信州は塩田平、別所温泉近くの小高い丘の上それはありました。
「無言館」の名で広く知られるようになりましたが正式には、「戦没画学生慰霊美術館<無言館>」という長い名前です。
この名前が示すように先の大戦で、不本意にも志し半ばにしてその命を奪われた若き芸術家たちの絵画作品を集めた美術館です。
館長は故水上勉の子息・窪島誠一郎さんで、自らも出征経験がある画家・野見山 暁治さんの協力を得て、何年にもわたり戦没画学生の遺族の方を訪問し、その遺された作品を収集したのがこの美術館です。
もう何年も前からこの美術館のことは知っていましたが、機会に恵まれず、やっと今回の訪問になりました。しかし、そのおかげで、2008年に開館した第二展示館も観ることができました。
こうした人たちの作品ですから、その評価は未定といえば未定で、ましてや私のようなその道に疎い者から見れば、どれもなるほどということになってしまうのですが、それでも、既に一定の画風を身につけた人のものや、それに至る過程で苦闘しているのではという人との違いは何となく分かるような気もしました。
しかし、その共通点はといえば、どれもがひたむきだということです。戦局がますます悪化し、画材などの物資も窮乏する中で、絵を描き続けるということはなまじっかなことでは出来なかったのだと思います。ましてや、自分自身が戦場に駆り出されることは十分予想できる状況下にあったのですから。
若くして戦没した人たちの作品ですから、当然点数も限定されていますが、ほんとうはもっともっと描きたかったに違いないのです。
この続きは帰ってから描くといって征ったまま還らなかったひと、これが最後とばかり覚悟を決めて描いたひと、出征の時間ぎりぎりまで未練たっぷりに絵筆を放そうとしなかったひと、それぞれの執着がひしひしと感じられる絵ばかりなのです。
家族に宛てた手紙や、戦死公報、絵画仲間の弔辞などもともに展示されていますから、否が応でも万感胸に迫るものがあるのですが、これらを見ていて思ったことを二点に絞って述べてみたいと思います。
そのひとつは、その作品の対象についてです。
先ほどいいましたように、これらの作品のほとんどは戦局押し詰まった時点でのものが多いのですが、そのどれにも戦争を思わせるものがないということです。
無言館というこの美術館のコンセプトを知らないでこれらの絵画を見たひとがいたとしたら、それらが、まさにあの戦争のまっただ中で描かれたものだということに気づくことはないかも知れません。
それほどこれらの絵画は戦争とは無縁のところで描かれているのです。
具体的にいえば、家族の肖像や故郷の風景、四季折々の風物など、そこには何万、何百万の人たちが殺し合っている状況とは全く異なった心象風景が描かれています。
ということは、彼らが願ったそうした安逸の世界から否応なしに、暴力的に引き離されて戦地へ送り込まれたことが伺えるのです。
第二展示館近くのモニュメント 溝の中には絵筆がはめ込まれている
これは、画学生に限ったことではありません。
「お国のために命を捧げる」という勇壮な言葉は、よほどの狂信者ではない限り表向きのもので、一般の人々はただ闇雲に戦地へと駆り立てられたのです。
「反戦」などと口走ろうものなら、直ちに治安維持法で処刑され、家族や親類全体が「非国民の一族」と罵られた時代だったのですから、まさに顔で笑って心で泣いて、死地へと赴いたのでした。
もうひとつは、彼ら画学生の没年の表示を読んでいてのことです。
そこには、「何年の何月にどこで」が表示されているのですが、その絵とともに、その日付がどんどん私に迫って来て、必ずそれを確認せずにはいられなくなりました。
彼らの没年の圧倒的多数は1944(昭和19)年、45(昭和20)年に集中しているのです。これは戦局がますます悪化してきたことから当然予想されることですが、敗戦決定(1945年=昭和20年8月15日)の時点から2ヶ月前、3ヶ月前、あるいは7月23日などというのを読むと、「おい、もう三週間、生きていられなかったのか」とつい問いかけたくなるのでした。
戦火をくぐり抜け傷みが激しい作品も
よく、昭和天皇の「ご聖断」によって戦争が終わったのだからありがたく思えという人たちがいます。
もしほんとうに「ご聖断」が戦争を終わらせることが出来たのなら、なぜもっと早くその「ご聖断」を下さなかったのでしょうか。広島や長崎に原爆を落とされ、ずたずたになってからの「ご聖断」による「終戦」というフィクションにはついて行けません。それはたんに敗戦の追認でしかありませんでしたし、しかも遅すぎたそれでした。
もし、ほんとうに「ご聖断」に力があったのなら、昭和天皇は責められるべきです。なぜもっと早くその「ご聖断」を下さなかったのか、それが遅れたばかりに、多くの画学生はむろん、広島や長崎、そして沖縄の人々、米軍の絨毯爆撃にさらされた本土の都市部の人々の命が失われたからです。
昭和天皇の「ご聖断」によって戦争が終わったのだと強弁する人たちは、実は昭和天皇の戦争責任を別の面から立証しているのだと思います。
はっきりいって、開戦の「ご聖断」そのものが悲惨の始まりなのですから、せめて敗戦時の「ご聖断」ぐらいは時宜に即してもっと早めに行うべきだったのです。
若き画学生たちの無念と、この「ご聖断」とを、切り離して考えることは出来ません。
戦争が悲惨であるという事実を確認するだけでももちろん意味があります。しかし、それがもたらされた過程と結末に関して、今一歩踏み込んで考えろと彼らは迫っているようでした。
さて、そろそろまとめねばなりませんね。
画家を目指すということは、自分の作品を観てもらいたいという一心でしょう。
ですから、彼らを悼む方法はその作品を観てやることだろうと思います。
遺された僅かな作品のうちに、彼らの熱い思いと満たされることがなかった未来への志向を共感すること、それが彼らにたいしてなし得る私の唯一のレクイエムだと思いました。
こうして彼らの作品を観ることができた今、積年の肩の荷が下りたように感じています。言い添えておきますが、決して戦争の史料として彼らの作品を観たのではありません。いまだ花開いたとはいえない蕾の段階ではあっても、その作品それ自体に寄り添い、それぞれが訴えかけてくるものをちゃんとそれなりに享受してきたつもりです。
未見の人たちは、信州観光のついでで結構ですから、是非足を運んでやってください。
外に出ると、私が絵に集中していた間に塩田平をよぎった通り雨が、ニセアカシアの白い花々をぬらし、丘全体にしっとりとした風情をもたらしていました。
無言館の名に反して、彼らの言葉が一瞬、幾重にも重なって聞こえたように思われたのでした。
*館内撮影禁止のため、絵画はネットからの引用です。
「無言館」の名で広く知られるようになりましたが正式には、「戦没画学生慰霊美術館<無言館>」という長い名前です。
この名前が示すように先の大戦で、不本意にも志し半ばにしてその命を奪われた若き芸術家たちの絵画作品を集めた美術館です。
館長は故水上勉の子息・窪島誠一郎さんで、自らも出征経験がある画家・野見山 暁治さんの協力を得て、何年にもわたり戦没画学生の遺族の方を訪問し、その遺された作品を収集したのがこの美術館です。
もう何年も前からこの美術館のことは知っていましたが、機会に恵まれず、やっと今回の訪問になりました。しかし、そのおかげで、2008年に開館した第二展示館も観ることができました。
こうした人たちの作品ですから、その評価は未定といえば未定で、ましてや私のようなその道に疎い者から見れば、どれもなるほどということになってしまうのですが、それでも、既に一定の画風を身につけた人のものや、それに至る過程で苦闘しているのではという人との違いは何となく分かるような気もしました。
しかし、その共通点はといえば、どれもがひたむきだということです。戦局がますます悪化し、画材などの物資も窮乏する中で、絵を描き続けるということはなまじっかなことでは出来なかったのだと思います。ましてや、自分自身が戦場に駆り出されることは十分予想できる状況下にあったのですから。
