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生殺しの「戦後」&その亡霊 ジョン・ダワーを読む

2020-11-16 11:35:23 | 書評

         

 『敗北を抱きしめて』上・下 著者:ジョン・ダワー(岩波書店)について

 上・下巻合わせて1,000ページほどある書を、1ヶ月かけて読了した。遅いと思われるかもしれないが、ほかの読書と並行してであるし、時には、ほかの資料にあたって事実を確認しながらの読書であった。ノート(PC上)をとりながらの読書で、とったノートは、A4、12ポイントで20ページにのぼった。
 もちろんこれは、言い訳に過ぎない。時間をとった主たる要因は、私の読書能力、そのスピードと読解力の衰えに他ならない。

         
 実は、これは2回目のチャレンジで、前回は上巻の中途で、一身上の都合で断念せざるを得なかったものである。今回、やっとそのリベンジが果たせた次第。

 著者のアメリカ人ジョン・W・ダワーは歴史学者で、現在はマサチューセッツ工科大学名誉教授。この書は全米で大きな反響を呼び、ピュリッツアー賞ほか多くの賞を受賞している。日本では、大佛次郎論壇賞特別賞を受賞している。
 日本への滞在歴があり、その連れ合いは日本人だというから、その折に知り合ったのかもしれない。

         
 内容に関しては、1945(昭和20)年8月15日の日本の敗北を起点に、連合国(実質はアメリカ軍)の占領が終わるまでの間を「総合的、俯瞰的に」明らかにしたものである。
 とはいえ、単純な8月15日転換点論ではないし、戦勝国側からの一方的観察でもない。また単なる実証主義的データの羅列でもなく、彼自身の時には模索し、反芻し直す史実の解釈が縷々展開されるし、その眼差しは批判者のそれである。

         
 その視野は極めて広い。政治、経済、文化、その裏話やサブカルの分野に至るまで、全てが彼の展開領域で、それらを通じて戦後の全容があぶり出されてくる。
 とりわけ私が興味を覚えたのは、加藤典洋がその『敗戦後論』で展開した「戦後のねじれ」、戦後民主主義が内包する脆弱さの問題、戦後が抱えたダブルスタンダードなどなどが、論理としてではなく、膨大にして豊富な多領域にわたる実例として、終始一貫、見て取れることである。

            

            米よこせデモ(1946年)のプラカードから
 

 この、米日合作の「戦後」という歴史は、当然のこととして今の私達を規定しているし、その呪縛から抜け出す道も見えていない。そんなものは、古~い過去の物語だとして現今の課題にのめり込む人たちも、お釈迦様の手のひらから抜け出せなかった孫悟空のように、「戦後の手のひら」の上でもがいているだけかもしれない。

 それほど広くて長いスパーンをもった物語であると思う。
 口惜しく思うのは、なぜこれらが日本人によって語られることがなかったのか、どうして自らの戦後をこれほど鮮明に対象化できなかったかである。いささか堂々巡りになるが、それが不可能であったことのうちに、私たちの「戦後」受容の問題点があったともいえる。

            
 私はこの書を読みながら、そのそれぞれの事例に対し、幾度も経験の共通項のような懐かしさを感じたのだったが、読み終わった後、彼の経歴を知ってその謎が解けた。
 彼は、私と同じ1938年生まれであり、戦勝国民と敗戦国民という違いはあれ、同じ時代を生きてきて、同じ時代をそれぞれのベクトルで見たり、感じたり、思考の対象としてきたのであったであった。

コメント
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