綺麗に染まっていた。
これはケヤキである。葉が青いうちは割合、じみな木であるが、紅葉すると美しい。葉の細やかさが秋空にお似合いで爽やかな紅葉といえる。
おきまりの定点観測(県立美術館と図書館間)の南京ハゼであるが、こちらの紅葉は例年よりも不揃いであまり赤くはない。
それはそれで悪くはないともいえるが、暗紅色に染まった豊かな葉を従えたこの木独特の紅葉を知っている者にとっては、どこか物足りない感じがぬぐえない。
それにどういう訳か、今年は昨年に比べ実の付き方もうんと少ないのだ。昨年など、遠目にも白く弾けた実が暗紅色の葉の間から顔を覗かせ、白ごまをまぶしたように見えたものだが、今年は近寄って探すとやっとあちこちにちらほらと散見できるといった具合なのだ。
紅葉の仕方といい、実の付き方といい、今年はこの種の木にとってあまりいい年ではなかったのだろうか。
それとも、この木だけの(たとえば年齢的な)問題なのだろうか。
そんなことをぼんやり考えながら自転車を漕いでいたら、前方に黄色い花が揺らいでいた。
向日葵である。
紅葉と並行して、別に立ち枯れた風でもない若々しい向日葵が艶然と咲いているのだ。
確かに、真夏のそれのように猛々しさはないが、いかにも秋に寄り添うような花の付け方は、しおらしくも可愛いものがある。
この国は、春夏秋冬がくっきりしているといわれる。
それはそうかも知れないが、それぞれの生にとっては、そうした四季の巡り合わせとははずれたところで生きなければならないこともある。
別に、歳時記にしたがって生きているわけではないのだから。