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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【恨み節】何たるチア! 惨たるチアの失われた一年!

2021-01-11 11:37:26 | よしなしごと

 みんなが「おめでとう」というから、私もそれをオウム返しにしてきた。だがほんとうは、忌々しい気分でいっぱいなのだ。
 何がって、昨年一年のほとんどを覆い尽くし、年が改まってもなお深刻さを増しているこの事態についてだ。

         
  
 この呪われた一年は、享受に関するほとんどの機会を私から奪った。コンサートや映画、親しい人々との飲食を伴う会話、その他各種催しの中止など、本来なら与えられていたことどもがことごとくスルリスルリと失われていった。自粛という監視と、私自身の内なる恐怖のために。

            

 若い人たちには、これもまたいい経験として蓄積されるかもしれない。しかし、八十路を過ぎた私にとっては、そんな経験など要らないのだ。その経験が今後に資するよりも、その経験が奪いつつあるもののほうが遥かに大きいのだ。

            

 考えてみてほしい。私の残された時間は、あと2、3年かもしれない。数年というのは行幸の部類で、10年というのは奇跡なのかもしれない。たとえそれを永らえたところで、さまざまなことどもをちゃんと享受できる状態にあるとは限らない。そんな状況下で一年以上がほとんど虚しく失われてゆくのだ。

         
 
 耐え難い喪失感がひしひしと感じられる。肉体的な老化の進行はむろん、刺激を受け、他者と触れ合う機会の減少は私の認知能力における後退を確実に押し進めている。

 ニーチェは、自分に課せられた生涯を、恨みつらみで解釈するいわゆるルサンチマンの立場に対し、その生をちゃんと受け止める運命愛、生の肯定、セ・ラ・ヴィを説いた。もちろん、理不尽なものを受け入れよということではなく、それらに対しては敢然と抵抗することによって、自己の生を肯定できるものにせよという倫理がその背後に張り付いている。

         

 私もそうありたいと思う。しかし、今直面している事態を手放しで肯定することは難しい。せいぜい、この強いられた緊張をそれなりに対象化しながら、「コンチクショウ!」と喚くのも生の肯定のひとつのありようだと思うのだがどうだろう。

 写真は自宅付近 こんな降雪が今年は既に3~4回 豪雪地帯には申し訳ないほどだが

コメント
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