ネットの普及によって私たちのニュースに接する機会は多様化し、そのニュースバリューの判断の基準も拡大されてきたといってよい。
しかしながら、まだまだニュースの取り扱いに関しての主導権はマスメディアが握っている。彼らがどれだけのボリュームをそのニュースに与えるか、あるいは、どんな優先順位を与えるかは、暗黙のうちにそのニュースの価値や重要性を規定しているといってよい。
舛添バッシングが過熱している。例によって「週刊文春」のスクープに始まったそれは、各紙誌など紙媒体や、電波を動員してとどまるところを知らない。このぶんでいったら、詰め腹を切らされる事態に至るかもしれない。
この件に関しては、政権や選挙時の母体であった自公の与党側からの扱いも極めて冷淡で、擁護どころかどこか突き放した感もある。どうやら、私どもには分かりかねる裏での権力闘争も絡んでいるようだ。
もうひとつは、清原の麻薬使用に関する裁判の扱いである。逮捕時には一定の衝撃があったかもしれない。しかしこれとても、「やっぱり」という感があったのだ。ましてや今回はその後始末的な問題にすぎない。有罪・無罪が争われる問題でもなく、何年かの有罪判決が出され、それを少し上回る執行猶予がつくことははじめったらわかりきったことなのである。
にもかかわらず、NHKは昼も夜も、これをトップニュースとして取り扱っている。内容も「子どもたちの夢を壊した」という通り一遍の薄っぺらな倫理観を付与しての報道に終わるという始末で、こんなものは芸能ニュースの部類で十分なのだ。
とはいえ、舛添氏や清原氏を擁護しようと思ってこれを書いているわけではない。
これらの過程のなかで、少なくとも17日のニュース関連のなかで、まったくか、あるいはほとんど報じられないニュースの存在が気になるからである。
それは五輪誘致にかかわる贈賄問題についてである。
シンガポールのアパートの一室に、その時期だけ開設され、いまやその所在も明らかではないコンサルタント会社への2億3,000万円の送金は、健全な常識から見れば、賄賂配布のためのペーパーカンパニーへの送金であることは明らかなのだ。
しかし、事態がおぼろげになるところまでは報じられたものの、その後の続報や突っ込んだ報道は一切ない。
このメディアの態度が何なのかは明らかだ。
政財界はもちろん、スポーツとは無縁なその経済効果や利権の配分など、この五輪を食い物にせんと虎視眈々と狙っているのだが、マスメディアもまた同様なのだ。その放映権をめぐり、また周辺の報道をめぐり、いまやその体制を確立し、スポンサーも取り付け、その成果を摘み取るべく万全を期しているのだ。
だから彼らは、外信が伝える範囲は片隅のニュース扱いで報じるが、自らそれを掘り下げようとは決してしない。そんなことをして、もし五輪が召し上げられることにでもなったら元も子もないからだ。
この種のビッグイベントが、サッカーのワールドカップを始め、カネまみれの土壌の上にしか不可能であることは常識であったといってよい。
しかし、この国で行われるそれが、これほどまでに赤裸々に暴かれようとしていることは今回が初めてである。
だからそのおこぼれに預かるマスメデイアも沈黙か腰が引けた報道しか行わない。
そこでこんな設問をしてみるのはたぶん野暮の骨頂なのだろう。
カネまみれの「アンフェアー」な手段でかちとった五輪と、清原氏の麻薬使用(容疑)とは、どちらが青少年の夢を壊すのであろうか。
五輪のそれを「異常な事態」とはけっして捉えないメディアは、青少年に対し、「金こそがすべて」というこの世のきわめてリアルな実情を教えてくれているのだろう。
私にとって、真のオリンピックの栄光は、メキシコ五輪の陸上男子200メートル競技で、1位と3位に入ったアメリカの黒人選手たちが、人種差別に抗議して表彰台で演じたパフォーマンスである。IOCはそれを「国内問題を五輪に持ち込んだ」と退けたが、ここに人種問題に対するIOCの鈍感さがあった。
なお、その折、2位に入ったオーストラリア選手(白人)も彼らのパフォーマンスに同調したのはとても清々しかった。
彼らはそれぞれ、その後の人生でそれらの行為を負荷として強いられたが、それに怯んではいなかった。
彼らこそ、真のメダリストといっていいだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88
