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『ニホンジン』が地球の反対側で辿ったもう一つの歴史

2022-10-15 16:35:42 | 書評

 『ニホンジン』というタイトルの小説がある。書いたのはガイジン(この言葉にはある種の違和感があってあまり使わないが)だろうか。「?」である。では、ニホンジン自身だろうか。これまた「?」である。
 ニホンジンでもないガイジンでもないとしたら宇宙人か。そんな訳はない。

         

 種明かしをしてしまうと、著者は日系三世のブラジル人作家で、1910年代にブラジルへ移民した日本人一家とその子供の世代、そしてその孫の世代である自分自身のアイディンティティに関わる問題を書いているのだ。こうしてこの書は前世紀末にまで及ぶ三代にわたる物語で、200ページほどの小説でありながら、構成としては大河小説の趣を持つ。

 初代は日本での貧困を逃れ、出稼ぎのつもりでブラジルへ出かける。ある程度蓄積できたら、できるだけ早く帰国し、残してきた父母を楽にさせてやりたいぐらいのつもりなのだ。彼らは、礼儀正しく、勤勉で、彼の地でも高い評価を得る。
 しかし、農業資本のもとでの労働の対価は、月末には同じ資本が経営する食料や日用雑貨の売店への支払いに吸収されてしまい、手元にはいくらも残ることはない。したがって、短期間に財を成して帰国できることが夢物語であることを知らされることとなる。
 

 それでも、ブラジルは仮の住まいだとしてポルトガル語を覚えたり、ブラジル人やイタリアなど他国からの移民と積極的に交わることはしない。それどころか、黒人などに対してはあからさまな差別意識すらもっている。

               

 二代目になると事情が変わってくる。ものごころついたときから日本以外の言語や風物の間で暮らし、どこかで、自分がハイブリッドな存在であることを意識している。
 

 したがって、ブラジル社会や他の移民たちとも積極的に交わり、とりわけ結婚などでの積極的離反を志す者も出てくる。一世のなかに深く根付き内面化されている「大日本帝国」は、二世にとっては何かしら外在的なものに過ぎない。

 それらは個的には二世の進路や結婚を巡っての問題だが、それがそうした個の問題にとどまらず、日本人移民社会全体を大きく揺るがす問題として鋭く突きつけられたのは、日本の敗戦をめぐっての騒動である。
 日本の敗戦を受け入れる「マケグミ」と、その情報自体がアメリカによるフェイク・ニュースに過ぎず、日本は勝ったのだとする「カチグミ」との相克である。

 そうした対立があったことは知っていた。しかしそれが、敗戦の一年以上後の46年にもなお継続するという長期にわたるものであり、また、カチグミのテロ組織シンド・レンメイ(臣道連盟)によるマケグミ襲撃を伴うほどの激しいものであったことは知らなかった。しかも、その襲撃において、15名もの死者を生み出しているのだ。
 この小説でも、当時、マケを主張して殺された人が史実どおりの実名で出てくるし、この小説での登場人物の一人も殺され、それがこの小説のクライマックスをなしているともいえる。

 カチグミの根拠のひとつに、マケたのなら天皇ヒロヒトが生きているはずがない、彼が生存していること自体がマケていない証拠だというのは象徴的だ。
 たしかに当時、ブラジルは遠く、情報過疎地であったかもしれない。しかし、当時の政府の海外にいる日本人に敗戦の事実を知らせる試みは全く不十分だったといわざるを得ない。
 満蒙開拓団を見捨てていち早く引き上げた関東軍同様、海外移住者に対する棄民にも等しい態度が一般化していたのではないか。

  

 小説は、作家と同じく、この小説の語り手でもある移民三世が日本へ行く決意をするところで終わっている。ただしそれは、もはや一世が強く抱いていた望郷の念による「帰国」ではない。
 主人公が作家の分身であるとするならば、三世に至り、自分たちの歴史を相対化して見つめようとする志向が可能になったともいえる。だから彼の日本への「移動」は、自らの原点を確認し、そこから父祖のたどった道を再確認するための行為のように思われる。

 いろいろ書いてきたが、この小説のネタバレになるようなことは避けてきたつもりだ。興味のある方は読んでみて欲しい。
 この出版は、今年がブラジル独立200周年に当たるところから、他のブラジル文学とともに企画されたものである。

 なお、この出版元の水声社はけっこう面白い刊行物を世に送っている。

『ニホンジン』 Oscar Nakasato   訳:武田千春  水声社 

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