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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の老いの進行、そして『中くらいの友だち』ってなんだろう?

2018-01-16 00:44:06 | 日記
 歳はとりたくないものだ。これ自身、年寄りの慣用語だが。

 ことの起こりはこうだ。旧知の方から同人誌を頂いた。こうした場合、よほど私と縁のない分野やまったく興味のないものを一方的に送りつけられた場合以外は、ちゃんとお礼状を差し上げ、私の理解に及ぶ場合には読後感などお送りすることにしている。
 その場合もそうするつもりだった。
 後述するように、その内容も、エスニックな街・名古屋の今池で30年を過ごした私にとって興味のあるものだった。
 それが昨秋、10月末のことだった。

 年が改まり、10日も過ぎた頃、買ったり、図書館で借りたり、頂いたりしたままで、まさに積ん読状態になっている書籍類を整理していたとき、「それ」は出てきた。
 「それ」とは、上に書いた10月末に頂いた同人誌だった。
 あまり厚くはないその雑誌は、不幸にして他の書籍の間に鎮座ましまして、私の目から遠ざけられていたのだった。

 改めてそれと対面したとき、ドッと汗が流れるような衝撃を覚えた。なんという失礼なことをしてしまったのだろう。せっかくお送りいただいたものを無視したまま放置するなんて・・・・。
 併せて、それを頂いたことをすっかり忘却していたという事実に対して、さらなる衝撃を覚えた。年齢とともに記憶力が低下するのは致し方ないとしても、これほどの忘却はこれまでなかったからだ。
 自分なりの言い訳はある。これを頂いたすぐ後、私自身の所属する同人誌のメンバーにして先達の風媒社の稲垣さんが急逝され、ショックで動転し、塞ぎ込んでいたことがそれである。
 しかし、落ち着いた時期に思い起こす力が失われていたことは厳然たる事実だし、その結果礼を失したことも事実である。

 慌ててお詫びの葉書を書いた。それに対していただいたご返事もちょっとショックだったが、それはまあ許容範囲である。
 というのはそのご返事では、私はその当時、一応、頂いた旨のお礼の葉書は出し、その上で改めて感想などをお書きするといっていたというのだ。
 
 それすらをも忘却していたというのはちょっと問題なのだが、実は私の方にも、お葉書だけは出したかもしれない(あるい、はそれも出していないかもしれない)というグレーな記憶があったからだ。
 いずれにしても、頂いたままほとんど放置し、読後感などお送りしていないのは事実だし、その間の私の記憶が極めて曖昧なのも事実だ。

              

 前置きが長くなったが、お送りいただいたものについて触れたい。
 タイトルが雑誌のそれとしては実にユニークである。
 『中くらいの友だち』というのだ。この雑誌のキャッチコピーは「韓国を語らい・味わい・楽しむ雑誌」とある。
 送付していただいた方のお手紙にはこうある。
 「・・・・主に韓国に暮らす日本人と〈在日韓国人〉が中心となり」ということで、書き手はそうした人々で、彼らが「韓国と出会ったことではじまる人生の機微が多種多様につづられている」と。

 そのとおりである。しかし、これだけでは「中ぐらい」はわからない。「創刊の言葉」のなかにそれが語られているのだが、私なりの読みでそれを見いだした箇所があるのでそれを述べたい。

 この号には、映画研究家で評論家、エッセイストで、韓国建国大学の客員教授をつとめたこともある四方田犬彦(この人の著作はかなり前に2,3は読んだことがある)が寄稿しているのだが、そのなかにこんな記述があった。
 彼は、『われらが〈他者〉なる韓国』という著書を出す際、「韓国とは何かという問いにまだ自分が答えられずにいる」とその刊行を躊躇していたという。それを故中上健次に話したところ、「馬鹿だなあ。日本人には一生かかってもわからないんだから、いままで考えたところだけでいいから、途中経過として出しておけよ」と一喝されたという。

