六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「ポスト真実」時代に関するドイツの友人への返信

2017-10-29 01:52:44 | 社会評論
 前回のブログに記した拙文に対し、ドイツのライプツィヒ大学の教授をしている若い友人K氏から丁重な感想が送られ、彼が少し前、『文學界』に寄せた同趣旨のエッセイを添付してくれました。
 彼が、現状の趨勢について、見るべきものはちゃんと見ていると、改めて思った次第です。
 以下は、そのメールに対する私の返信です。

   ===========================================

 エッセイ、拝読しました。
 さまざまな「偏り」が、それ自身の牙城を築くなか、いわゆる「共通感覚」のようなものが崩壊しつつあるのではという気もします。

             

 私自身、まだ整理していないのですが、1990年代中頃からネットへ接近してきた経由から考え、いま直面している問題と、インターネットという情報伝達との関連性についてもいろいろ考えています。
 当初、それが登場した折、既存のメジャーが一方的に垂れ流す情報伝達と異なり、その双方向性、誰もが発信者たりうる可能性は新しい局面を切り開くツールたりうるかもしれないという期待感がありました。
 しかしそれは、どうも、諸刃の剣であったようです。

             

 情報選択の可能性は、同時にそのタコツボ化をもたらしました。それがフィルター・バブルといわれる現象だと思います。ネットの場合、情報がそれらの総体的、かつ相対的な位置づけから分離されて、それ自身として並列に提供されます。
 
 それを示すのが新聞との対比です。
 新聞の場合、紙面という媒体のなかに様々な情報が、発行元や編集者の主観を経由するにせよ、総体的かつ相対的な位置づけをもって提示されます。そこで私たちは、どの情報がどのような比重をもっているのか、あるいはそれがどのジャンルに属しているのか、そしてそれらがどう関連しているのか、などなどを無意識のうちにも感得し、それらのなかでその情報を位置づけて受容します。
 こうした新聞のあり方は、政権の広報誌のような読売や産経などの新聞を含め、いろいろな立ち位置の相違はあっても、ある種共通したものをもち、それ自体は広い意味で「共通感覚」のうちにあるような気がします。

             

 しかし、現今、新聞は徐々にそのシェアーを失いつつあります。とりわけ、ネットを情報授受のツールとして尊重する部分に於いてはまったく新聞を読まない層が増加しつつあります。
 知り合いで、某大学で情報分野の講師をしている人が、情報を学ぶ学生の多数がもはや新聞をまったく読んでいない状況に愕然としていました。

 ネットと新聞という対比にのみ力点を置いては論じきれない問題なのでしょうが、いずれにしてもネットという媒体の功罪がいま一度俎上に乗せられるべきだろうと考えています。

 長くなりました。
 またいろいろご教示いただきますよう。

             
 
《追伸》 スペイン・カタルーニャの独立のニュースが入ってきました。
 グローバリズムが進むなか、ナショナリズムや宗教対立など、一方では分散化が作用する複雑な情勢になってきたことをひしひしと感じます。  
 先ごろ読んだ「ポスト真実の時代」で、津田大介は、現行の情報のあり方をグローバリズムとナショナリズムの二重性として位置づけていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする