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「男性チア」・「#MeToo」・ハンナ・アーレントそして『泣いた赤鬼』

2018-01-08 11:30:45 | 社会評論
 7日付「朝日新聞」の「希望はどこへ」への朝井リョウの寄稿は面白かった(名古屋版では7ページ)。
 ここで朝井は、男のチアリーディングの普及に力を入れている友人との会話を紹介しているのだが、この友人の気持ちの推移が実にリアルで共感できる。
 というのは、彼が知人に、「男性チアをやっていた」と話すと、「女がやるものだろう?」とか「ミニスカはいて踊っていたのか?」といったいくぶん揶揄がこもった応答が返ってきたというのだ。そうした反応に対して彼は、嫌悪感を抱きながらも、一緒に笑ったり、過剰におどけてその場をやり過ごしてきたというのだ。

          

 しかし、ここからが大切なのだが、彼は最近、そうした揶揄や嘲笑に対し、自分をごまかして受け流すことに強い抵抗を感じるようになったというのだ。それを促したのは、彼の後輩たちの男性チアへの熱心な取り組みを考えたからだという。
 それについて彼はこんな言葉で語ったという
 「俺が嫌だと思った言葉を受け流すってことは、次の世代にその嫌な言葉が流れ着くってことなのかなって」
 それ以来彼は、男性チアへの嘲笑や揶揄を受け入れない、少なくとも自分もその場に合わせてヘラヘラ笑うことをしないようにしたという。

          

 朝井リョウはそれを、「#MeToo」に関するインタビューで語った女性小説家の言葉と重ね合わせる。
 「私たちが声を上げてこなかったから、いまも若い女の子たちが被害を受け続けているとしたら」
 そうなのだ、チア男子が受けていた揶揄も立派なハラスメントであり、それを受け流すことは次世代までそれを持ち越すことなのだ。

 私は「#MeToo」のムーブメントを、侮辱されたらそこで闘えということだと理解している。それを教えてくれたのはハンナ・アーレントである。
 彼女の最初期の論考に『ラーエル・ファルンハーゲン―ドイツ・ロマン派のあるユダヤ女性の伝記』という書がある(執筆は1920年代から30年代はじめ。ただし出版は50年代後半)。
 ラーエル・ファルンハーゲンはドイツ系ユダヤ人であるが、極力それを隠し、非ユダヤ人に「同化」することによって、18世紀から19世紀初めにかけてヨーロッパ社交界に名を成した。彼女のサロンにはゲーテを始め往時のヨーロッパの著名人が出入りしていたという。

          

 アーレントはこれを批判する。周囲がいわれもなくユダヤ人を差別抑圧するとき、自分の出自を隠してこれら差別者と「同化」することは、自分もまた差別者の側に回ることだと。
 ようするに、男子チアの場合でいうならば、それを揶揄する人びとに自分を同化し、ヘラヘラ笑っているということは、自分もまたハラスメントの側にいるということに他ならないというわけだ。
 男子チアの彼がその態度を改めたように、ラーエル・ファルンハーゲンもまた、晩年、自分はユダヤ人女性であることを深い述懐とともに確認するに至る。
 その足跡を辿ったアーレントは、最後には、「ラーエルは150年前の人ですが、私の親友です」といっている。

          

 私はこれらの話から、濱田廣介の童話、『泣いた赤鬼』を連想する。
 赤鬼は、人間と仲良くなりたいばかりに、友人の青鬼を悪者に仕立て、それを退治することによって人間社会へ受け入れられる(差別者への同化)。しかし、赤鬼は、自分が人間に同化することを追い求めるあまり、真の親友、青鬼を失ったことに気づき泣くのである。

 これらはすべて、差別と同化の物語である。差別者に同化することによって得られる平穏は一時的なものであり、それは差別者の側に加わる、ないしは差別を黙認することである。
 アーレントのいうように「差別されたら、そのとき、その場で闘え」というのはそれに対する正当な立場ではないだろうか。

 そんなことを考えると、「#MeToo」というムーブメントは、女性に対するハラスメントにとどまらず、あらゆる差別者、差別されたくなければ同化せよと迫る者たち全般に対して広まる可能性を秘めているように思われる。

 朝井の友人が話していた男子チアのはじめての全国規模の大会が今春開かれ、朝井も出かけるという。「男らしくない」という馬鹿げたハラスメントが払拭される日も近いだろう。





コメント (2)
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