 私はここに「中くらい」の意味するところがあるように思う。
 まったくの無関心はもってのほかで「友だち」とはいい難いが、反面、「完全な理解」に基づくマブダチというのもまた危うさをはらむのである。
 こうした「完全な理解」を目指す場合、些細な差異が契機で決裂することがある。その意味では「中くらい」の交わりをベースとしながら、それらを育んでゆく方がリアルな関係といえる。中上健次風に言えば、まさに「途中経過」でいいのである。「完全な報告」はむしろそれで終わってしまう。

 この同人誌の具体的な内容は、そうしたコンセプトを受けて、バラエティに富んだ記事が多い。
 「ソウル鞍山物語」の伊東順子は、マスター・リーという老武術家を通じて、韓国の人びとの海外移住の一側面を描いているが、併せて、東洋においての類似する武術、テコンドー、空手、琉球空手などの相互関係、差異と同一性なども垣間見させて面白い。

 また日本人のバンドでありながら韓国でデビューし、活躍を続けるコブチャンチョンゴルに所属するミュージシャン、佐藤行衛(この人の歌がいい。下記添付のYouTube参照)の音楽と食についてのエッセイは痛快で面白い。「メニュー=お品書き」と題する自分たちのアルバムに即した韓国のB級グルメの紹介はちょっと恐ろしかったりするものの、怖いもの見たさ(食いたさ?)で奇っ怪にも面白い。

https://www.youtube.com/watch?v=nd9js03e_4M&list=PLDERdQUW8woWS8frg6cnOcmDGb9-DiO42

 その他、韓国と日本での接客の違いを一つの考現として漫画付きで表現したものや、食についての考察も面白い。

 韓国の伝統的農楽、サムルノリの担い手にして舞踊家、金 利恵(私はこの人の公演を見たことがある)の「私のソウルものがたり」は、その内容もだが、それを語る文章が端正で素晴らしく、光るものがあると思った。

 その他、肩肘張らないで読みならが、まさに普段着でありながらすこしレアな韓国を知ることができる。

 『中くらいの友だち』の書き手は、私のような平均的日本人からするとやや特殊は人たちである。そしてそれを前提にして読むだけで結構面白いのだが、私はついそれを韓国と日本との現実的な関係のなかでの私のような平均的日本人のありようの問題として考えてしまう。
 この両国は、かつての歴史を背負う中で近くて遠く、かつ遠くて近いかのようで、微妙なズレをもっている。
 この同人誌の書き手たちはその存在そのものにおいてそれを中和する役割を担っているのであるが、一般的なこの両国の関係の問題としても「中くらい」の概念が活かせるのではないだろうかと思うのだ。

 私が具体的にイメージしているのは、四方田犬彦の文章にあったような中上健次の喝破したところである。要するに「完全な理解」などというのは不可能なのだし、そんなものがあったとしても、ちょっとした差異の出現によってもろくも崩れるのであるから、「途中経過」としての「中くらい」からの出発でいいのではないかということだ。
 この場合の「中くらい」は、足して2で割るような算術的なものや、利益配分のようなものではない。差異は差異として認め、未解決な問題の所在はそれとして認めながらも仲良くし得る道としての「中くらい」は、いい意味でのプラグマティズムのそれでもある。

 神ならぬ私たちは、所詮、自分の置かれた立場からしかものを考えることはできない。もちろんそれは相互にそうなのだ。だとするならば、自他共に「完全な理解」は望むべくもない。
 そこで、「中くらい」が生きてくるのではないだろうか。

 この同人誌に戻ろう。ここでの書き手たちは、みな「中くらい」を悠然と生き、それを表現している。
 だから、まだ一度も韓国へ足を踏み入れたことがない私は、ソウルの屋台文化や、地方都市にぽつねんと建つ高い塔(この記事も面白かった)に掛け値なしの憧憬を覚えることができるのだ。

 銀子さん、申し訳ありませんでした。そして、改めてありがとう。
コメント (4)
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