もうなんじかんもしたら、おてらのかねがゴ~ン、ゴ~ンとなってお正月がくるというおおみそかのことでした。
六さんはふとげんかんをあけて外へでました。りっぱなかどまつやシメカザリはないけれど、こころづくしの花などをげんかんにかざったので、こんなことでお正月さんがきてくれるだろうかと気になってみにいったのです。
六さんはもうおじいさんです。ですから、お正月がくるといってもすこしふくざつなきもちがあります。あたらしい年をむかえることができるというよろこびと、あとなんかいお正月をむかえることができるのだろうかというおもいがいっしょになってやってくるのです。
六さんのいけた花はナンテンの赤いみをちゅうしんにきれいにかがやいています。六さんはすこしあんしんしてうちにはいろうとしました。そのとき、ゆうびんうけに、大きなふうとうがはいっているのをみつけました。
それは、A4という紙の大きさぐらいで、ふつうのときならせんでんやらなにやらでそんなゆうびんぶつがよく来るのですが、こんなおおみそかに来るのはめずらしいことだとおもいました。
このくれにこんな大きなものをおくってくるのはだれだろうとおもってふうとうのうらをみると、ネットでしりあった北のまちにすむ女のひとのなまえがかいてありました。あったことはないのですが、もうなんねんもまえからいろいろネットでおはなしをしていて、まるでずっとまえからのおともだちのようなひとです。
さっそくへやへもってかえってふうをきりました。すると中から、大きな絵本がでてきました。絵本といっても本やさんでうっているものではありません。絵も字も、そして本のとじかたもまったくの手づくりの絵本なのです。
さっそくよみはじめました。「まりちゃん」という女の子がしゅじんこうで、お話はおもちつきの日のことです。そのおもちつきのお話は、ちょっとしたちがいはありましたが、六さんが子どものころ、そかいをしていたいなかでのおもちつきとそっくりでした。やはり、つきたてのおもちをダイコンおろしといっしょにすすってたべたり、あんころもちでたべたりしました。きいろいアワもちや、すこし赤みがかったキビもちなどのおもいでもどんどんひろがって、まるでまりちゃんといっしょにおもちつきをしているようでした。
絵本の絵もとてもあたたかいものでした。出てくるおじいさんやおばあさんのかおつきもとてもいいのです。え?まりちゃん?それはもうまりちゃんもとてもかわいいのですよ。
それにおだいどころのおクドさんや、おじいさんがいまもなおだいじにしている「のうきぐ」が六さんの子どものころのものとそっくりおなじで、とてもなつかしくおもいました。
おもちはだんだんかたまり、そのいちぶはうすくきられてほされ、カキモチになります。このあたりも六さんの子どものころといっしょで、「そうそう、そうだった」とうなづきながらよんだのでした。
そのうちに六さんはあることにきづきました。どうしてまりちゃんはおじいさんやおばあさんといっしょにいて、お父さんやお母さんは出てこないのでしょう。まりちゃんはとてもさみしい子なのではないでしょうか。
そうなのです。まりちゃんはどんなにおじいさんやおばあさんにかわいがられていてもやはりお母さんにあいたいのです。まりちゃんはお母さんにあえるのでしょうか。
でもあんしんしてください。このお話のさいごはこんなふうになっているのです。
「お母さんはまりちゃんのしらないにおいがしました。・・・・・・・・お父さんとお母さんがかえってくるんだ。そうしたらお母さんも、ワラとおもちのにおいになるだろうとまりちゃんはおもいました」
六さんはすこしうるうるっとしながらこの話をよみおえました。そしてもういちど、絵をながめました。こんなお話と、こんなすてきな絵がかけるひとはきっとこころやさしいひとだとあらためておもいました。
そして、いろいろくらい話はあっても、にんげんのよのなかもそれほどすてたものではないなとおもいました。そして、つくったひとのひとがらがつたわるようなこの絵本が、あたらしいとしをむかえる六さんのおまもりのようにおもえたのでした。
六さんは絵本から目をあげて、北のきびしいきこうのなかで、いろんなやさいや花をつくったりして、しぜんにやさしくいきているこの絵本のさくしゃのことをおもいました。絵本のなかにもあったように、きっと北のほうはゆきでしろくなっているにちがいありません。
まりちゃんもこの絵本のさくしゃも、かぜなんかひかないようにね、と六さんはつぶやくのでした。
フルフルトマトさん ありがとう!
