六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

先達にして同人、稲垣喜代志さんを悼む!

2017-10-31 14:27:22 | ひとを弔う
 私の家の居間にここ20日ぐらい前から、新しい絵(正確にはリトグラフ)が飾られるようになった。タイトルは「海」らしい。「らしい」というのは作品のなかにはそれと明記してあるわけではなく、私にそれをくれた人がそう言ったからである。ただし、後日ネットで確認はとったがやはりそうだった。

 全体に黒のモノトーンンによる墨絵のような作品であるが、縦長のそれの三分の二以上を空が占める。その下が海なのだが水平線は水平ではなく弧を描いている。
 画面右側からは岬、ないし半島が突き出ていて、右手前にはその半島のものと思われる岩礁が描かれている。
 よくみると、水平線と半島が交わる辺りの上空に、10羽近くの鳥が飛翔している。

            

 どこか底知れぬ寂寥感が漂うが、にも関わらずそれ自身は決して無機的ではなく、かつての童謡や唱歌の短調の曲のように、どこか人恋しく、懐かしさを覚えるような作品だと思う。
 なお、この半島は知床だということだ。
 
 画家は香月泰男。旧満州で兵役中に敗戦、ソ連軍によりシベリアに抑留され、収容所で強制労働に従事した。そのせいで、シベリア・シリーズなどそれを画題にした作品が多い。
 私の養父(実父はインパールで戦死)がほぼ彼と同じ経験をしているせいもあって、私自身も彼の作品にはシンパシーを持っている。

 この絵が私のうちに来たについては以下のような事情がある。
 私はここ8年ほど、同人誌『遊民』に関わってきた。この雑誌は2010年平均年齢76歳で発足し、この月初めに刊行した16号でもって終刊を迎えたが、現在の平均年齢は83歳に至っている。
 中部地区発の緩やかな、しかし一本筋が通った連帯をバックとした雑誌で読者はこの地区のみならず、北海道から沖縄にまで点在し、熱心な感想をくれたりするコアな支援者たちに支えられてきた。

 当初の主宰者、伊藤幹彦さんが病に倒れた結果、この雑誌の後半の編集作業は私に託されることになった。
 この同人の中では私は若造でしかなかったが、編集を託された以上、年長の先達をも相手に、原稿の遅れなどをチェックし、時にはやや強くそれを促すこともしなければならなかった。
 その先達のひとりにしていつも遅筆で、最も私がマークしていたのが稲垣喜代志さんだった。
 その稲垣さんの訃報が入ったのが10月28日の夜半であった。

 彼が連載していた「怪人・加藤唐九郎伝」は、若くして唐九郎に魅せられ、その内懐にまで入って親交を結んだ彼にしか書けないもので、多くのファンをもっていた。
 それだけに、欠筆のままの発刊は避けたいところであった。残念ながらそれは2号を数えたが、終刊号は私のマークがあっけないほどに締め切り前にちゃんと入稿があって有終の美を飾ることができた。しかし心残りはまだまだ未完ということであった。
 
 最終号の見通しがったったある時、私は機会を見て稲垣さんと話し、2つの点で詫びを入れた。そのひとつは、毎号毎号、締切が迫るにつれ、稲垣さんの出来具合を厳しくチェックし、その遅れをただすように督促を続けたことへのそれであった。
 そして第2には、その「唐九郎伝」が未完のまま終刊しなければならなくなったことであった。

 そうした私の詫びを、まったく意に介さないと言ってくれたのみか、ご苦労だった、ついては君にもらって欲しい絵がある、とのことだった。
 いささか驚き、かつ嬉しかった。若輩者の私の無礼を水に流してくれるのみか、それを評価し、記念のものすらいただけるというのだ。

 後日、名古屋のホテルのロビーでお逢いし、それをいただくこととなった。そしてその折にいくらかの話を交わした。
 私の方からの話は、もっぱら未完の「唐九郎伝」で、ぜひ何らかの媒体で書き続けるか、描き下ろしで単行本にまでもっていってほしいということだった。
 稲垣さんからは、君は勉強家だからこれからも新しいことを学ぶだろう、どこかそれを発表する場があればいいのにという温かい言葉を頂いた。

 それが、冒頭に書いた香月の絵が私の家の居間にあるいきさつである。

                 
 
 稲垣さんについては多くを語るまい。知る人ぞ知るだし、添付した新聞記事が要点をうまくまとめている。
 ただ私との、30年ほど前に遡る個人的付き合いについては若干述べておこう。

 最初の出会いは私がやっていた「炉端酒房 六文銭」の顧客としてだったが、もちろん風媒社という出版社は知っていた。常連となってくれた稲垣さんは、晩年と違ってけっこう飲んだ。カウンターを挟んだ客と亭主という関係だけでなく、今池界隈の飲み屋で、肩を並べて飲んだことも幾度かある。

 そんなわけで、「お前も俺のところで何か書け」ということになって、豚もおだてりゃ木に登るで同社から本を出してもらったのがもう20年以上前になる。
 その本は、一日14時間労働という厳しい条件のなかで書き急いだのと、私自身の未熟さで失敗作に終わり、稲垣さんの会社には迷惑をかけたが、それにもかかわらず、今日まで温かいお付き合いをさせていただいた。

 絵を頂いてから、もう一度、亡くなられる10日ほど前、同人一同とともに会ったが、11月には終刊の打ち上げを兼ねて、岐阜は長良河畔で会えることをお互い楽しみにしていたのに・・・・。
 一番最後に、どんな言葉を交わしたのか覚えてないない。
 当分は、稲垣さんがくれた絵に向かって話しかける以外ないのだろう。

 いろいろな別れが続き、冬へと向かう。寂しいことだ。 





コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする