岐阜県に大垣という市があります。
私の住まいからは30分もあればゆうに行ける街です。
しかもこの街、今を去ること60年前、戦中戦後に私が疎開地として5年ほど過ごした街なのです。もっとも、疎開地として過ごしたのは、この街の中心街から5キロほど離れた郊外のどちらかというと農村地帯でしたが。
そんなこともあり慣れ親しんだ街だということもあって、かえって近年はほとんど訪れたことがなかったのです。しかしつい先日、あるグループとともにこの街を歩く機会に恵まれました。
もちろん全く訪れていなかったわけではなく60年ぶりということではないのですが、随分久しぶりだというのは事実です。
果たせるかな、私の記憶にある街とはあちこちに「えっ」という違いがあって、それが新鮮でした。
水が水を呼んで・・・・・
この街、かつての戸田10万石の城下町で西濃地方の中心地であり、木曽から岐阜を通ってきた中山道が京都方面へ走り、一方陸路、水路で伊勢方面に通じる往年の交通の要所でもありました。
この街の自慢は、まず、「水の都」といわれるほど水が豊富なことです。
さほど大きなエリアでもないにもかかわらず、揖斐川を筆頭に15本もの一級河川が流れています。
豊富なのは河川だけではありません。地下水脈も豊富で、ちょっとした低地には自噴する泉があります。私が疎開していた頃も、2メートルほどの竹の節を抜き、地中に打ち込むとそこから水が湧き出るほどでした。
こうした湧水池があちこちに
その後、紡績工場など水を使う産業が集中し、無際限に地下水を汲み上げた結果、その水位は随分下がったといわれますが、いまなお、自噴を含めた湧水は豊富です。
市内の随所に湧水池があり、市民や近郷近在の人が水を汲みに来ます。
投句などいかがですか
この街のもう一つの自慢は、ここが芭蕉の「奥の細道」の終焉の地であるということです。元禄2年3月27日(1689年5 月16日)に江戸深川の採荼庵を出発した芭蕉は、東北・北陸を巡ってこの地にいたり、約半年後の秋、この主著を閉じたのでした。ようするに、ここが「奥の細道」の結びの地なのです。
蛤の二見に別れ行く秋ぞ
これが結びの地での最後の句で、これから揖斐川沿いの船旅で伊勢の国にむかうという別れの句ですが、蛤を「二身」に割ると行く先の「二見」をかけ、その割ると別れとをかけた随分技巧的な句です。
それに対し、江戸深川を旅立つときの句は、
行く春や鳥啼き魚の目は涙
で、やはり幾分の誇張はあるにしても、私としてはこちらの方が好きな句です。
右:きそ道 左:京ミち 北:たにくみ(西国33ヵ所お札納め所)道
それはさておき、そうしたこともあって、大垣の街には至る所に句碑があり、また、投句箱が設置してあります。
現代の芭蕉たるあなたも、この街を逍遙し、ひねり出した句など投句されてはいかがでしょうか。
話が暗くなりますので敢えて述べませんでしたが、私は幼少のみぎり、この街が戦火に焼かれるのを目の当たりに見ています。それのみか、それを見ていた私の仮住まいも、焼夷弾のとばっちりで半焼の憂き目にあいました。
それらの街が今日、水の都として立派に蘇っているのを見て安堵した一日でした。
写真を撮っていたら、おばあさんが出てきて、「うち、もうやってまへんの
や」とのこと。許しを得て撮影、「薄利多売」が面白い
私の住まいからは30分もあればゆうに行ける街です。
しかもこの街、今を去ること60年前、戦中戦後に私が疎開地として5年ほど過ごした街なのです。もっとも、疎開地として過ごしたのは、この街の中心街から5キロほど離れた郊外のどちらかというと農村地帯でしたが。
そんなこともあり慣れ親しんだ街だということもあって、かえって近年はほとんど訪れたことがなかったのです。しかしつい先日、あるグループとともにこの街を歩く機会に恵まれました。
もちろん全く訪れていなかったわけではなく60年ぶりということではないのですが、随分久しぶりだというのは事実です。
果たせるかな、私の記憶にある街とはあちこちに「えっ」という違いがあって、それが新鮮でした。
水が水を呼んで・・・・・
この街、かつての戸田10万石の城下町で西濃地方の中心地であり、木曽から岐阜を通ってきた中山道が京都方面へ走り、一方陸路、水路で伊勢方面に通じる往年の交通の要所でもありました。
この街の自慢は、まず、「水の都」といわれるほど水が豊富なことです。
さほど大きなエリアでもないにもかかわらず、揖斐川を筆頭に15本もの一級河川が流れています。
豊富なのは河川だけではありません。地下水脈も豊富で、ちょっとした低地には自噴する泉があります。私が疎開していた頃も、2メートルほどの竹の節を抜き、地中に打ち込むとそこから水が湧き出るほどでした。
こうした湧水池があちこちに
その後、紡績工場など水を使う産業が集中し、無際限に地下水を汲み上げた結果、その水位は随分下がったといわれますが、いまなお、自噴を含めた湧水は豊富です。
市内の随所に湧水池があり、市民や近郷近在の人が水を汲みに来ます。
投句などいかがですか
この街のもう一つの自慢は、ここが芭蕉の「奥の細道」の終焉の地であるということです。元禄2年3月27日(1689年5 月16日)に江戸深川の採荼庵を出発した芭蕉は、東北・北陸を巡ってこの地にいたり、約半年後の秋、この主著を閉じたのでした。ようするに、ここが「奥の細道」の結びの地なのです。
蛤の二見に別れ行く秋ぞ
これが結びの地での最後の句で、これから揖斐川沿いの船旅で伊勢の国にむかうという別れの句ですが、蛤を「二身」に割ると行く先の「二見」をかけ、その割ると別れとをかけた随分技巧的な句です。
それに対し、江戸深川を旅立つときの句は、
行く春や鳥啼き魚の目は涙
で、やはり幾分の誇張はあるにしても、私としてはこちらの方が好きな句です。
右:きそ道 左:京ミち 北:たにくみ(西国33ヵ所お札納め所)道
それはさておき、そうしたこともあって、大垣の街には至る所に句碑があり、また、投句箱が設置してあります。
現代の芭蕉たるあなたも、この街を逍遙し、ひねり出した句など投句されてはいかがでしょうか。
話が暗くなりますので敢えて述べませんでしたが、私は幼少のみぎり、この街が戦火に焼かれるのを目の当たりに見ています。それのみか、それを見ていた私の仮住まいも、焼夷弾のとばっちりで半焼の憂き目にあいました。
それらの街が今日、水の都として立派に蘇っているのを見て安堵した一日でした。
写真を撮っていたら、おばあさんが出てきて、「うち、もうやってまへんの
や」とのこと。許しを得て撮影、「薄利多売」が面白い