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NHKはどこへ行こうとしているのか?その「公共性」を巡って。

2014-01-27 17:39:58 | インポート
 写真は内容とは関係ありません。

 NHKの新会長に 籾井勝人という何やらきな臭いひとが就任し、右寄りのイデオロギー満載の記者会見を行って物議をかもしている。かてて加えて、同様に、新しく経営委員に任命された百田尚樹氏が都知事選では田母神氏支持とあって、さながらネット右翼にも似た人びとがNHKを占拠したかのようである。
 かねてより、NHKの支配を狙っていた安倍首相の念願がかなったといっていいかもしれない。

           

 それに応えて籾井勝人新会長は、「政府が右というものを左とはいえない」と早速エールを送っているから、かつて大本営発表をそのまま流していたような体制の下地が整ったわけだ。ようするに、NHKの「政府広報機関化」といえるかもしれない。
 だとしたら、NHKはもはや視聴料をとってはいけない。どこの地方自治体でも、広報誌などを住民に有料で売りつけたりはしない。政府の広報機関に徹するのなら、まさに国営放送として国が運営し、視聴者に経費を分担させることは許されないだろう。

           

 籾井新会長の危険性は、NHKを政府の広報部門にし、あまつさえ、自らの信仰するイデオロギーを押し付けようとする点にもあるが、そのもっとも危険な点は「公共性」という言葉についての徹頭徹尾の無理解にある。

 いっておくが、「公共性」ということは「中立性」ということではない。「中立性」ということであれば、この籾井というひともその会見の中で一応は語っているし、自分では本当にそう思っているのであろう。左右いずれのイデオローグであれ、自分が偏向しているなどとは思ってはいないはずだ。まさに自分こそが真性の中立だと思っているし、それがまたイデオロギーというものの特質でもある。

           

 では公共性とはどういうことか。上に述べた「不偏不党、中立性」という含意も多少はあるが、政治的見解やある種の利害関係を含む問題についていうならば、モノサシで測ったようにその中間点などを見出すことなどはできない。せいぜい極論を慎むといった消極的なものにとどまる。
 公共性とは、そうした中間点を求めるのではなく、それも含めてある特定の固定化した着地点そのものを示さないことである。ようするに、人びとの多様性、複数性に応じて開かれてあることこそが肝要なのである。

           

 したがって、籾井新会長の特定のイデオロギー(本人はそれを中立だと思っているが)への偏向それ自体もだが、むしろ、政府見解を柱とした一定の着地点へとその姿勢を固定しようとすることにこそ問題はある。そこにおいては、人びとの多様な見解、複数の利害などが、NHKの考える中立性(=政府見解)へと収斂されることによって無視や抑圧が生じることとなる。
 したがって問題は「中立性」ではなく、そうした多様性、複数性の存在が許容される「公共性」の維持にこそあるといわねばならない。

 極論すれば、新会長が極右であろうが極左であろうが構わない。その役職上、NHKの経営に関しての責任のみをまっとうすればいいのであって、報道や番組に関してはその着地点を示唆するようなことを一切せず、そのスタッフと視聴者の双方向の意見交換の中で生み出されるものに任せればいいのだと思う。そしてそれが公共性のあるべき姿だと思う。

           

 テレビなどの媒体は今、双方向の機能を備えつつあるが、それらは、クイズ番組などの回答など、ちまちまとしたところでしか用いられていない。多数の見解を持った人たちが参加し、番組そのものを制作するところまでゆかないと「双方向性」自体が視聴者支配の小道具になりかねない。

 上に述べたのは「公共性」への原則的な立場であり、それを踏まえながらも、現実に進行しつつある、安倍―籾井ラインによるNHK支配から目が離せないことはいうまでもない。 

コメント (5)
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