六さんはふとげんかんをあけて外へでました。りっぱなかどまつやシメカザリはないけれど、こころづくしの花などをげんかんにかざったので、こんなことでお正月さんがきてくれるだろうかと気になってみにいったのです。
六さんはもうおじいさんです。ですから、お正月がくるといってもすこしふくざつなきもちがあります。あたらしい年をむかえることができるというよろこびと、あとなんかいお正月をむかえることができるのだろうかというおもいがいっしょになってやってくるのです。
六さんのいけた花はナンテンの赤いみをちゅうしんにきれいにかがやいています。六さんはすこしあんしんしてうちにはいろうとしました。そのとき、ゆうびんうけに、大きなふうとうがはいっているのをみつけました。
それは、A4という紙の大きさぐらいで、ふつうのときならせんでんやらなにやらでそんなゆうびんぶつがよく来るのですが、こんなおおみそかに来るのはめずらしいことだとおもいました。
このくれにこんな大きなものをおくってくるのはだれだろうとおもってふうとうのうらをみると、ネットでしりあった北のまちにすむ女のひとのなまえがかいてありました。あったことはないのですが、もうなんねんもまえからいろいろネットでおはなしをしていて、まるでずっとまえからのおともだちのようなひとです。
さっそくへやへもってかえってふうをきりました。すると中から、大きな絵本がでてきました。絵本といっても本やさんでうっているものではありません。絵も字も、そして本のとじかたもまったくの手づくりの絵本なのです。
さっそくよみはじめました。「まりちゃん」という女の子がしゅじんこうで、お話はおもちつきの日のことです。そのおもちつきのお話は、ちょっとしたちがいはありましたが、六さんが子どものころ、そかいをしていたいなかでのおもちつきとそっくりでした。やはり、つきたてのおもちをダイコンおろしといっしょにすすってたべたり、あんころもちでたべたりしました。きいろいアワもちや、すこし赤みがかったキビもちなどのおもいでもどんどんひろがって、まるでまりちゃんといっしょにおもちつきをしているようでした。
絵本の絵もとてもあたたかいものでした。出てくるおじいさんやおばあさんのかおつきもとてもいいのです。え?まりちゃん?それはもうまりちゃんもとてもかわいいのですよ。
それにおだいどころのおクドさんや、おじいさんがいまもなおだいじにしている「のうきぐ」が六さんの子どものころのものとそっくりおなじで、とてもなつかしくおもいました。
おもちはだんだんかたまり、そのいちぶはうすくきられてほされ、カキモチになります。このあたりも六さんの子どものころといっしょで、「そうそう、そうだった」とうなづきながらよんだのでした。
そのうちに六さんはあることにきづきました。どうしてまりちゃんはおじいさんやおばあさんといっしょにいて、お父さんやお母さんは出てこないのでしょう。まりちゃんはとてもさみしい子なのではないでしょうか。
そうなのです。まりちゃんはどんなにおじいさんやおばあさんにかわいがられていてもやはりお母さんにあいたいのです。まりちゃんはお母さんにあえるのでしょうか。
でもあんしんしてください。このお話のさいごはこんなふうになっているのです。
「お母さんはまりちゃんのしらないにおいがしました。・・・・・・・・お父さんとお母さんがかえってくるんだ。そうしたらお母さんも、ワラとおもちのにおいになるだろうとまりちゃんはおもいました」
六さんはすこしうるうるっとしながらこの話をよみおえました。そしてもういちど、絵をながめました。こんなお話と、こんなすてきな絵がかけるひとはきっとこころやさしいひとだとあらためておもいました。
そして、いろいろくらい話はあっても、にんげんのよのなかもそれほどすてたものではないなとおもいました。そして、つくったひとのひとがらがつたわるようなこの絵本が、あたらしいとしをむかえる六さんのおまもりのようにおもえたのでした。
六さんは絵本から目をあげて、北のきびしいきこうのなかで、いろんなやさいや花をつくったりして、しぜんにやさしくいきているこの絵本のさくしゃのことをおもいました。絵本のなかにもあったように、きっと北のほうはゆきでしろくなっているにちがいありません。
まりちゃんもこの絵本のさくしゃも、かぜなんかひかないようにね、と六さんはつぶやくのでした。
フルフルトマトさん ありがとう!