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偶然触れた読書録『私はゼブラ』文学のみを愛せよ!

2021-01-12 15:26:42 | 書評

 『私はゼブラ』(原題「Call Me Zebra」)
     アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ 木原善彦:訳 白水社

 この著者名をみて、どこの国の人のどういう人か分かる人はよほど世界をよく知っているか、あるいは文学事情に詳しい人だ。私にはさっぱりわからなかった。

 図書館へ出かける際には、自分の抱えているテーマに即した書など、予め照準を定めて行く。しかし、それのみ借りて「ハイさようなら」ではなんとも味気ないので、新着図書の棚も覗いてみる。
 そこで目についたのはこの書だ。というよりこの著者名だ。アザリーンはともかくヴァンデアフリートオルーミという姓は・・・・? 横文字標記では Azareen Van der Vliet Oloomi とある。

           

 ん?と巻末の著者略歴をみてみる。1983年生まれ、イラン系アメリカ人女性とある。複数のアラブ諸国が、アメリカの仲介でイスラエルと国交を回復するなか、反米の旗を降ろすことなく抵抗し続けるイラン、そこをルーツとする作家、それだけでも面白そうなシチュエーションではないか。

 さらに経歴を読みすすめる。この書は、彼女にとって2作目の小説で、第1作は邦訳されていないが、新進作家を選んでサポートするホワイティング賞を受賞しているらしい。さらにこの『私はゼブラ』では、ウィリアム・フォークナー記念の文学賞、ペン/フォークナー賞を受賞したとある。
 
 ただし、アメリカの文学賞などの事情に暗い私にとっては、それがどれほどの権威があるものかはさっぱりわからない。だいたいにおいて、賞の権威がよくわからず、ノーベル文学賞もほとんどスルーなのだから当然のことだ。
 ただし、カズオ・イシグロは別で、どんなきっかけだったかこれは面白いと読みはじめ、邦訳があるものはほとんど読んだ後にノーベル賞が決まったのだった。

 話を戻そう。経歴はともかくとして、問題はその内容だ。本文をペラペラっとめくってみる。目に付く言葉たちを追って驚いた。
 そこには、古今東西の思想家や文学者たちの名前があるいは列挙され、あるいはほとんどのページごとに散見されるのだ。例えば以下のような人々が。

 プラトン ニーチェ ベンヤミン ブランショ エドワード・サイード ハンナ・アーレント
 ホメロス ダンテ ゲーテ セルバンテス スタンダール リルケ カフカ 清少納言 松尾芭蕉

 実はこれは、彼女が触れている名前の半分ほどに過ぎない。というのは残りの半分は私が全く知らない人々なのだ。それらの人々は、おそらく欧米文化の中では周知だったり、何よりも彼女のルーツ、中東、アラブ圏でよく知られた人々なのだろうが、浅学の私には馴染みがないものだ。

            

 で、借りてきて読むことにした。
 物語は、彼女の実人生と重なるような部分もあって、イランにあって、代々、「独学」「反権力」「無神論(あらゆる権威の否定)」の三つを掲げ、「文学以外の何ものを愛してはならない」を家訓とするホッセイニ一族の末裔としての主人公ゼブラが、その父母とともに独裁権力に追われ、イランをあとにしてトルコ経由でアメリカに亡命する過程を前置きとし、父母を失いながらも成人した彼女が、自分の亡命の行路を逆に辿り直す話である。

 その亡命の途次、彼女の父親(アッバス・アッバス・ホッセイニ アッバスの繰り返しは誤りではない)はまだ幼い彼女の耳許に、その家訓と、古今東西の思想家、表現者のありよう、その言葉を絶えず囁き続け、それらはしっかりと彼女のなかに内面化され、その立ち居振る舞いを形成するに至る。もちろん、その父親のガイドに従い、彼女自身がそれらを読破し、それを元にしたノートを持っている。

 こうして、その家訓を実践する限り、彼女はどこにあっても「亡命者」たらざるを得ない。なぜなら、この世を取り巻く「俗世」は、それぞれ恣意的な権威を疑うことなくその前提として成り立っているからで、常にそれを指差し、「それはなにか?」とソクラテス風に問うことをやめない彼女は疎まれることになるからだ。

 客観的に観る限り、彼女の立ち居振る舞いは、風車に挑むドン・キホーテのように滑稽なものたらざるを得ない。彼女を取り巻く人々は割と彼女に寛容なのだが、にもかかわらず、そこにはさまざまな齟齬が生み出されることとなる。そしてそれらは、先に掲げた三つの家訓を守る限り、彼女にとって避けられない運命なのだ。

 もし彼女が私の周りにいたとしたら、バルセロナで彼女が出会った恋人以上恋人以下の文献学者、ルード・ベンポがそうであるように、いささか面倒で、その対処に困惑するだろうことは間違いない。
 しかし彼女は、私たちがもっている日常的な合理主義に屈しない文学的精神状況を、純粋に凝縮した存在だとしたらどうだろう。

         

 何がいいたいかというと、現実にこの世の中を支配している連中は、文学や芸術などなくったって一向に構わない、むしろ不合理ともいえるクレームを差し挟むそんなもののはない方がいいくらいに思っている効率一辺倒の輩である。たしかに、表層の歴史は彼らによって進められているようだ。

 しかし、一方では、それらとは断絶した、というか常にそうした効率世界の裏面に張り付いている精神世界も存在する。今様にいえば、「不要不急」をこそエネルギーにした詩的、芸術的世界の展開だ。
 それらは、古代から連綿として続く精神の歴史ではあるが、自らに意識的になったのは19世紀末ぐらいからかもしれない。
 それが、ニーチェ、ハイデガー(彼女の書には登場しない)、カフカ、ベンヤミン、ブランショ、サイード、アーレントなどの系列かもしれない。

 アーレントは、彼女の小説では、ベンヤミンに忠告する存在として2、3度登場する。彼女は、現実政治を追求したかのように思われがちだが、政治をこれまでの概念から解き放ち、人が「何」ではなく「誰」として立ち現れる場として思考する限り、分配の効率化を図る現実政治とは一線を画す。その意味では、しばしばその離反が語られるハイデガーとの関連においても、彼女はやはりその系列に属しているというべきだろう。
 
 今年はじめて読んだ長編小説はそんなことで、かなり「形而上的」なそれであった。 
 主人公ゼブラは、極端で常に危なっつかしい存在ではあるが、読みすすめるにつれ、なんとかこの現実のなかでそのありようが維持できないものかと思わせるに至る。たとえそれが周辺からは滑稽に見えようとも、そこにはしばしば崇高さの片鱗があるように思うからだ。

 https://english.nd.edu/people/faculty/vandervliet/


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