若くして戦没した人たちの作品ですから、当然点数も限定されていますが、ほんとうはもっともっと描きたかったに違いないのです。
この続きは帰ってから描くといって征ったまま還らなかったひと、これが最後とばかり覚悟を決めて描いたひと、出征の時間ぎりぎりまで未練たっぷりに絵筆を放そうとしなかったひと、それぞれの執着がひしひしと感じられる絵ばかりなのです。
家族に宛てた手紙や、戦死公報、絵画仲間の弔辞などもともに展示されていますから、否が応でも万感胸に迫るものがあるのですが、これらを見ていて思ったことを二点に絞って述べてみたいと思います。
そのひとつは、その作品の対象についてです。
先ほどいいましたように、これらの作品のほとんどは戦局押し詰まった時点でのものが多いのですが、そのどれにも戦争を思わせるものがないということです。
無言館というこの美術館のコンセプトを知らないでこれらの絵画を見たひとがいたとしたら、それらが、まさにあの戦争のまっただ中で描かれたものだということに気づくことはないかも知れません。
それほどこれらの絵画は戦争とは無縁のところで描かれているのです。
具体的にいえば、家族の肖像や故郷の風景、四季折々の風物など、そこには何万、何百万の人たちが殺し合っている状況とは全く異なった心象風景が描かれています。
ということは、彼らが願ったそうした安逸の世界から否応なしに、暴力的に引き離されて戦地へ送り込まれたことが伺えるのです。
第二展示館近くのモニュメント 溝の中には絵筆がはめ込まれている
これは、画学生に限ったことではありません。
「お国のために命を捧げる」という勇壮な言葉は、よほどの狂信者ではない限り表向きのもので、一般の人々はただ闇雲に戦地へと駆り立てられたのです。
「反戦」などと口走ろうものなら、直ちに治安維持法で処刑され、家族や親類全体が「非国民の一族」と罵られた時代だったのですから、まさに顔で笑って心で泣いて、死地へと赴いたのでした。
もうひとつは、彼ら画学生の没年の表示を読んでいてのことです。
そこには、「何年の何月にどこで」が表示されているのですが、その絵とともに、その日付がどんどん私に迫って来て、必ずそれを確認せずにはいられなくなりました。
彼らの没年の圧倒的多数は1944(昭和19)年、45(昭和20)年に集中しているのです。これは戦局がますます悪化してきたことから当然予想されることですが、敗戦決定(1945年=昭和20年8月15日)の時点から2ヶ月前、3ヶ月前、あるいは7月23日などというのを読むと、「おい、もう三週間、生きていられなかったのか」とつい問いかけたくなるのでした。
戦火をくぐり抜け傷みが激しい作品も
よく、昭和天皇の「ご聖断」によって戦争が終わったのだからありがたく思えという人たちがいます。
もしほんとうに「ご聖断」が戦争を終わらせることが出来たのなら、なぜもっと早くその「ご聖断」を下さなかったのでしょうか。広島や長崎に原爆を落とされ、ずたずたになってからの「ご聖断」による「終戦」というフィクションにはついて行けません。それはたんに敗戦の追認でしかありませんでしたし、しかも遅すぎたそれでした。
もし、ほんとうに「ご聖断」に力があったのなら、昭和天皇は責められるべきです。なぜもっと早くその「ご聖断」を下さなかったのか、それが遅れたばかりに、多くの画学生はむろん、広島や長崎、そして沖縄の人々、米軍の絨毯爆撃にさらされた本土の都市部の人々の命が失われたからです。
昭和天皇の「ご聖断」によって戦争が終わったのだと強弁する人たちは、実は昭和天皇の戦争責任を別の面から立証しているのだと思います。
はっきりいって、開戦の「ご聖断」そのものが悲惨の始まりなのですから、せめて敗戦時の「ご聖断」ぐらいは時宜に即してもっと早めに行うべきだったのです。
若き画学生たちの無念と、この「ご聖断」とを、切り離して考えることは出来ません。
戦争が悲惨であるという事実を確認するだけでももちろん意味があります。しかし、それがもたらされた過程と結末に関して、今一歩踏み込んで考えろと彼らは迫っているようでした。
さて、そろそろまとめねばなりませんね。