しかしながら、まだまだニュースの取り扱いに関しての主導権はマスメディアが握っている。彼らがどれだけのボリュームをそのニュースに与えるか、あるいは、どんな優先順位を与えるかは、暗黙のうちにそのニュースの価値や重要性を規定しているといってよい。
舛添バッシングが過熱している。例によって「週刊文春」のスクープに始まったそれは、各紙誌など紙媒体や、電波を動員してとどまるところを知らない。このぶんでいったら、詰め腹を切らされる事態に至るかもしれない。
この件に関しては、政権や選挙時の母体であった自公の与党側からの扱いも極めて冷淡で、擁護どころかどこか突き放した感もある。どうやら、私どもには分かりかねる裏での権力闘争も絡んでいるようだ。
もうひとつは、清原の麻薬使用に関する裁判の扱いである。逮捕時には一定の衝撃があったかもしれない。しかしこれとても、「やっぱり」という感があったのだ。ましてや今回はその後始末的な問題にすぎない。有罪・無罪が争われる問題でもなく、何年かの有罪判決が出され、それを少し上回る執行猶予がつくことははじめったらわかりきったことなのである。
にもかかわらず、NHKは昼も夜も、これをトップニュースとして取り扱っている。内容も「子どもたちの夢を壊した」という通り一遍の薄っぺらな倫理観を付与しての報道に終わるという始末で、こんなものは芸能ニュースの部類で十分なのだ。
とはいえ、舛添氏や清原氏を擁護しようと思ってこれを書いているわけではない。
これらの過程のなかで、少なくとも17日のニュース関連のなかで、まったくか、あるいはほとんど報じられないニュースの存在が気になるからである。
それは五輪誘致にかかわる贈賄問題についてである。
シンガポールのアパートの一室に、その時期だけ開設され、いまやその所在も明らかではないコンサルタント会社への2億3,000万円の送金は、健全な常識から見れば、賄賂配布のためのペーパーカンパニーへの送金であることは明らかなのだ。
しかし、事態がおぼろげになるところまでは報じられたものの、その後の続報や突っ込んだ報道は一切ない。
このメディアの態度が何なのかは明らかだ。
政財界はもちろん、スポーツとは無縁なその経済効果や利権の配分など、この五輪を食い物にせんと虎視眈々と狙っているのだが、マスメディアもまた同様なのだ。その放映権をめぐり、また周辺の報道をめぐり、いまやその体制を確立し、スポンサーも取り付け、その成果を摘み取るべく万全を期しているのだ。
だから彼らは、外信が伝える範囲は片隅のニュース扱いで報じるが、自らそれを掘り下げようとは決してしない。そんなことをして、もし五輪が召し上げられることにでもなったら元も子もないからだ。
この種のビッグイベントが、サッカーのワールドカップを始め、カネまみれの土壌の上にしか不可能であることは常識であったといってよい。
しかし、この国で行われるそれが、これほどまでに赤裸々に暴かれようとしていることは今回が初めてである。
だからそのおこぼれに預かるマスメデイアも沈黙か腰が引けた報道しか行わない。
そこでこんな設問をしてみるのはたぶん野暮の骨頂なのだろう。
カネまみれの「アンフェアー」な手段でかちとった五輪と、清原氏の麻薬使用(容疑)とは、どちらが青少年の夢を壊すのであろうか。
五輪のそれを「異常な事態」とはけっして捉えないメディアは、青少年に対し、「金こそがすべて」というこの世のきわめてリアルな実情を教えてくれているのだろう。
私にとって、真のオリンピックの栄光は、メキシコ五輪の陸上男子200メートル競技で、1位と3位に入ったアメリカの黒人選手たちが、人種差別に抗議して表彰台で演じたパフォーマンスである。IOCはそれを「国内問題を五輪に持ち込んだ」と退けたが、ここに人種問題に対するIOCの鈍感さがあった。
なお、その折、2位に入ったオーストラリア選手(白人)も彼らのパフォーマンスに同調したのはとても清々しかった。
彼らはそれぞれ、その後の人生でそれらの行為を負荷として強いられたが、それに怯んではいなかった。
彼らこそ、真のメダリストといっていいだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88