画家を目指すということは、自分の作品を観てもらいたいという一心でしょう。
ですから、彼らを悼む方法はその作品を観てやることだろうと思います。
遺された僅かな作品のうちに、彼らの熱い思いと満たされることがなかった未来への志向を共感すること、それが彼らにたいしてなし得る私の唯一のレクイエムだと思いました。
こうして彼らの作品を観ることができた今、積年の肩の荷が下りたように感じています。言い添えておきますが、決して戦争の史料として彼らの作品を観たのではありません。いまだ花開いたとはいえない蕾の段階ではあっても、その作品それ自体に寄り添い、それぞれが訴えかけてくるものをちゃんとそれなりに享受してきたつもりです。
未見の人たちは、信州観光のついでで結構ですから、是非足を運んでやってください。
外に出ると、私が絵に集中していた間に塩田平をよぎった通り雨が、ニセアカシアの白い花々をぬらし、丘全体にしっとりとした風情をもたらしていました。
無言館の名に反して、彼らの言葉が一瞬、幾重にも重なって聞こえたように思われたのでした。
*館内撮影禁止のため、絵画はネットからの引用です。
昭和天皇については、そもそも、事実がどのように奏上されていたのか、という問題がありますので、なかなか難しいと思います。226事件の際の昭和天皇の対応からすれば、戦況について正確に奏上されていたら、早い決断があったかもしれません。
もっとも、戦争責任は、為政者の問題ではなく、それを支持した国民全体の問題であると考えることが、再び悪夢を繰り返さないために、必要だと思います。
確かに昭和天皇が個人としてどこまで事態を掌握していたのかは分かりかねますが、むしろ問題はそうした絶対者の大御心がすべての決定権を持っていたという体制そのものだったと思います。
ですから、戦争責任は「それを支持した国民全体の問題」というのはある種、正論ではありますが、第一に、情報そのものが天皇にすら伝わらなたったかも知れないという状況の中で、ましてや国民には全く伝わらず、相次ぐ敗戦すら勝利の快進撃と伝えられていた中では、判断の基準そのものが予め奪われていたわけです。
さらには、そうした虚偽の情報からかろうじて正当なものを探り出した人たちがそれを語ろうにも、治安維持法やその他の弾圧法の網が作用してそれは全く不可能だったのです。
彼らのほとんどは、非国民として弾圧されました。
あるいは、横浜事件のように完全なフレームアップとして予め弾圧され、「非国民」の標本とされたのでした。
従って、昭和は既にしてそうした体制の中にあったのであり、敢えて国民の責任と言えば、明治維新に於いて絶体体制ではなく、民主共和制を選択すべきだったと言うことにもなりますが、そこまで遡行するのも無理でしょう。
ただし、おっしゃることに賛同できるのは、少なくとも今後においては、私たち全体が情報をちゃんと選択し、そのミスリードに備え、再び悲惨を実現させないようにすべきだと言うことだろうと思います。
そのためにも戦争については語り継がれるべきことが多いと思います。
太田元知事が、「沖縄についてその責任を自分に問うた唯一の人」といった意味、更には元毎日新聞記者の西山さんが「若泉の決起を誰も受止めなかった」といった本意が分かりました。
その番組は観ませんでしたが、お書きになっていることは分かります。
ある恣意的な価値基準が権威をもち、それに無反省に従って自ら思考し判断しないで安易に結論を出していたりすると、そうした事態に遭遇しますね。
私なども、若気の至りで、あ、これはダメ、これもダメと、ろくすっぽ確認もせずに切り捨ててきたもののうちに、今思えばこれを安易に否定してはダメだったのだと改めてほぞをかむようなことがたくさんあります。
そこにはある種の情報操作(権力によるもののみならず、日本の言説界そのものによる忌避)があり、私自身がそれを見抜いたり、自分で確認する努力を怠ったがゆえと思っています。
卑近な例では、「疑惑のデパート」と言われた鈴木宗男氏が、真っ白ではないにしても、それほど悪いやつではなかったようだといった例もあります。